5 外国人捕虜の娘
あれから二年が経ち、俺は14歳になった。
第二次世界大戦が勃発していた。
東京の母と妹は爆撃から逃れるべく、疎開したと聞いた。
一緒に住めたらと何度も思ったが、この状況での海路を使った長距離移動はリスクが高いと思われた。
長崎では東京に比べると空襲は少なかったが、戦闘機の音が聞こえるたびにビクつく毎日を送っていた。
そんな中でも、俺はあの寺に足蹴く通い子供達と仲良くする事に成功していたので、なんとか寂しさを紛らわせることが出来ていた。
長崎は様々な異国と交流があった土地だが、自分が思ってた以上に血塗られた土地である事を知った。
多くのキリスト教徒が西洋諸国から布教するために長崎に渡って来たが、幕府軍から迫害を受け虐殺された歴史を持つ。
また、現在は戦時中のため、異人は捕虜として日本軍に囚われ、長崎だけでも捕虜収容場が何十箇所もある事を知った。
フェリシアは捕虜になったオランダ人の娘だと知ったのは最初に会った日からしばらく経ってからだった。
フェリシアはたまに癇癪を起こし、お父さんにいつ会えるのかと泣きわめいたりもした。
俺はその度に胸が苦しくなり、どうにか出来ないかと思ったが抱きしめてあげる他なかった。
今や本当の妹の様に思っているのだ。
こう言う時代なので、自ら身を守れる様にと、俺と父は剣道や柔術を子供達に教えた。
凛太朗は、剣道と柔術を小さい頃から続けているので得意だった。
お寺には、フェリシアの様な外国人捕虜の子供もいたが、多くの子は混血しているのは分かるが、親が誰なのかも分からない様な孤児が多かった。
里子としての引き取り手もつかず、学校へ通ってもイジメに遭う事が多いと言う。
そういう子供たちは各地のお寺で面倒を見ているのだと伊織は言った。
伊織は高等部を卒業後、お寺のお手伝いのほか製糸工場でも働いた。
伊織の母は幼い時に亡くし、父は今年に入ってから風邪をこじらせたきり体の調子が悪いらしく、外にあまり出なくなっていた。
供養やお葬式の依頼も多かったが断ることが増えて来た。
伊織は戦争が始まっても、どんな時も笑顔を絶やさなかった。
辛い時ほど笑顔でひたむきに努力をする。
そんな日本人の美徳が時に痛々しく感じる時もあった。