3 ー都市(シティ)ー
車を降りてマンションのエレベーターを待っている時、七海が何かを小さな声で言った。
「・・・なぐな・・ねで・・・」
エレベーターの扉が開く音に遮られて、一歩には七海がなんと言ったのか、よく聞き取れなかった。ただ、それまでとはまったく違う、すがるような声だった。
「え、なに?」
一歩はもう一度聞こうとして、七海の顔に耳を寄せた。
しかし、七海は一歩の手をぎゅっと握っただけで、それ以上何も答えなかった。
エレベーターの扉が閉まって少しだけ重力が大きくなると、七海は今度はことさら明るい声で一歩に話しかけてきた。
「いちいちエレベーターに乗んなきゃいけないって、不便だって思うこと、ない?」
ごく素直な疑問だけを感じる声だ。
「そうだねぇ。停電したらうちに帰れなくなっちゃうもんなぁ。」
さっきの何かはこれではなかったな・・・と思いながらも一歩は応じた。
とりあえず、さっきの何かはそのまま仕舞っておこう。——と一歩は思った。無理に掘り出そうとすれば、血が吹き出るような気がしたのだ。
「階段登ればいいじゃん。」
「いや、さすがに27階までは・・・」
運動不足の一歩にしてみれば、これは偽らざる本音である。
「わたしは登れるよ。」
少しずつ普通に会話が成立するようになってきている。
付け焼き刃の一歩には何が良かったのか、それともまだ何か問題が残っているのかさっぱり分からなかったが、それでもとりあえず一山越えたのかな・・・と思った。
「僕はちょっと・・・。運動ニガテなんだよ。」
「なのに、こんな高いとこに住んでるんだ。」
七海の声にはちょっとからかうような響きが含まれていた。いい兆候だ。と一歩は思う。
「でも、いいこともあるよ。景色・・・特に夜景がきれいなんだ。昨日は七海、疲れて寝ちゃったから見てないよね?」
部屋に入ると、一歩は明かりを最小限にして七海を窓際まで連れていった。
「わあ!」
その歓声を聞いて、一歩は内心「よっしゃ!」と拳を握りしめた。
「裏山でも見えたけど、こんなでっけぇのは初めてだぁ!」
自然に訛りが混じったようだった。
「バルコニーに出てみるかい?」
「うん!」
一歩が硝子戸を開けてやると、七海は飛び出すように狭いバルコニーに出て、背の高い手すりにしがみついた。
手すりの高さは大人の胸ほどもある。背が伸びたとはいえ、11歳の七海は顔だけが手すりの上に出る格好になった。
そこに居るのは、あの手こずった妖怪変化ではなく、どこにでも居るようなただの小学生だった。
「きれいだね。」と七海が屈託のない声で言う。
一歩は横に並びながら、なんとか上手くやっていけそうだなと思った。
「きれいだろ?」
言いながら一歩が首を曲げて見ると、夜景を眺める七海の貌は小学生とは思えないほどに美しかった。かといって、それは大人の持つようなそれではなく、ある種年齢不詳の気高さのようなものを感じさせる何かだった。
日焼けした肌と軽く結ばれた唇には、七海が内包する未来への生命エネルギーが見てとれた。わずかな夜風が七海の頬を撫で、鬢をゆらゆらと宙に舞わせている。
何か会話を続けようと、一歩が言葉を探しているうちに七海の方が言葉を継いだ。
「これ全部、遠くから持ってきてるんだよね。」
一瞬、何を言っているのか、と戸惑ってから、一歩は、ああ電気のことか・・・と気づいた。
福島原発の事故のことを考えていたのか——と一歩は解釈した。東日本大震災は、あれのせいでさらに複雑な災害になってしまった。
一歩は東京圏で生まれ、ここで育った。都会は一見華やかだが、都会人は生活の基盤を全て地方に押し付けてばかりで、実は何も「生産」なんかしていない。
それでいて犠牲になるのはいつも地方ばかりだ。福島原発事故は、その象徴のようなものではないか。身勝手な話さ・・・と一歩は思う。
七海のちょっと困った態度の裏には、あるいはある種の憤り——土に深く埋められたような——があって、それが都会人の代表としての自分に向けられていたのかもしれない。と、一歩は理解しようとした。
どう話したものか、と言葉を探しつつ「そうだな。都会は・・・」と言いかけるより少しだけ早く、七海がまた言葉を続けた。
「電気も食べ物も、みんな遠くから持ってきてるんだ。道路や電線って、養分を運ぶ血管みたいなものかな・・・」
なんだ、そういうことを考えていたのか・・・と一歩は拍子抜けすると共に、自分の深読みに内心赤面したが、そのままさりげなく話題をつなげた。
「そうだね。車のヘッドライトは赤血球の流れのように見えるね。電線は神経かもしれないね」
子どもの想像というのはどういう風にするんだっけ・・・と一歩は自分の子ども時代を思い出しながら話を合わせようとした。比喩遊びは、互いの距離を縮めるには最適の遊びかもしれない。
