28 ー見えない闇ー
田県は野崎に『新宿の眼』の取材結果を手短かにメールしておいた。
レスポンスはなかったが、田県は別に気にしてはいない。彼女は今、目の回る忙しさのはずだ。
当面は田県の「取材」のみが、謎に迫るか細い手段になるだろう。本格的な分析や解析は、3月も半ばにならないと始められない。
羽田は手が空いているが、野崎の許可がなければアクセスできないデータが多いため、やれることは少ないということだった。
だから、今は田県が足で稼ぐしかない。
ただ、羽田から田県のケータイに、もう一つノイズの大きい事象を見つけたので、今、そのデータを集めているところだ——とメールが入っていた。細かいことはまた後ほど、とだけ書いてあった。
どちらにしても、分析にまでは至るまい。どういう事象か教えてもらえれば、こちらでできる取材はしておく旨、返信しておいた。
田県は、もう一つのバイアス事象——さいたま市の実証実験に関しての取材を進めるため、環境NPOの代表を務める高橋淳という人物を訪ねることにした。
高橋は環境運動ではそれなりに名の通った人物だが、少し山っ気のある人物——と田県は見ている。以前にも一度海洋プラスチックの件で電話取材したことはあるが、向こうは覚えているかどうか。
とりあえずアポは取れたので、翌日、田県はNPOの事務所に向かった。
都心からはやや離れた古い雑居ビルの半地下に、その事務所はあった。雑誌の編集室みたいに散らかった狭い部屋で、若い男女が数人、活発に打ち合わせをしたりチラシの整理をしたりしている。その中にいた30年配の女性が、入り口に立った田県を見つけて近寄ってきた。
「あのー、昨日お電話いたしました田県というものですが・・・」
「ああ、田県さんですか!」
女性が応えるより早く、奥にいた恰幅のいい50がらみの男性が片手を上げた。
「応接にお通しして。今、行きます。」
高橋は田県の名刺をしばらく眺めてから、
「以前、電話で取材された方でしたっけ?」と言った。
「よく覚えていてくださいましたね。」
と、田県は笑顔になった。
人間に対する記憶力の良さというものは、こういう活動のリーダーとしては必須の能力だろう。政治家などにもそれは言える。
「今日はどういったことをお聞きになりたいんですか?」
高橋は好意的な微笑と共に口を開いた。以前、田県が書いた記事を「なかなか良かった」と、記事が出たすぐ後にメールをよこしていたこともあり、「こちら側」という認識でいるようである。
田県はその印象をできるだけ崩さないよう注意しながら、取材に取りかかった。
「さいたま市で低電磁波システムの実証実験に参加されていると聞きまして・・・、その内容やら経緯なんかをお聞きできれば、と思いまして。」
「ああ、あれですか。あれは、なかなか画期的なシステムでしてね。システムそのものは横浜大の浜中クンが開発したもんですがね、うちは、さまざまな利用状態で電磁波レベルが許容限度に収まっているかどうかをチェックしているだけなんですよ。」
謙遜しているようでいながら、若いとはいえ大学教授を「クン」呼ばわりするあたりにこの人物の性格が表れている。と、田県は内心おかしがった。
「ただ、許容限度と言ってもね、どういう周波数の電磁波がどのレベルの強さでどんな害があるのか、が今の段階でははっきりしてるわけではないんですよ。」
意外にも高橋は、電磁波の危険性を大げさに言うのかと思いきや、WHOレベルの話から始めた。
「あ、電磁波と言っても我々が問題にしているのは低周波からマイクロ波までの周波数帯の話でしてね。可視光や放射線は除きます。交流電源で出てくるのが低周波、いわゆる電波と呼ばれ、通信などに利用されているのが高周波帯です。現時点では、確定的に『害がある』という証明はできてないんですが、だから安全だ、と言っていいものじゃない。一方では統計学的に言っておかしい、というデータや、害のあることを示唆する実験結果なども報告されてるわけですから。」
