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ポストサピエンス  作者: Aju
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2 ー都市(シティ)ー


 七海はサービスエリアの駐車場を一歩と並んで歩きながら、

「リベンジすっぺと思ったけど・・・・負けちゃった。」と、方言を混じえておどけて見せた。七海はあまり訛りがない。この世代はみんなそうなのか、ペンションという環境の中で「東京言葉」に馴染んでいたせいか、よくわからない。この方言も、頑張って入れてみた感があった。

 方言とは無関係に、一歩には七海の言っていることの意味がわからない。聞いてはみたが、案の定七海はそれについては何も言わなかった。


 ただこの後から、七海は最初とは打って変わって妙に明るく多弁になった。無理をして陽気に振る舞っている——というのは一歩にも分かったが、なぜそうするのかは依然としてわからない。ただ「タケチンポ」を繰り返されるのには正直まいった。

 何度怒ろうと思ったかわからないが、それでも小学校時代のようにイジられてやることで、七海との距離を縮められるかもしれないと思いなおした。


 そうして少しばかり屈辱的な努力を続けながら、一歩は長距離を一人で運転して東京に帰ってきたのだった。

 七海はずっと陽気だったわけではなく、時に30分もむっつりと黙ったまま、怒ったような顔で窓の外を見ていたりゲームに戻ったりした。結局一歩はマンションの駐車場に入るまで、七海の気持ちをを掴みかねたままだった。

 この小さな妖怪変化を、用意したベッドに寝かしつけた時には、一歩はもうくたくたに疲れ果てていた。



 翌日、一歩は会社に出る前に七海を新しい学校に送って行った。まだ夏休みは3日残っている。

 ベビーシッターを呼ぶという選択肢もあったが、七海が「学校、見てみたい」と言ったこともあって学童保育を利用することにした。

 この小学校の学童保育はNPOが運営主体となって学校の教室を利用する形をとっている。特に1日保育ではユニークな「遊びの先生」を呼んでくることで人気があるらしい。

 そんな情報もこの数日で初めて知った、というありさまだったから、大学以来専門分野としか向き合ってこなかった一歩にとっては、「子どもとの接し方」などというものは、深海の生態系と同じくらい未知の世界であった。


 空は明るく晴れていて、夏の雲がいくつか遠くに盛り上がっていた。

 七海は昨日ほど不安定ではなく、今朝は落ち着いているように見えた。朝起きたときには、ちゃんと「おはようございます」と言い、車の中での一歩の言葉には、ときどき短く「うん」と答えてはくれた。

 ただ、一歩はそれが肯定的なことなのかどうか測りかね、一抹の不安を胸の内に抱えたままで会社へと向かった。


「竹内さん、それ、試し行動じゃないですか?」

「PTSDの症状、出てるような気がします。酷いようだったら、いい心療内科紹介しますよ。」

 会社で一歩が何人かの子育て中の社員に相談してみると、意外にもたくさんのアドバイスが得られた。

「未婚の父親になったんですね!(笑)」という感想ももらった。

 一歩たちの会社では、お互いを役職名で呼ばないルールになっている。岡田も「社長」ではなく、「岡田さん」と呼ばれている。

 無意味なヒエラルキーをなくして、生産性を上げる——という岡田の提案で起業当初からそうしてきたのだ。

 会社の中には業務上の決定権の差はあっても、人間関係に上下はない。だから、社内には不思議な開放感があって、ちょっと見たところ趣味のサークルみたいな雰囲気がある。

 勤務はフリータイムで、期限までに成果を出せればそれでOKだ。没頭していたい者はそうすればいいし、おしゃべりしたい気分なら、同じ気分の人間を探せばいい。

 結果として人間関係が陰にこもりにくく、個々が余分なことにエネルギーを使わずに、それを仕事に投入することができる。

 岡田の狙いどおりであり、一歩にとっても居心地のいい空間だった。


 一歩はさらに、アドバイスの中で得られたいくつかのキーワードを頼りにNET検索を行い、それでようやく少し七海の奇矯な行動の意味を理解できたような気がした。

 NET検索の結果について初めにアドバイスをくれた人たちに再度確認し、夕方の七海のお迎えに備えて自分の考えをまとめておいた。

 一歩は必ず、新しい知識に関しては「人」に聞く。「NET検索だけでわかった気になるな」は技術部のトップとしての一歩の口癖でもあった。


 子どもの行動に関する様々な心理学用語のひとつひとつを、正しく理解できたかどうかはかなり怪しかったが、要するに、一歩はまだ七海にとって「お試し期間中」なのだろう。という理解の仕方で、この状況を俯瞰した。

