一、駅弁
俺が普段からよく使っている最寄り駅は、昔から変な噂が絶えない不思議な場所である。
◇
「ねぇ知ってる?」
ガタンゴトンと揺れる電車の音に混じって聞こえてきたあどけない子供の声に、思わず耳をそばだてる。
すぐ近くで茶色いランドセルを背負った三、四年生くらいの子供達が喋っていた。
彼等なりに声を抑えているつもりらしいが、そこそこの声量に感じるのはご愛嬌だろう。
「頭不知駅の駅弁屋。閉店まで売れ残ってる弁当があったら、その弁当の肉はヤバい肉なんだって!」
「ヤバいって?」
「ミミズとか人の肉とか、そんなんらしーよ」
「マジかよ、やべぇー!」
キャッキャと無邪気にはしゃぐ姿にはそぐわない内容だ。
下らないと思ったのは俺だけではなかったようで、近くに座っていたご婦人も苦笑している。
そういえば古い都市伝説のまとめサイトで似たような話が載っていたのを思い出した。
某人気ハンバーガー店の肉がミミズが入ってるだの、謎肉だのってやつ。
よく考えなくても普通にあり得ない話だし、提供する店側からしたら営業妨害もいいところである。
子供達は「ヤベェヤベェ」を繰り返しながら「どの駅弁屋?」と興奮しきりだ。
そういえば頭不知駅には小さな駅弁屋が二件ほどあったっけ。
一つはサンドイッチやおにぎりなどが主に売られている小洒落た店。
もう一つは野菜天丼だの焼き肉弁当だのといった、ガッツリ系の古い店だ。
……多分後者だろうな。
「知らねーけど、多分ボロい方!」
「怖ぇー!」
いや知らないんかい。
こんなしょうもない話で盛り上がれるのだから子供って羨ましい。
そもそも地元でわざわざ駅弁なんて買う機会ないだろうし、怖がる必要なんてないのでは?
そう思った所で電車が駅に到着した。
──頭不知~、頭不知~。
あぁ、降りねば。
彼等も俺と同じ最寄りだったらしく、ワイワイと賑やかに降車していく。
「……駅弁ねぇ……」
旨そうだけど量の割りに高いんだよなぁ。
まだまだ食べ盛りの貧乏学生である俺には気軽に手を出せない系のメシである。
……今度実家に帰る時にでも奮発して買ってみるかな。
結局そんな考えなどすぐに忘れて授業とバイトに追われる事になるのだが、その数日後、あの子供達の話を思い出すような出来事が起きた。
◇
「はぁ……疲れた……」
この日は特に大変な一日だった。
単位を落とす寸前の必修科目が目白押し。
授業終わってバイトに直行。
しかも今日で六連勤目。
自分の采配ミスとはいえ、正直キツイ。
「腹へった……」
時刻は既に0時を回っている。
終電は確か0:14だったか。
電車が来るまで少し時間があるな。
ヘロヘロになりながら改札を通り、六番線ホームに向かう。
二年前に改装されたコンコースは綺麗なのに、一部の照明が古いままなせいでどこか薄暗い印象だ。
くたびれた様子のサラリーマンと座り込んでいる酔っ払いしかいない駅は少し不気味である。
普段は全く気にしない自身の靴音を響かせながら歩いていると、二件並ぶ駅弁屋の前にさしかかった。
古い方の店は丁度閉店作業をしている最中らしい。
四十代位の男性店員がシャッターを半分下ろした状態でカウンターを拭いているのが見えた。
──ふわり
空腹のせいでいつもより敏感な鼻が何かの匂いをキャッチする。
うわ、良い匂いだ──
そう思うと同時にグゥと腹の虫が鳴った。
?
っていうか駅構内の店って普通、もっと早く閉めないか?
こんな時間まで営業していたなんて珍しい事もあるもんだ。
──ふわり
あ、まただ。
メチャクチャ良い匂い。
何の料理だろう?
スパイシーというか何というか、肉の焼ける匂いだ。
物凄い食欲がそそられる。
少しガーリックも入ってるのかな。
あ、でも胡椒とかかもしれない。
よく分からないけど、とにかく旨そうで仕方ない。
とにかく旨そうで旨そうで
旨そうで旨そうで旨そう旨そう旨そう美味しそう美味そう美味そう美味そう旨そう今すぐ食べたい食べたい食いたい食いたい食いたい食いたい食わせろ食わせろ今すぐ旨そう食わせろ食わ
「いらっしゃいませぇ~。もし良かったらどーぞー」
「──え?」
いつの間にか足を止めていたらしい。
ハッとして見れば、弁当屋の店員が半分下りたシャッターから屈み込むようにこちらを見て手招きしていた。
ニコニコとした人の良い笑顔につられ、俺はフラフラと店に近付く。
「あの、この良い匂いは……?」
「いやぁ、ホントはもう閉店なんだけどねぇ。今日は丁度一個だけ弁当が売れ残っちゃったんですよぉ~」
「! そうなんですか!」
ふわりと漂う香りに「あぁ、やっぱりこの匂いはここの弁当屋のだったのか」と納得する。
商品棚にポツンと残る木目模様の四角い弁当箱が光輝いてすら見えた。
弁当の見本や写真等は無く、残念ながら中身は見えない。
ただ「焼き肉弁当」と書いてあるだけのシンプルなものだが、あまりにも良い匂いすぎて頭がクラクラする程だ。
しかもラスト一個!