高橋は、運ばれてきたお茶を一口含んで、田県にも薦めると、さらに一方的に喋り続けた。
「日本政府などは、それを『安全だ』と言い切っちゃってるわけですが、我々は予防原則に立つべき、という考え方なんです。だから、許容限度と言っても、欧州などの規制値をベースに、我々のところで、まあ、ある意味勝手に定めちゃったものなんですがね・・・」
田県は、この押しの強い人物が、電磁波についての講釈や低電磁波システムの意義についての講釈を長々と続けるのを、メモを取るふりをしながら辛抱強く聞いた。
取材の狙いはそこではないが、田県はまだ、この環境運動家に取材の本筋を見せるのは早いと思っている。
この環境運動家がNETに何かを仕組んだ組織の手先ではないことは、田県には確信できる。しかしこの人物が、どこまで秘密と問題意識を共有できるか——それを見極めない限り、下手をすればこのNPOまでも「危険」に晒しかねない、と思っているからだ。
何しろ「敵」は今のところ、まったく姿が見えないのである。
「それで、高橋さんがこのSBNに係わるようになった経緯なども、お聞かせ願えますか。」
ひとしきり講釈が終わってから、田県はおもむろに『本題』を切り出した。知りたいのは、ここに係わってきている『異質な何か』である。
「あー。あれは4年くらい前になるかな・・・。浜中クンがうちを訪ねて来てね。」
高橋は話し出すとけっこう長いタイプらしかった。時々おどけて見せながら、浜中との開発のエピソードや、ソフトモビルや経産省の担当者の失敗談なども織り交ぜて話した。
田県は、その話の中に出てきたソフトモビルの白石という担当者や、経産省の北山という人物、その他名前のわからない3人の政治家に興味を持った。
「その白石さんという人や、経産省の北山さんって人、ご紹介いただけます?」
田県がそっちに話をふったとたん、高橋が黙った。
高橋の目が細くなって、好意的な光が消えた。
「あんた・・・、何を調べてる?」
田県は、しまった! と思った。焦りすぎた。
高橋は、そんな田県の内心を全て見通すかのような眼光で、田県の両目の後ろを後頭部まで貫くほどに凝視したまま、静かだがドスの効いた声で質問した。
「田県さん、あんた・・・SBNに興味があるわけじゃないね?」
田県は不覚にも怯んだ。
「あんたの取材の本当の狙いは、何ですね?」
「い・・・いえ、それは・・・最初に申し上げましたように・・・・」
田県は、我ながら情けないと思うほどに狼狽えてしまった。これがこの男をして数々の行政を動かしめてきたオーラなのか、と田県は改めて舌を巻く思いをした。
田県はこれまで、多くの政治家やヤクザ者、ときにはテロリストすら取材してきたが、これほど瞬時にあたりの空気を変えてしまう人物には、そうそう出会ったことがない。
こういう人物が環境保護運動などをやっているというのは、ちょっと珍しい取り合わせだな・・・。
そんな諧謔が心の内側にわずかにわいたことで、田県は冷静さを取り戻した。
「なあ、田県さん。あんたが隠し事をしたままオレに取材しようと言うんなら、オレは黙る。これで打ち切りだ。」
高橋が席を立ちかけたのを見て、田県は観念した。ここで切られたのでは、何も得られない。この人物を信用してみよう——と田県は腹をくくった。
「すみません。本当のところを言います。」
と、一呼吸間をおいてから、田県は相手の目をまっすぐに見つめ返した。
「ただ、信じてもらえるかどうか・・・。それと、これから話すことは他言無用にお願いしたいのですが・・・。」
高橋の目の光が変わった。
無言のまま、応接室の入り口のドアをそっと閉めると、再びゆっくりとソファに戻って腰を下ろした。
高橋もまた、権力の闇と闘い続けてきた長い履歴を持っている。目の前のジャーナリストがこれから話そうとしていることが、並ならぬ闇についてのことであると察知していた。




