序 1525年「遺言」
大永5 (1525)年。
三河国八名郡庭野。
「翁、この遺言状を預かり文方にて代々伝えてはくれぬか。」
鈴木重勝は、物書きに長けた中原康友翁に書状を渡して言った。
文方は鈴木家中で文書を管理する部署の名である。
康友翁は朝廷で外記として文書仕事を担ってきた人物で、子がなく跡継ぎもいないため、弟にすべてを譲って、邪魔にならないよう三河に下向してきていた。
そして、彼は鈴木家でその文筆能力を活かして文方で働いているのだ。
翁は眉を顰め、困惑したように問うた。
「殿はまだお若くておじゃる。なにゆえ遺言状など……。」
「翁は先の道見大居士との戦はお聞き及びか?その、それがしがなしたことについて……。」
道見大居士は松平宗家の長親の三男・松平信定の法名である。
鈴木家は松平家と相争い、そのさなかに信定は戦没していた。
官吏として働くだけではなく、鈴木家中の者に読み書きを教えたり、重勝が買い集めている漢籍の講釈をしたりしている康友翁は、受講者たちから様々な噂を聞いていた。
「おおよそは受講者から聞いておじゃりまするが。ああ、『そういうこと』もあるやもしれぬと思し召されたのでおじゃるか。」
重勝は頷いた。
重勝も翁も「そういうこと」の詳細は口に出すのも憚られるため、あえて掘り下げず、翁は主君の懸念を理解したことを示すために、ただ頷き返した。
少しの間があって、重勝は突然切り出した。
「翁は胡蝶の夢をご存じか?」
「荘子におじゃりまするな。夢で蝶になって、という。」
「左様。荘子よろしく、それがしも幼き頃に夢を見たのだ。夢の中のそれがしはおそらく未来におった。」
「未来におじゃりまするか。」
「ちょっとやそっとではないぞ。数百年の先の話だ。」
「なんと!数百年とは!」
「長い夢だった。生れ、育ち、働き、死ぬ、すべてを見たのだ。その生においてそれがしは若き頃、学問所で史を学んだことがあった。そこで読んだ学生用の史書には、鈴木の『す』の字もなく、日本は織田と松平改め徳川の名の下に統一されたとあった。尾張と三河の両氏の名があって鈴木の名がないということは、滅ぼされたということだとそれがしは思うたのだ。」
そこまで聞いた翁は驚きに言葉を失い、そして、主君に神仏の加護があったのだと思って重勝に向かって手を合わせた。
とはいえ、それと同時にあることに気がついたこの老人の顔色は徐々に青ざめ始める。
「織田の当主は信長、松平の当主は家康といった。目が覚めた後、幼き頃のそれがしはそれらを探したが、かような者はおらなんだ。とはいえ、今はおらずとも何某かの子に産まれるやもしれぬ。ゆえに鈴木家を生き残らせるには両家を打ち倒さねばならぬのだ。」
翁は主君の身に降りかかった不思議な出来事に感じ入って嘆息して言う。
「まこと、その夢は神仏がお家の危機をお告げくださったということでおじゃりましょう。遺言状にはその夢のことを?」
「左様。織田信長、木下藤吉郎、松平家康、かの者たちを常に警戒せよと記した。その他にも夢でのことを認めておる。」
「遺言状のこと、確かに承りておじゃる。文方にて秘伝させましょう。さても、麿は一つ気になることがありておじゃりまする。」
何かを祈るようにしながら、小柄な体をプルプルと振るわせて翁は重々しく尋ねた。
重勝は頷いて先を促す。
「織田何某の治むるところとなりし世にては、主上と将軍様はいかが遊ばされておじゃりまするか?」
「うむ。帝は数百年の後までお栄えあそばすが、室町殿は世に騒乱の種をまき散らし、滅びることとなった。お家が残っておるかは某にはわかり申さぬ。」
翁は足利将軍の滅びる未来を聞いて絶句したものの、朝廷は生き延びることに大変に安堵した。
それからしばらく言葉もなく瞑目していたが、ふと思い至って、ぽつりと静かに聞いた。
「遺言状にはもしやそのことも?」
うむと頷く重勝。
翁は手元の書状にとんでもない内容が記されていることをよくよく理解し、このことはしかるべき者以外には決して口外しないよう固く誓うのだった。