 「タケチンポ」はたぶん「試し行動」だったのだろう。怒らなくて良かった・・・と一歩は胸をなで下ろした。

 とにかく先ずは受け止めてやること。そして、善悪の判断はブレないことだ。——と一歩は自分の当面の行動方針を定めて、気持ちが少し落ち着いた。

 そう思い定めて初めて、ひょっとしたら「不安定」だったのは自分の方だったかもしれない・・・と考える余裕もできた。


 この1週間ほど、立て続けに休みを取ったので、会社の仕事も滞りの無いようにしておく必要があった。一歩が止まってしまうと、全体が止まってしまうリスクがあるからだ。

 承認や決済に上がってきている技術関係の案件について、今日1日では終わらないものはチェックスケジュールを皆に伝え、皆の仕事がスムーズに運ぶように手配した上で会社を後にした。

 今日はもう少し上手くやれるかもしれない。一歩は七海を迎えに行く車の中で少しだけ自分に期待していた。


 学童保育の教室に行くと、七海は他の子たちと一緒になって大きな和紙と格闘していた。

 色のついた和紙を千切っては糊で貼り付けてゆくのだが、平面の「絵」ではなく、教室いっぱいの3次元の立体になっていた。

 誰かのイメージを皆で作っている、というのではなく、子どもたちがそれぞれやりたいようにやりながら、全体が少しずつ形を変え続けてゆく——という一種の参加型インスタレーションのようなものだ。


 それはまるで、本当に生きている巨大な生き物のようだった。その未知の生き物に子どもたちが取り付いて世話をしている。世話をすると生き物は少しずつ形を変え、成長したり複雑化したりする。一歩にはそんな風にも見えた。

 指導にあたる「先生」は若手の女性アーティストで、子どもたちに自由にやらせながらも、常に子どもたちがルールを思い出すよう気を配っていた。

 ルールはただ一つ「壊すな。発展させよ」である。他人の作ったところをすぐ壊してはいけない。それを活かして何かを付け加え、新たな形へと発展させるのだ。想像力を必要とした。


 それぞれの子どもが作った「部分」は、真似されて全体に波及することもあれば全く波及しないこともある。それでいて、その部分が全体の中で意味を持たないというわけでもない。

 ふと、一歩は「こういう参加型の仮想空間を作っても面白いかもしれないな」と思った。頭の引き出しに入れておいて、岡田や、技術開発の連中と話し合ってみてもいいかもしれない。