俺は運が良い。
「良かったらいかがですか~?」と手で促され、俺は反射的に「いくらですか?」と口にしていた。
確か今日は財布に三千円位は入ってた筈だ。
これで買えなかったら値引き交渉しなければならない。
「こちらの焼き肉弁当はですねぇ、三千円になりますぅ~」
「じゃあ買います」
良かった、ギリギリ足りる!
やっぱり今日の俺は運が良い!
嬉々としてポケットから財布を出し、いざ支払おうと中身を見た俺は頭が真っ白になった。
中身が六百十円……だと……?
ここで一気に頭がクリアになり記憶が蘇る。
そういや俺、今日の昼に友達に三千円貸したんだったわ。
普段なら金の貸し借りなんて絶対しないけど、そいつは見た目はともかくしっかりした奴なので特別に貸したのだ。
理由も「どうしても今を逃すと買えなくなる参考書代の立て替え」だったしな。
こんな大金貸した事を何で忘れてたんだ、俺の馬鹿野郎。
さて、いつまでも硬直している訳にもいかない。
俺はニコニコしたままの店員におずおずと頭を下げた。
「……すんません。所持金足んなかったから、やっぱ買うの止めます」
値引きでどうこうなる額じゃない。
というか、そもそも俺は人生において一度も値引き交渉なんてやった事無かったし。
いくら腹減ってるとはいえ何であんなに必死だったんだ、さっきの自分。
ニコニコ顔の店員の笑顔が更に深まる。
「まぁでも廃棄するのも勿体無いですしねぇ、特別にお安くしちゃいますよぉ~」
「はぁ……」
商売人だなぁと思いながら相槌を打っていると、ピコンとスマホが鳴った。
こんな時間に誰だ?
何だか妙に気になり、そっとズボンの陰でスマホを弄る。
「お客さんは特別大サービス! 六百十円でお売りしちゃいますよ~」
「は──え!?」
やっっす! 買います!
と嬉しく思うのと、金を貸した友人からのお礼メッセージを見て冷静になるのはほぼ同時だった。
え、ちょっと待ってちょっと待って。
唐突な感情の同時進行に脳の処理が追い付かない。
一瞬「ラッキー」って思ったけど、普通におかしくね?
三千円がいきなり六百十円て、値引き具合があり得ないだろ。
あ、でもそんな事よりやっぱ良い匂い……
続け様にピコン、とスマホが鳴る。
──三千円は明日返す
何だよあいつ。
急ぎの用でもないのにいちいち面倒くせぇなぁ。
……ん?
そういやなんでこの店員、俺の所持金ピッタリを言い当てたの?
位置的に財布の中身なんて見えないだろうし、ちょっとキモくね?
「どうします~? お客さん。もう店閉めたいんですけどぉ~」
「あ、すんません。えっと……」
まぁ細かい事はどうでもいっか。
帰って何か作るのもダルいし、買っちゃお……
ピコン。
──お礼に明日寿司奢ってやるよ。回転寿司だけどな。
マジか!
寿司とか俺の一番の大好物なんだけど!
しかも人の奢りとかやっべぇマジテンション上がるわ!!
……あれ?
そういやさっきからあの良い匂いしてなくね?
さっきまではあんなにプンプン強い匂いを漂わせていたのに、鼻が慣れただけとは思えない程の無臭である。
「お客さ~ん?」
う~~ん……
あれほど魅力的に感じていた弁当が途端に怪しく思えてきた。
「あ、あの、俺やっぱり、」
止めときますと言おうと店員を見た瞬間、思わず「うっ」と短い悲鳴を上げてしまった。
その店員はニタニタと胡散臭さと悪意をないまぜにしたような、見たこともない満面の笑顔を貼り付けて俺を凝視していたのだ。
こっわ!
え、この人、最初からこんなキモい笑い方だったっけ?
よく思い出せないけどとにかく気味が悪いったらない。
「買いま…………せん。ごめんなさい……」
「そぉ~ですかぁ~。残念ですが仕方ありませんね~。それではお気を付けて~」
出来るだけ申し訳なさげに頭を下げながら踵を返せば、ニタニタとしたままの店員が「またのお越しをお待ちしておりますぅ」と会釈するのが横目で見えた。
……
…………
………………
いやいやいや!
何さっきの!?
ホームに着いた途端、さっきまでは微塵も感じていなかった不気味さと恐怖が一気に押し寄せてくる。
今となってはあの良い匂いがどんな感じのものだったか片鱗すら思い出せない。
「何なんだよ……」
だいたい貧乏学生のこの俺が迷う事無く三千円の弁当を買う決断を下す時点でどうかしてたのだ。
仮に五千円持ってたとしても悩むだろ、そこは。
まるで弁当を食べたい欲求に支配されていたような感覚に今更になって身震いする。
そしてここにきて漸く先日の小学生達の会話を思い出したのだ。
『頭不知駅の駅弁屋。閉店まで売れ残ってる弁当があったら、その弁当の肉はヤバい肉なんだって!』
「……まさか、な……」
判断力を鈍らせる程の肉って何の肉よ?
友人からの連絡に気を取られなければマジでヤバかったかもしれない。
もしかして変なクスリでも入ってたんじゃないか? なんてあれこれ考えている間に電車が来た。
…………帰ろう。
ちなみに三千円は無事、友人から返して貰った。
寿司を食べながらそれとなく昨夜の恐怖体験を話してみると、彼は下らないといった様子で「何それ、つかれてただけじゃないスか?」と一笑に付すだけだった。
友人の方が一皿多く食べていたが、何となく。
ホント何となく、割り勘にしてやった。