表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国の鈴木さん  作者: capellini
第7章 埋み火編「甲斐の虎」
101/173

第93話 1530年「国人」◆◇

 三河と尾張では、親松平の土豪や、鈴木家の本貫地召し上げ措置を警戒していた土豪たちも、徐々に臣従してくるようになっていた。

 それにはいくつか理由があるだろうが、大永8 (1528)年に重勝の子で松平宗家の血を引く竹千代が生まれ、同時に松平菩提寺の大樹寺が再興されたことがある。

 そして、そのほかにも、名門の吉良家ですら鈴木家にこうべを垂れ、銭を借りて治水に励んでいるのを見たのも大きかったかもしれない。

 即戦力になる侍を集めることは尾張侵攻に有利である。仮にこうした新参者たちの規律が不十分でも、せめて兵糧輸送の護衛くらいにはなるだろう。鈴木家上層部の見解はこうだった。


 ◇


 大永年間は、鈴木家の勢力下にありながら従属していない勢力というのは少なくなかった。

 鈴木家の本拠地の一つである岡崎城から東へわずか1刻(2時間)足らず歩いた山中の秦梨村には、粟生将監永信なる者が住んでいた。


「六名の杉浦が鈴木家に仕官したか。とはいえ、やつは所詮は他国より移り住んできただけの者。土地を手放すことにもためらいはないのだろう。」


 粟生は、国人たちの鈴木氏臣従の流れを見て、焦りをにじませた声音で独り言ちた。

 六名は岡崎近くの集落で、その地の住人・杉浦とは、名を政次といい、宇津忠茂の娘婿である。宇津の推挙を受けて、その与力として働くことになっている。

 同様に、鈴木家中・高木宣光の推挙で、同族の高木重正も仕官した。重正は鈴木家と敵対した内藤氏の妻を持つが、それを見て同じく敵対した天野氏の妻を持つ平岩親重も仕官を申し出てきた。

 身内からの仕官者は従属諸家でも盛んで、例えば、鈴木家重臣・熊谷氏の親族衆・松平信長の配下には板倉頼重の子・板倉好重少年が加わり、足助鈴木氏にも成瀬家から嫡男・正頼が出仕した。


「されどこの秦梨は、我が先祖の四郎入道様が尊氏公の御父君より郷司職をお認めいただいて以来のもの。おいそれとは手放し難し。なんとか秦梨を手中にしたまま鈴木に仕官できぬものか。」


 鈴木家に仕えれば本貫地の規模に応じて禄高が与えられるとはいえ、禄高などという形のないものはいらないから、先祖伝来の土地を失いたくないというのが彼の本心である。


「それにしても、岡崎周りの村の乙名は、年貢支払いと引き換えに買った札を軒先に高々と掲げて偉ぶっておる。飢饉や洪水のとき、あるいは病にお産のときと、確かに鈴木はよく世話しておるが、者どもは少々浮かれ過ぎではないか?」


 粟生は口では不平のようなことを言っているが、それは、岡崎周辺に出ては鈴木家に従うようになった侍や村がどのようになっているのかをつぶさに観察したからこそ出てくる言葉である。

 そしてこのような憎まれ口は、結局、羨ましいという気持ちからくるものだった。


 村の乙名は鈴木家の一領合力講から年貢支払いのとりまとめ役を任され、きちんと納めれば鈴木家から「有徳長者」「善心大尽」といった表札を与えられて賞賛される。

 窮民は奉行所の者から「年貢のおかげで貧者や病人の世話ができるのだ」と聞かされて、素直に乙名に感謝を述べるから、乙名の自尊心は大いに満たされていた。

 彼ら村の有力者は、確かに村自体や鎮守社、入会地の差配を勝手にできなくなったが、講の寄合は乙名を招いて意見を求めてくるし、開墾や出兵の際には乙名の口利きを無視しない。

 村では毎年の病死者・餓死者が減った。種籾を得るにも、高利で借りたり土地を手放したりせず、講に属する蔵本から低利で借りることができる。災害で収入がなくなっても義倉から手当が出る。

