34 ー点と線 ー
それは、アナログな技術なのではないのか?
田県の元に、羽田から「横浜にアパートを借りた」と連絡があったのは、2月も末のことだった。
羽田は今年で大学院を卒業するのだが、そのまま野崎研究室に「助手」として残ることになったということだった。
最初の仕事が、クリップアーツに詰めてのデータの分析になるわけだ。ただし、まだ正式に辞令を受けたわけではないので、給料は出ない。経費とアルバイト料が、野崎の研究資金から出る形でスタートを切ることになった。
「クリップアーツさんのおかげで、アパート代がタダです。正式に辞令が出るまではバイト料は少ないですが、食費くらいは出ます。」
と、羽田は嬉しそうに田県に話した。
田県は電話越しに笑いながら、太っ腹なところを見せようとした。
「じゃあ、就職祝いに、特別な店で美味いメシでもおごろうか。」
恵比寿にある無国籍料理の店は、知る人ぞ知る、という隠れ家のような店だった。表は、ちょっと見たところでは店のような感じがしないが、オーナーシェフの腕はよく、その創作料理は美味い。
「Rinsay」という店名の由来はよく分からない。聞いてもオーナーは笑っているだけで、答えてくれないのだ。
完全予約制で、1日に10組しか予約を取らないが、始めたばかりの頃に取材した縁で、田県は3人までなら飛び込みが許されていた。ただし、メニューは一切オーナー任せだ。その日に余りそうな食材で工夫してくれる、というわけだ。
「さて、何が出てくるかな?」
給仕が背後から静かに手渡した熱いタオルで手を擦りながら、田県は羽田を見た。羽田は受け取ったタオルで田県の真似をしながら、落ち着かなさそうな目で部屋を見回している。
部屋は、シンプルな造りの中にも、木材と漆喰とタイルの調和がよくとれた上品な空間に仕上がっていた。置かれている調度も、超高級品というものではなさそうだが品があり、独特の「静けさ」を感じさせる。
給仕は気配もさせず、いつの間にか2人の視界から消えていた。
「いや、オレもさ、以前に取材してなければ、まずこういうところに来ることはないと思うよ。」
田県は羽田の緊張を解こうとして、わざと軽そうに言った。
「なに、普段どおりで構わないのさ。マナーとかうるさくないから。ドレスコードもなかったろ?」
たしかに・・・、服装については学生っぽい服装でも、何も言われなかったな——と羽田は思って少し気が楽になった。
「NETには出てきませんね・・・?」
羽田がスマホをいじりながら言った。
「うん。本当に、口コミだけで客がついてるんだ。インスタUPなんかはしないのが、お約束なのさ。客層もアッパークラスがほとんどよ。オレたちは、ここじゃぁ異端者だな。」
と、田県は笑った。
いつの間にかテーブルの上に、食前酒のグラスと前菜の小鉢が乗っている。
前菜は、シンプルだが優美な曲線の白い器に、とろりとした液体をまとった緑色の山菜がよそってあるものだった。細い鰹節がはらりと振り掛けてある。
給仕は羽田の背後に穏やかな表情で立っていたが、いつ入って来たのか、その気配には2人とも全く気がつかなかった。
田県が、特に用事はない旨を目で合図すると、彼はその洗練された給仕術で、いつの間にかまた2人の前から消えた。
その動きは、実に注意深く『脇役』へと自身の存在をシフトさせ、田県たちが前菜と食前酒に注意を向けることができるように計算され尽くしていた。
田県は、羽田と食前酒のグラス同士を当てながら、ふと、その見事な給仕術に「においの無さ」を思った。
あるいは、あれも高度なAIなんかじゃなく、こうしたアナログな「技術」なのではないか?
今、田県と羽田は、熟練の給仕術によって、見事なまでにその意識をテーブル上の食前酒と前菜に誘導された。
あの、一見バラバラに見える「情報」も、実はそういう技術の延長線上にあったりしないのだろうか?
もしそうだとしたら、これを仕掛けた何者かは『新宿の眼』や『さいたま市実証実験』が進み、『ヴィータウン』に何らかの変化がもたらされることを望んでいる——ということになる。
この3つの事象の共通項はまだ見つからないが、結ぶべき「線」は、これらの事象そのものの中に隠されているのではないか?
その考えは、田県に微妙な取材方針の変化をもたらした。
ひょっとしたら、エージェントは必要ないのかもしれない。その確認も含めて、追ってみるべきではないだろうか。
少なくとも、1つの考えに囚われてはいけない。これは、まったく新しいNET時代の犯罪なのかもしれないのだ。
翌日から、羽田と工藤の共同捜査が始まった。
捜査対象はクリップアーツのサーバーの中にあるヴィータウンの『Tデータ』、そして、影響を受けたと考えられるヴィータウンの事象だ。さらに、捕まえることができるなら『誰のものでもないアバター』の痕跡である。
この追跡は、野崎の提案で『Tデータ』を省いたデータでの実験から始めることになった。
「仮想空間での事象を数値化するに当たって、現実世界の事象の数値化に使っている我々のフィルターが有効なのかどうか、どの程度の誤差が出るのかを、まず把握しないといけないんです。」
と、羽田が説明した。
その実験だけで数日かかるという。何しろ、Tデータだらけのヴィータウンの中からTデータの影響の少ないと思われる事象を探しては「実験」しなければならないのだ。
「1週間後には野崎も合流できると言っていましたから、実験結果の評価はここでできると思います。」