しかし七海が次に口にしたのは、一歩が想像もしていなかった「概念」だった。
「大きな生き物だね。叔父さんもわたしも、この大きな生き物の一部なんだよね。」
取りようによっては、子どもの他愛ない空想として片付けてしまえるのかもしれない。
しかし、一歩はこの言葉によって、一種の衝撃と共にこれまでにない視野が急激に開けてゆくのを感じた。
少女の持つその巨視的な視点は、まったく新しい風景を一歩に与えた。
彼は毎日この風景を見ていたくせに、こんな視点を持ったことはついぞなかった。ただ自分が取り組んでいる目の前の技術的な問題にだけ、ミクロなアルゴリズムの組み合わせにばかり没頭していた。
「大きな光苔みたい。大きくてきれい・・・・。」と七海が感想をもらした。
一歩は、この夜景を、改めて少女の提供した視点で眺めなおした。比喩ではなく本当に、それは巨大な地衣類であるのかもしれなかった。
鉄やアルミニウムや電子回路、道路や車や街路樹、人間やその身体に共存するヒトの遺伝子を持たない100兆個を超える細胞群も、総てその構成部分とする——巨大な地衣類・・・。
生物というものは、自然界では単体では生存できない。例えば、シロアリという生物は3種類の生物の混合体である。
シロアリは食べた木を自分では消化できない。体内の原虫がこれを分解し、シロアリが吸収できる栄養素に変える。
その原虫も自分では分解した栄養素を生命活動のエネルギーに変えることはできず、その役割は原虫の体内にいる細菌が担っている。
細菌からすれば、原虫というライフスーツを纏い、シロアリというモビルスーツで餌の原料となる木を採掘している——ということになるのかもしれない。
人間もまた、自分でこの「都市」を創り、運営しているつもりでいるが、見方を変えれば、ひょっとしたら「都市」という大きな生き物の一部として暮らしているだけかもしれないではないか。
夜になると美しく光り出すこの地衣類は、どこに目的があるのか分からないが、ひたすらに成長を続ける。
触手を伸ばし、周囲の「自然」からエネルギーや養分を吸い上げて地球の陸地の相当な部分を、単体か群体か知らないが、そのネットワークで覆い、活動を続ける。
それは、生命としての基本的なアルゴリズムそのものだ。
シロアリが3種の生物の混合体であり、人間だって膨大な種類の生物の混合体であるのだから、都市を巨大な生物の一種と言っていけない理由がどこにあるのだろう。
この新しい視点は、一歩をそれまでとは違った世界に連れ出してしまった。
子どもというのは・・・大人にはできない「概念」の飛躍ができるエネルギーと自由を持っているものらしい。
一歩はそれに圧倒されながらも会話を続けようと、七海が提示したこの概念の世界に足を踏み入れた。
「本当に、都市は大きな生き物かもしれないね。人間がそう思っていないだけで。」
「うん。遠くのものを食べて、道路や電線でそれを真ん中まで運んで・・・」
「ゴミというウンチをして・・・。」
と、一歩が引き取る。七海が笑った。
「うん。息もしてる。酸素を吸って、CO2を吐き出して!」
「本当だ。七海の言ってることは生物学的にも正しいよ。七海はまだ習っていないかもしれないけど、実は生物は皆、いくつもの違う生物の集合体なんだよ。」
一歩は、少し七海に「知識」を与えてみようと思いながら話した。ただ、小学生にどこまで理解できるか・・・。
「人間も、道路も、コンピュータも一緒になって、生きて、成長していくって感じだな。」
「うん。苔が広がってくみたいだよね。」
七海との話が噛み合っていく。あのギクシャクがうそだったみたいに、打ち解けた空気が広がってゆくのを一歩は好ましく思った。
「ただ、そうは言っても、まわりの自然には限りがあるから、無限に成長できるわけではないと思うな。いつかは何処かで行き詰まる・・・」と言ってから、一歩は(しまった!)と思った。
被災した小学生を相手にネガティヴな会話内容はまずかった。一歩は心の中で舌打ちしながら、大丈夫だろうかと七海の方を振り返った。
そして、一瞬息を呑んだ。
七海はまた変化していた。一歩は自分を取り巻く空気が、急激に高次な透明感を増してゆくのを感じた。
そこに居たのは、この2日間一歩が見てきた七海ではなかった。
何か神々しいほどの横貌を持つ少女だった。少女は遠い悲しみのような色を瞳に宿し、口元に微かな諦めにも似た微笑を纏っていた。
「こんなにきれいなんだもん。長生きできるわけないよね。」
その少女は、天から降るような声で言った。
次回、さらに新たな展開へ。