 村々は間違いなく雰囲気が明るくなっていた。


「近頃の侍連中もどうしてしまったのだ?商人の真似事をしておるような者もおれば、なんだかわからぬ小旗や具足羽織をこれ見よがしに見せびらかして村々を巡回する者もおる。はあ。」


 鈴木家に好んで従い、小事を申し付けられて誇らしげな者たちを理解できず、粟生は嘆いた。

 粟生が言っているのは、講に属して帳簿・人足の管理や警邏の業務を行う者たちのことである。

 村の雰囲気が明るいのは野盗の類が減っているからでもあるが、それは講に属する僧兵・地侍・農民兵の見回りのおかげだった。


 これらの者は、当初は何の統一性もない集団で、武器を持って村や町に近づいてくるため、時々、盗賊に間違われたり住人と険悪な関係になったりすることがあった。

 そこで鈴木重勝は対策として、講ごとに指定された色で、鈴木家に所縁の稲穂をかたどった紋を伴う具足羽織や槍先につける小旗などを作り、講所属の武人に支給するようになった。

 それはなかなか高価な品であり、臣従によって土地やこれまでの権力を手放した者たちも、その埋め合わせに禄とは別で形あるものを得られるとあって、好評だった。

 これらにより、彼らは巡回先で不審者とみなされにくくなるだけでなく、所領を手放した侍たちが土地や由緒とは別の、新しい名誉や帰属意識を持つのを助けることにもなっていた。

 人の役に立っている、感謝されている、そういう組織で働いている、こういった感覚である。


 彼らは治安維持と称して時々逸脱行為をしでかすが、例えば、厳密には鈴木家の土地ではない粟生の秦梨村に来て、装束を見せびらかしつつ、勝手に見回りをしようと押し入ったこともある。

 もちろん粟生は追い出したが、そのときの一団が粟生に向けた「まだこちらの暮らしを知らぬか、憐れな者よ」という残念そうな視線を、彼は忘れられないでいた。


 ◇


 粟生はじっと鈴木家のやり口を観察していたが、あるとき近所の蓬生村の住人・小島源一郎正重なる者が、怪しい動きをしているのに気づいた。

 粟生家が世話をしている古部郷の山奥の須佐之男神社の、さらに向こうの谷で、小島の手の者が開墾をしているというのだ。

 粟生の認識ではかの地は自家のものであり、「どういう腹積もりなのか!」と憤慨したが、小島の立場になってみたとき、かの者が何を考えてそんなことをしているのかが手に取るように分かった。


「定めし、やつは鈴木への臣従を決めよったな?臣従すると領地の(たか)で禄が決まるという。臣従する前に少しでも高を増しておこうというのであろう。」


 粟生家と小島家の関係は微妙なものである。

 小島家は足利将軍の奉公衆の出自を主張し、粟生家の後に古部郷蓬生の地に移り住んだが、独立の領主を自任している。歴代の小島氏の開発により、古部郷では蓬生が一番栄えている。

 一方の粟生は、足利氏から安堵されたのは確かに古部郷でなく秦梨郷だけであるが、古部郷も実質的に自分の支配下にあると認識していた。

 そうなると、小島は粟生の配下と言えなくもないのである。


「そちらがその気ならば、我らもやりようはある。抜け駆けして鈴木に臣従して直臣になろうというのであろうが、そうはいかぬ。小島源一郎、おぬしはそれがしの臣でなければならぬのだ!」


 粟生は事ここに至って鈴木家への臣従を決めた。

 ただし、「小島が己の配下に属すという形で」である。

 彼は端的に言って小島家の蓬生村がほしかった。普通なら武を以て小島を従えるか、追い出すかしなければ、これを手に入れることはできない。

 しかしいま「小島は自分の家臣なのだ」と主張して鈴木家に臣従すれば、鈴木家に「粟生家が元々はこの地の支配者だったのだ」と認めてもらうことができるだろう。

 臣従して所領を召し上げられるとはいえ、それは戦功次第で返ってくるはず。それなら今は、秦梨と古部の2郷の支配の名目を確保する好機だ、と判断した――もちろん勝手な思い込みなのだが。


