9 ー研究者ー
野崎の元にフリージャーナリストが持ち込んできたものは、いったい何なのか?
翌日、野崎が研究室で2パターン目の計算準備をしている時に、そのジャーナリストが野崎を訪ねてきた。約束より10分早い。
連絡をしてきた事務員に、受付脇のロビーで待ってもらうように伝えると、ノートパソコンを閉じて研究室の外に出て、ドアに鍵をかけた。
ロビーで待っていたのは40前後の痩せた男で、短いあご髭を生やしてアルマーニのジャケットを無造作に羽織っている。目は一見温厚そうに見えるが、奥に尋常ならざる光がある。
野崎は「ちょと怖い」と思いながら、テーブルに近づいていった。
男はすっと立ち上がり、ことさらに優しそうな笑顔をつくって名刺を差し出した。
「はじめまして。フリージャーナリストの田県と申します。」
「野崎です。」
と、野崎も名刺を差し出した。
「きれいなキャンパスですね。」と、田県は当たり障りのない話題で会話を切り出した。いかにも取材に手馴れた感じだ。
「最近こちらに移転したもので。」
何を聞きたいのだろう。と内心身構えながら、野崎も応じる。
「先生の論文、読ませていただきました。『IT時代の情報と社会現象』とか『情報と実社会の相互作用』とか・・・。」
論文のタイトルも挙げたのは、一応の礼儀はわきまえている、というところを見せたいのだろう。
「いや、まあ、素人の私には8割がた理解できてない・・・ってのが、本当のとこですがね。」
笑って見せるが、目の奥が笑っていない。
「えっと・・・、私の理解が間違ってなければ、つまり先生の研究は、NETの中の情報をいくつかのフィルターにかけてから分析すれば、近未来に起こる社会現象を予測できる——というものなんですよね。違ってました?」
と、笑顔のまま、軽口を叩くような調子で自身を少し下げて見せながら言った。
「ある程度、予測できる可能性がある——というレベルに留まってます。まだ。」
野崎は警戒しながら、慎重に言葉を選ぶ。まだ、この男がどういう記事を書こうとしているのかが判らない。野崎の研究に好意的なのか、批判的なのか。
野崎にしてみれば、研究が話題になるのは資金獲得の面からも好ましい。しかし、まだこんな段階で批判に晒されたりすれば、研究は一気に頓挫する危険性もある。
そんな野崎の内心を、この百戦錬磨のジャーナリストは手にとるように読んでいるのだろう。警戒心を解くために、自分の取材の経過と目的について語り始めた。
「いや、まだ記事にはならないんですよ。てゆーか、当分できそうにもないんです。材料を集めてる段階でしてね。」
ちょっと苦笑いを交えて言う。表情は正直そうな表情に見える。
もともと田県は、NETいじめや NET内の誹謗中傷についての記事を書くつもりで取材を進めていたのだと言う。
そうするうちに、田県は奇妙なコメントやツイートが、日々更新される膨大な数のそれらの中に紛れ込んでいることに気付いたと言うのだ。
「今日は、ご相談とアドバイス、それにもしよろしければ、先生の研究から見えた情報を少しいただけないかと・・・。もちろん、差し障りのない部分だけで構いませんので。」
なんだ、そういうことか・・・と、野崎は少し落胆した。が、それは表情には出さず(少なくとも野崎はそのつもりで)田県に聞いた。
「奇妙と言いますと?」
「発信者が存在しないのでは、という疑いのある・・・・」
と言ってから、田県は「信じてもらえるだろうか?」という表情をした。
野崎は研究室に田県を招き入れ、入り口付近の応接スペースの椅子に座らせた。
「あったかいコーヒーでいいですか? インスタントですけど。」
田県は目だけで軽く微笑して頷いた。
野崎はカップを2つテーブルに置くと、奥から紙の束を持ってきて田県と向かい合って座った。
「私の研究は、例えばファッションなら、それに関する情報を——ツイートやコメントだけじゃなくてCMなんかも含めてね——複数のフィルターにかけて得られたデータの量や濃度と実際の社会現象との間の同期しやすさを、一つの数値として表すというものなんです。」
野崎は、持ってきた紙の束をテーブルに広げて見せた。いくつものカラフルなグラフがプリントされている。
「それは、こんなグラフに表すことができます。このピークの部分が、同期指数の大きなところを表しています。」
野崎はグラフの中の大きな山を指さした。
「ある意味、これだけのことで、ここから特定の発信者を割り出す方法はありませんよ。単なるビッグデータの活用ツールの研究でしか有りませんから。」
田県はコーヒーを一口含んでから、グラフのある場所を指さした。
「こっちの小さな山は何です?」
野崎は苦笑いした。
「痛いところを突かれましたね。」
野崎もコーヒーを一口飲んだ。
「実は、これが私の悩みの種なんです。」
野崎は正直に言った。
「このランダムに現れる小さなピークが何なのか、説明がつかなくて困ってるんですよ。」
「先生の論文を読ませていただいて、私なりの理解では、情報の発信者と社会現象を引き起こす行動者のグループは概ね重なってこの大きな方のピークに含まれる、ということだと思うんですが、・・・合っていますか?」
「ええ、その通りです。」
野崎はちょっと驚いた。8割がた解らないどころか、田県は、技術的なことは別にして、概念の部分では野崎と十分に会話ができるほどに野崎の理論を理解しているようだった。
「実は私、ひょっとしたらこれが私の見つけた『発信者のいない情報』を表しているのではないか、と思ったんです。」
野崎は少し理解に苦しんだ。「発信者のいない情報」とは何だろう?
