26 ー新宿の眼ー
佐々木無文は、すでに有名人の仲間入りをしてしまっていた。取材するのも直接ではなく、三丸ビルの受付を通さなくてはいけなくなっている。取材内容によっては、体良く断られてしまうようだった。
「三丸がガードマンまで付けてるんだぜ。宣伝になるような話でないと、なかなか難しいよ。」
昔からの記者仲間の一人が、田県にアドバイスをくれた。
有名人と言っても、別に佐々木はアイドルでも政治家でもない。恐らくは工事に影響が出ることを恐れた三丸側の配慮だろう、と田県は推測した。
田県はまず、三丸商事の山下常務に取材できないかを打診してみた。田県が知りたいのは、ここに到るまでの経過であって、佐々木無文が何者か——ということではない。取材理由は、「『新宿の眼』ができるまでのドキュメンタリーを記事にしたいので」ということにした。記事の発表は出来上がった後に設定しておいた。
これなら、向こうも乗るだろう。それに、これは今追っている問題を外した状態でも、書き上げればたぶんどこかに売れる。軍資金になるはずだ。
はたして、田県の山下や佐々木への取材はオーケーされた。
指定された日時に三丸ビルに行くと、高層階のラウンジに通された。幹部が来客と会うスペースである。外壁部分が天井から床までガラス張りで、手すりのようなものもない。
強度は計算されているのだろうが、窓際まで行くとガラスの透明度も手伝って、やはりちょっと足のすくむ思いがする。
そこから見る「工事現場」は、低層階で見るそれとは違った格別なものだった。
(たしかに、こりゃあ並みな才能じゃねーな。)
田県は舌を巻く思いだった。
それは一幅の抽象絵画だった。・・・のような、という比喩は必要ない。素人の田県にもその美は十分に伝わった。怒られるかもしれないが、カンディンスキーやシャガールやジャン・コクトーの絵画と並べて置いても遜色はないのではないか。シャガールやコクトーは抽象画家ではないが、なぜか田県はそんな印象を持った。
それがビルの足元に展開している——というのは、まるでVRの世界を見ているような奇妙な感覚だった。
「いい眺めでしょう?」
田県が振り返ると、恰幅のいい初老の紳士が近づいてくるところだった。温厚そうな微笑を浮かべている。
「山下です。」
「あ、フリージャーナリストの田県と申します。」
田県は準備して手に持っていた名刺を、両手で山下と名乗った紳士に差し出した。
「この度は、お忙しい中、時間を割いていただきまして。」
「いやいや、いろいろな方に広報していただけるのは有り難いことです。」
山下は名刺を両手で名刺入れの上に乗せて受け取り、その名刺入れにあらかじめ挟んであった自分の名刺を田県に差し出した。
「20分ほどしか時間が取れませんが。」と山下は申し訳なさそうに言った。もちろん本心から申し訳ないと思っているわけではなかろう。
田県は一瞥して(これは短時間で攻め落とせる人物ではない)と覚った。まずは信頼を得て、事実を引き出せれば良い。
「では、単刀直入に。」
田県も時間は惜しい。引き出せる情報は多いほどいい。
「佐々木無文さんとの出会いについてお聞かせいただけますか。どこで、どのようにしてお知り合いになられたのか。できる限り具体的にお願いできれば記事にもしやすいもので・・・。」
田県は、できるだけソフトにニュートラルな感じになるように自分の表情に注意しながら質問した。
山下の表情に軽く羞恥のようなものが見えたのは、田県の勘違いだろうか?
「いや、・・・信じられるかどうかわかりませんが、『最初の出会い』というのはNETの情報なんです。」
約束の20分をやや超過したインタヴューの中で、山下は特に何かを隠しているという気配を見せることはなかった。少なくとも、田県が見る限りそうだった。
相手は海千山千の一流商社の幹部だが、田県もまた駆け出しの記者ではない。そういう「臭い」に関しては、嗅ぎとる鼻に自信があった。
そいういう田県が聞き取った山下の話の内容は、まるでお伽話のような「偶然」の連続で成り立っていた。
最後に田県がラウンジを辞す時、山下は奇妙な表情で付け加えた。
「あなたは神の存在を信じますか? 私はこれでも合理主義者のつもりだったんですがね。」
そんな言葉を口にした山下の表情は、一瞬、どこかローマ教皇の表情に似ているようにも見えた。田県は曖昧な表情のままで、貴重な時間を割いてもらった礼を言ってそこを退出した。
その他の三丸の関係者に取材した内容も、山下が語ったこと以上の新味は全くなかった。以前、都の都市環境部の人間に取材した内容との整合性も取れており、矛盾の糸口はどこにも見当たらなかった。
だからこそ、と田県は思うのである。
面妖しい。
関係者のすべてが、それを人によっては「神の啓示」と表現するような、奇跡的な偶然の重なりとしてしか捉えていないとしたら、その背後にいるものはいったい何者なのか?
誰かが何かを隠しているなら、それを嗅ぎ取れないほど田県の鼻は鈍くはない。
それに、田県はすでに知っているのである。
野崎との「研究」によって。
NETの情報を意図的に操作した者がいる——ということを。
この状況は、それはどうやら三丸の幹部クラスというレベルではないらしい——ということを示している。
田県は今日1日で、ほぼそう確信した。
あの三丸の山下をして、神の啓示を信じさせるほど巧妙に情報を操作している者がいるとするなら——いるはずなのだが——そいつは何者で、いったい何の目的でこんなことをやっているのだろう?
その日、田県は低層階の商業施設をぶらつきながら時間を潰し、夕方を待った。工事を終えて出てくる佐々木にインタヴューするためである。あらかじめ許可を取って予約してあったので、5時過ぎに警備室まで来るように言われていた。
「あー、佐々木先生はまだ現場にいるようです。もう少しすれば戻ってくると思いますよ。」
人の良さそうな初老の警備員が、田県を警備室の応接セットに招いた。若い警備員がお茶を運んできて、田県の前のテーブルに置いた。
10分も待たないうちに、若い男と初老の男が警備室のドアを開けて入ってきた。若い方が佐々木、地下足袋を履いた60がらみの男は造園家の栗田だろう——と田県は推測した。