 ◇


 粟生は、小島の領民が開墾作業を一段落させるのを見計らって、兵を率いて開墾地に出向いた。

 「小島は自分の家臣だ」と主張して鈴木家に臣従するにしても、「彼らの勝手を成敗したことがある」という実績を用意しておいた方がいいと考えてのことだ。


「やい!うぬらは誰に断ってこの古部の地で勝手をしておる!」

「おや、これは粟生様。小島の殿様が土地を広げてみりん(みなさい)()っておられたもんでなあ。なんぞいかんこと、ありますか?」


 開拓の指揮を執っているらしい大柄な男が出てきて、粟生一党の前に立ちはだかった。

 その後ろでは、蓬生村へ慌てて駆けていく農民の姿が見えた。


「おい、待て!どこへ行く!うぬ、この者らのまとめ役であろう!引き止めよ!」

「ほやあ、粟生の殿様がそんなおそがい(恐ろしい)顔して刀ひっさげておるだもんで、しょん(しょうが)ないじゃんね。」

「なめくさりおって。小島を呼びに行ったのは丸わかりだ!一戦交えようというのか!退去せんなら、うぬら、どうなっても知らんぞ!よいのか!我らはやるぞ!」

「よかあござらねどもね、ここは俺らあで開いた土地にござるで、あんたがたに好きにさす(させる)のはなあ。」


 そう言って時間を稼ぐ男の左右からは、農具を持った手下がにじり寄る。男を守るような格好だ。


「やる気か、この慮外者どもめ!この地は代々粟生の地なれば、どちらが悪かはそこなる須佐之男の神がご照覧になっておられよう!神意は我らにあり、者どもかかれ!」


 粟生の口上を聞いた小島党の面々は後ろめたく思って浮足立ったが、大男は物ともせずに足元の桶を蹴りあげて粟生に飛ばし、粟生がまき散らされた泥でひるんだ隙に下がって刀を手に取った。

 かくして、粟生党と小島党の小競り合いが始まったのである。


 ◇


 大須賀正綱、渥美友元、坂部正家、久世高長、大岡助勝。岡崎に仕官してきた武者たちの名である。

 小栗忠吉、田中末広。これらは早くも奉行所付として働きだした新参者たちである。

 鈴木家のやり口になじまない新参者が一気に増えれば、生じるのは喧嘩である。

 上級の訴訟受付窓口である岡崎町奉行を拝命している近藤忠用は、一連の流れで仕事量が増したうちの一人だった。

 近藤は、粟生と小島の喧嘩のあらましを記した天恩寺の僧侶の書状を読み終えて言う。天恩寺は係争地の近くにあって、一帯を管轄する一領合力講(官衙講)に参加している寺である。


「当家に従ったばかりの武家同士の争いが和解に至らず長引いておって、という話であっておるか?」

「そのようにございまする。」


 属僚の小栗忠吉が答えた。

 臣従したばかりの国人同士の喧嘩を不用意に扱っては、他の国人の不信や謀反につながるため、一個の講ではそのような政治的な問題は扱いきれないと、岡崎まで話が持ち上がってきたのだ。

 粟生と小島の喧嘩は、すぐに鈴木家の警邏兵に見咎められて制止されたが、蓬生村の住人に死者が出て、彼らを束ねる小島源一郎は復讐を決して取り止めようとせず、話がこじれていた。

 こういう復讐の権利は全くもって合法であるから、たちが悪い。近藤は頭を抱える。

 喧嘩の正当性をめぐっても、小島は「開墾地は無主の地だった」と主張し、粟生は「先祖伝来の土地に含まれる」と主張し、双方全く譲らないようだ。


「ひとまずは両家の当主をいったん(あずけ)にしておりまする。」


 小栗の報告に、近藤は「うむ」と頷いて答えた。

 「預」とは判決が下っていない事件で当事者をどこかの武家に預けておく措置である。

 近藤は小栗に他事をしておくよう言い付けて下がらせると、自分は近頃配布された式目の解説書を片手に思案する。


 式目解説本は鈴木重勝が吉田兼満、中原康友、庭野学校の僧侶と協力して4年かけて作ったもので、「鎌倉殿の御世には相論は『和与』に至るが好まれた」という一節で始まる。

 ここで言う和与は、相論の当事者双方が妥協して和解する示談のようなものである。和与を重視するこの解説書は、式目すべての内容の解説は諦め、示談を暴力を使わずに手早く導くために作られた。