それはつまり、発信者が特定できない情報ということだろうか。しかし、そもそも警察でもない限り、発信者の特定はほぼ不可能ではないか。
野崎のそんな思考をすべて見通しているように、田県は苦笑した。
「私の立場だって、発信者の特定はできるものではありません。警察じゃないですからね。ですから、その情報に『発信者がいない』とは証明できないわけです。そうなると、いくら私が疑問を持っても、そこから先の取材は行き詰まってしまいます。」
田県は続けた。
「そんな時、先生の論文に出会いまして・・・、先生なら、私の集めたデータに何らかの見解を示していただけるんじゃないかと。そんなわけで、今日ご無理を申し上げたということでして。」
田県はそう言って、彼の小さなバッグからUSBを1つ取り出した。
「とりあえず、この3ヶ月ほどの間に私が集めたデータです。」
「つまり『発信者が不明な情報』のデータ、というわけですね?」
「『発信者が存在しない』と疑われる情報と、そのアカウントです。」
田県が訂正した。
「『存在しない』というのは、なぜそう思われるんです?」
野崎は少し胡散臭さを感じながら、その質問をしてみた。
田県はまた、少年のようなはにかんだ表情を見せた。こういう田県の表情は、ごく素直に彼の感情を表しているようだった。
ちょっと間をおいてから、田県は話し始めた。
「情報というのは、どれほど多様でも・・・、1人の発信者にはその人間特有の個性があるものなんです。これは、長年情報に携わってきた私のような職業の人間の持つ嗅覚みたいなもんですが・・・。」
田県は、少し目を泳がせるようにしてから、意を決したような表情で言った。
「つまり・・・何というか・・・・、一つ一つのコメントや呟きは、何気ない普通のものに見えるんですが、同じアカウント、同じニックネームのものを複数集めて見てみると・・・・その・・・臭いが無いんですよ。生身の人間が発信したとは思えないくらいに・・・。」
田県はやや不安そうな面持ちで、野崎の反応を伺うような様子を見せた。が、野崎は田県を変人と見るより、彼が集めたある意味「特殊」な資料に少し興味を持ち始めていた。
「そういう情報ばかりを集めたのが、そのUSBというわけですか?」
「そうです。・・・で、それが先生のグラフの中でランダムに出現しているその『小さな山』と何か関係があるんじゃないか・・・と。・・・まあ、その、ただの素人の直感でしかないんですが。」
野崎は2度目の驚きを禁じ得なかった。このジャーナリストは取材のための「お義理」ではなく、野崎と問題を共有できるほどに彼女の論文を読み込んできているようだった。
「それで、これを私に分析してほしい——ということですか?」
田県はぱっと明るい表情をした。
「いや、そう言っていただけると!」
それから、やや決まり悪そうに右手をこめかみに当てるような仕草をして、
「その・・・何というか、費用の方は・・・、ちょっと予算がなくて・・・。なんせ貧乏なもんですから。」
と、媚びるような表情を見せた。
(こいつは・・・。アルマーニを着て、何を言う)と思ったが、野崎はそれは顔には出さず、鷹揚に微笑んで応じた。
「構いませんよ。私も興味がありますから。研究の資料を提供していただいたわけですから、お互い様、ということで。」
お互い様どころか!
と野崎は、内心思う。
もし、この田県というジャーナリストが(ありがたいことに)3ヶ月もかけて収集してくれた資料が、あの小さなピークを説明できる何らかの手がかりを与えてくれるなら、むしろお金を払っても買いたいくらいのシロモノである。
万一、何らかの説明がつく、あるいはそれを示唆するような結果が出てくれれば、来年以降の研究資金の心配はなくなったも同然じゃないか!
しかし、野崎はそんな考えは噯にも見せず(少なくとも本人はそのつもりで)田県に言った。
「何らかの結果を出すには2〜3日はかかると思います。田県さんが興味を持たれそうな結果が出ましたら、連絡いたします。この携帯の番号の方でよろしいですか?」
「結構です。あ、もしウイルスなどがご心配でしたら、こちらにプリントしたものも持ってきましたので。打ち込むのは大変だと思いますが・・・。」
と、バッグからクリアファイルに入った紙の束を取り出した。
野崎は苦笑して、
「大丈夫です。ここでは外部からの情報は何であれ、一旦ファイヤウォールの外の端末に取り込んでから研究用の設備の方に送る形になっていますから。」
と言いながら、クリアファイルにも手を伸ばした。
「こちらも、いただけるんでしたら。プリントしなくて済みますし。」
その日、野崎はパターン2の分析を打っちゃって田県が持ち込んできた資料の分析を優先させることにした。
それは総数として248という、資料としては少なすぎる量だった。
これをパターン1のフィルターにかけて選別すると、数はほぼ3分の1になる。グラフを作成するデータとしてはあまりにも少ないが、それでも野崎はまず、この資料だけの基本グラフを作成してみるつもりだった。
その形が、昨日野崎に手酷い失望を与えたあのグラフと同じなら、この資料には何の意味もないということになる。
一方、それが大量のデータを使って作ったパターン1のグラフと違った形をしていれば、この資料のデータは、パターン1のグラフに現れた『小さな山』に何らかの影響を及ぼしている可能性があるのだ。
夕方になって、事前準備の作業は終了した。
計算式のそれぞれの変数に、準備した数値を打ち込んで、出てきた結果を見た野崎は口から心臓が飛び出すかと思うほど驚いた。
そのグラフには、『小さな山』の部分だけが現れていたのだった。