 実際、刑事罰に関する部分などは簡単にしか書かれていない。

 ただし、この手引書は、訴訟を素早く処理できる新しい手続きを提供するとかいうのではなく、未熟な奉行人もこの手引書を使えば最低限の仕事ができるようにするためのものだった。人を増やし、数の多さで問題を処理しようというわけだ。

 また、かつて幕府が業務の多さで難儀したのを受けて、訴訟抑制のために、式目36条から「正当な理由なしに争いを起こす者は、請求財産の半分を相手に渡す」という慣習と、式目8条から「20年より前の由緒を持ち出して地財の回復を求めてはならない」という原則を述べ、それを奉行人が管轄地域で周知することを要求している。

 その後は、係争物を動産・不動産・債権などで分けて、訴訟当事者双方がどういう立場・状況にあるかでさらに場合を分けて、関連する措置をひたすら提示している。


「この場合は喧嘩両成敗がよさそうだが。」


 近藤が「双方が武力行使に出て、互いの主張を認めず、証文も証人も解決をもたらさない」という場合の解説を探すと、そこで見るよう促されていた対処法は「喧嘩両成敗」だった。

 この場合分けが書いてあるのが上下2巻本の上巻であり、近藤は下巻を取り出して「喧嘩両成敗」が説明された箇所を開いた。下巻は場合分けのところで記された諸項目の解説書となっている。


「ふむ、そも両成敗は『相論の際には故戦(こせん)(私闘を仕掛けること)に至らず万事を大名の検断に任せるべし。裁く際には双方にそれぞれ理非があるゆえ折中が望ましい』という話から来ておるのか。

 故戦も防戦も、大名の支配に反して勝手に戦ったことそのものが罪であり、双方を罰するはそれが理由となる。近頃はかつてよりも理非を論ぜず厳しく罰することとされるが、元来はどちらの非が大きいかで罰の軽重を定めた。

 過度な防戦をせずに身を守った者や、やむを得ず故戦に至った者が問答無用に罰せらるるは不憫。理非を正しく弁別できれば、それに越したことなし。ゆえに『酌量』『理非』の(ページ)を見よ、とある。」


 近藤は解説に従って「理非」の項目が書かれた箇所を開いた。


「理非を調べるに、双方の言い分の正否を定めがたきこと多し。かくなっては最後に『湯起請』『火起請』が用いられる。人知でわからぬものを神に決めてもらうわけだが、人知でわかるに越したことなし。」


 当事者双方が、湯起請では熱湯で茹でた石を持った後のやけどの大小で、火起請では熱鉄を持って進んで神棚に供えられるかどうかで、主張の勝ち負けを決めるものである。

 近藤も解説の物言いに「それはそうだ」と頷く。


「双方の言い分を調べるには証文が第一。詳しくは『証文』の丁へ。なれど、大概は証人が用いられる。こたびは一応、粟生の証文があるにはあるが――」近藤はそう言って「証人」の箇所を開いた。

「証人は3人以上、第一に問題の事柄や財産に直に関わる者、次にその地に長く住まう物知りな古老、やむを得ぬときは訴人・論人(原告・被告)の人柄をよく知る者を召し出すべし。

 彼らが答えを示し合わせぬよう、一人ずつ部屋に閉じ込めて問答すべし。同じことを何度も尋ね、矛盾あるときは疑い、真実を得べし。ただし、拷問は答えを歪めるため、避けるべし。また、真偽を確かめに奉行は手の者を現地に送って検分させるもよい。

 証人が対価をもらって口裏を合わせるか、領主に不利な話をして後で害されるを恐れるときあり。ゆえに誰が召し出されたかを訴人・論人に隠し、嘘を述べれば処罰されると諭し、必要に応じて起請文を書かせ、領主の不利を述べた後は転居の面倒を見てやるべし。

 ……なるほど。」


 実のところ、証人尋問の手続は式目によらず、重勝が勝手に書き込んだものである。「証人が大事なのだから、その手続きを詳しく書いておくべきだ」というのが重勝の考えだった。

 近藤はそうとは知らずに、ただ「何とも手間のかかる話だ」とだけ思ったが、今回のように三河の諸国人の注目を集めている事件では、丁寧にやってみてもいいだろうと判断した。

 彼は小栗に調査を命じると、自分は次の訴訟の処理に取り掛かるのだった。


 ◇


「それで、どうであったか」近藤が小栗に尋ねる。

「まず堺(境)のことにつきては、粟生将監の証文に、嘉元3 (1305)年の足利貞氏公の秦梨郷安堵状と、先ごろ永正年間に父より得た譲状の2つござって、争うところの古部郷はこの譲状でのみ粟生のものとされておりまする。」

「ふむ、なれば小島何某が悪いな。これで落着か。」

「いえ、お奉行殿。譲状は裏書もありませぬゆえ、正直に受け取ってよいとは限りませぬ。

 かの地に手の者送り申したところ、古部郷蓬生での小島の支配は周知のことにござりました。とはいえ、開墾地近くの須佐之男社は確かに粟生の支配下にあり申した。

 なれば、粟生が小島の主君か否かが肝要。」


 小島が古部郷の一部を支配していても、郷全体の支配者が名目上粟生であれば、粟生の配下の小島が主君に黙って勝手をしたということで話が終わるからだ。


「ふむ、していかがなりや」近藤はあごひげをよじった。

「小島から粟生に毎年納めるものなどはありませぬゆえ、家臣とは言えますまい。つまり、確かなのは神社周辺は粟生のもの、蓬生は小島のもの、小島は独立領主、となりましょう。」

「ふむ、それで双方は納得するか?」

「納得させる理由を得べく、手引書の通り証人を密かに集めて尋問いたしたところ、小島は『神社が粟生の世話になっておる』と知っており、粟生は小島の開墾の終わりを待って攻めたとの由。

 発端の小島の開墾に非あり、粟生は欲深の非と故戦(先制攻撃)の非あり。しかも、粟生に害された者の復讐の分も、粟生は贖わねばなりますまい。」

「聞く限り、双方の理非は同じくらい、復讐の贖いの分を粟生に多く求めるといったところか。」


 小栗はそれに「はい」と返事をした。

 近藤は小栗の丁寧な調査を信頼に値するとみなし、調査結果を伝えて両者の了承を事前に取り付けると、岡崎の町の中心で理非の詳細とそれを踏まえた沙汰を公表した。

 結局、小島は蓬生を本貫地とする鈴木家直臣となったが開墾地を失い、粟生は開墾地を得て古部郷司職を認められたが、小島に復讐を放棄する分の贖い金10貫文を支払い、両者ともに鈴木家の検断権に頼らずに勝手に私戦を行った廉で、禄から5年間毎年2貫文を没収されることとなった。

 近藤は経緯を記した文書を作って裏書して両当事者に与え、1通を奉行所に保管した。


 ◇


「ふう、なかなかいい仕事をしたのではなかろうか。」


 仕事をしたのはほとんど小栗であるが、町では「鈴木家の近藤奉行の裁判は公平だ」という声がちらほら聞こえるとのことで、近藤忠用は満足気に言った。


「あとのことは備中殿にお任せよ。」


 鈴木家でも最古参で宇利の住人だった近藤は、熊谷備中守実長とは気安い仲だった。先ごろは、彼の次男で鈴木重勝の元小姓・正直に娘を嫁がせる許可をもらっていた。

 その熊谷は、いつの間にか新参国人の人事を司るようになっており、近藤はついでとばかりに粟生と小島の扱いを任せたのだ。


 近藤がいい気分で岡崎の奉行所から供の者を連れて帰宅の途についたところ、「そこなお奉行様!」と、しわがれて甲高い女の声がした。

 供の者たちは「すわ何事!」と殺気だって近藤を守ったが、一行の眼前にくずおれるようにして出てきたのは、いかにもか弱そうな老女だった。少し離れて若い女もいる。

 近藤は大いに驚き「急にそのように飛び出てくるものではない!」と言い、刺客の可能性も捨てきれないため、供の者たちに囲い込まれた中から2人に声をかけた。


「ともかく何やらただごとならぬ様子、まずは用件を述べよ。」

「誠にご無礼いたしました。なれど、この身はいかようになろうとも、なにとぞわたくしめのお願いをお聞き入れくださいますよう」老女が怯えて声を震わせ、つっかえつっかえ言う。

「であるから、ともかく用件をだな……。」

「お義母様、ここはわらわが」若い方の女がそう言って、背後に隠していた稚児を前に引っ張り出すと、平伏して続ける。

「鈴木のお奉行様。これなるは、わらわの息・江原源太と申します。

 われらは矢作川の近く、江原の地に住まう者でございます。ここなる義母の夫、我が夫は相次いで世を去りまして、残るは幼きわらわの息のみ。

 義母とともになんとかやりくりしてまいりましたが、先の吉良様の矢作の堤防づくりの後に大水ありて江原は水没し、いよいよ立ち行かなくなってしまいました。」


 まだ5歳くらいに見える江原源太の祖父は文亀3 (1503)年に、父は大永6 (1526)年に死去し、祖母と母がなんとか家計をやりくりしてきたが、江原家は吉良家の矢作川治水の影響で完全に破産した。

 同じく破産した江原の下流の細池の住人・細井勝重なる者は、先に鈴木家に仕官して借財を帳消しにしてもらっていた。源太の祖母と母はその話を聞いて、こうして直訴してきたのだった。

 普通なら親族が助けてくれる。祖母も母も実家の縁を頼ることができるはず。

 しかし、祖母は内藤氏、母は渡辺氏の出だった。両方とも鈴木家と敵対して三河を追放された家々の出であり、実家の者たちは今や駿河在住。周囲からは腫れもの扱いだった。


「かようなご無礼は命を以て詫びねばなりませんが、なにとぞこの子だけは鈴木様のもとでお取立ていただきたく、こうして伏してお願い申し上げる次第にございます。」


 町中の人々の面前でこのようなことをされてしまっては、幼子を捨て置くという選択はできぬし、この憐れな女どもの命を取るなど、とてもできはしない。

 近藤は「おお、なんとも辛いことであったな」などと適当に同情して「我が殿ならばきっとおぬしら3人を保護してくれよう」と主君に丸投げし、ひとまず手の者に彼女たちの宿の手配を命じた。

 やがて鈴木重勝はこの家族を大変に憐れみ、東三河に引き取って借財を肩代わりして家まで与えた。そして、源太には庭野学校で教育を受けさせ、女2人には糸紡ぎの内職を斡旋したのだった。

【コメント】戦や外交の裏ではこんな感じです、という回でした。当時の法のことは頑張って調べましたが難しく、本作の内容は不正確な創作物です。真に受けないようにしていただけたらと思います。

 本話のポイントは、吉良家は懸命に治水に努め、堤防で確実に改善した部分があるにもかかわらず、「工事後の洪水はそうした工事のせいだ」と思われて評判を落とす、というところです。


【史実】江原少年の名・源太は一族からとった創作です。生年は不明ですが1614年没だそうです。粟生家と小島家の争いは1557-60年に実際にありましたが、内容は創作です。


【地図】喧嘩の係争地は岡崎の右の緑に食い込んだあたりです。また、地図の矢作川は現在の流路で書いてしまいましたが、岡崎左から「西尾」という文字の右側を南北に通るのが古い川筋です。「西尾」の文字の右上で川の東に「江原」、その少し左下で川の西に「細池(細井氏)」があります。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] さてもさても、今話は上出来と評する他なし! 素晴らしい。
[良い点] 今回のような地侍級の相論は歴史小説でも見かけることはそんなに多くなく、新鮮でまた興味深い話です。 重勝の内政が浸透しつつあることの一片を知れた意味でも良うございました。 [一言] 江戸時代…
[一言] 現代でも続く土地問題 この時代なら即殺し合いだもんな
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