 七海は一歩が入ってきたことにも気づかない様子で、真剣な表情でその生き物の次の形を生み出そうとしていた。

 七海のこんな表情を一歩が見るのは、源助さんの葬儀で会ってからこっち、初めてのことだった。


 少しほぐれてきたかな・・・と一歩は喜んだ。

 一歩の存在に七海が気づいたのは、よほど経ってからだった。それだけこの遊びに夢中になっていたのだ。

 一歩はそれを邪魔したくなくて、ずっと遠目に眺めていた。父親というのはこんな気持ちになるものなのだろうか——と考えたりした。


「あ、タケチンポ!」

 七海の最初の一言に、みるみる耳が赤くなってゆくのを一歩は感じた。すぐ隣にアーティストの「先生」が居たせいもあっただろう。

 七海はニカッと笑うと、和紙の端っこを円錐状に丸めて糊付けした。それから、こっちを見て歯を見せたまま、それを指差した。ナニのつもりらしい。

 まるっきりのガキなのか、どこまで意味がわかってやっているのか・・・

「ゲイジュツ作品にそういう下品なことをだな・・・」と言いかけると、先生が一歩をさえぎった。

「いいんです。ルールに違反してません。」

 目元にころりとした笑いをたたえている。

 一歩はまた、耳が赤くなっていくのがわかった。

 男の子2人が、その尖塔の根元に丸いドームを2つくっつけた。すると、今度はすぐ隣に、トグロを巻いたウンコの形が出来上がり始めた。七海が大口を開けて笑っている。


 どんな笑いにせよ笑顔が戻ったのは結構なことだが、七海のせいでせっかくのアートが下品なものに・・・と思っていると、先生は一歩のそんな心を読んだように、

「いいんです。これまで何度も出現しています。すぐ消えていきますから。あれは大きな生き物なんです。子どもたちも含めてね。有性体になったり無性体になったりするんですよ。」

と言った。

 そのことがつまり、この先生の考える「アート」なのだろう。と、一歩なりに理解はできたつもりになった。


 七海は一歩を見つけたあとはもう作品には興味を失ったらしく、糊と和紙を放っぽってこちらに歩いてきた。

「面白かった!」

「そいつは良かった。連れてきた甲斐があった。」

 少し会話が成立するようになっている。昼間得た知識をまだ何も試していないというのに。

 この遊びが良かったのか、あるいは一歩の肩の力が抜けたことが七海にもいい形で伝わったのか。その両方かもしれない。

 先生にお礼を言ってその場を辞し、車の方へ歩く途中で、一歩は話しかけた。

「おなか減ってるだろ?」

「減ってる。」

 会話が成り立つ。

「じゃ、晩ご飯食べて帰ろう!」



 帰り道、ちょっと小洒落たレストランの駐車場に車を停めた。空はまだ夕焼け空だが、植栽の間に見える東の空には既に少しずつ侵食を始めた闇の気配が漂っていた。

 レストランは、太い真っ黒な梁と鏝跡を残した漆喰壁の南欧風の建物で、照明は少し控えめに抑えてあった。たぶん七海は経験したことのない空間だろう。

 一歩はなるべく、七海に「こちらに来て良かった」と思ってもらえるようにと、あれこれ気を配っているつもりだった。


 ウエイターがメニューと水を持って来て、テーブルに置いた。水はクラシック風の模様のある淡い緑がかったガラス瓶に入っており、からのコップ2つはそれぞれの前に置かれた。

「お決まりになりましたらお呼びください。」

ウエイターは静かな声で告げると、去っていった。

「何が食べたい?」

 メニューはステーキ系が主で、ハンバーグもある。サラダの種類も豊富だったし、子ども用のハーフサイズもあった。

「ラーメン・・・」

 一歩は一瞬、固まった。・・・ここで?

 しまった。と一歩は自分の段取りのマズさを悔やんだ。入る前に聞くんだった。


 しかし、この店に入ってしまってから「ラーメン」と言い出すということは・・・

つまり、まだ「お試し」の期間なのだろう。と、一歩は解釈した。ここで無理強いになるような言動は避けるべきだ。付け焼き刃の知識を思い出しながら、一歩は思考をめぐらした。

 とりあえず出るか?・・・店員に謝って。

 一歩がハラを固めかけた頃、七海が一歩の困惑を察してか子ども用のハンバーグメニューを指した。

「これでいい。」

 明らかに気を遣っている。

 ダメじゃないか、一歩。しっかりしろ! 一歩は自分を叱った。


 注文をしてウエイターが去ったあと、少しの沈黙があった。

「この瓶、きれいだね。」

 沈黙を破ったのは、珍しく七海の方からだった。七海に気を遣わせてしまっているのは十分に分かったが、一歩はそれは脇に置いて、とりあえずこのきっかけを掴んで「会話」を前に進めることにした。

「今度、こういうのを売ってる店に連れて行ってあげるよ。」

「うん。」

 返事をする七海の瞳が少し輝いたことに一歩はほっとした。

 一緒に「いただきます」をして、一緒に「ごちそうさま」もできた。昨日に比べると七海は格段に「良い子」になっていた。

 しかし、付け焼き刃にしろ知識を得てきた一歩には、むしろその「良い子」が一抹の不安にもなった。一歩は自分の持つセンサーの全てを動員して、七海を観察しようとした。


 あとで分かったことだが、源助さんは七海と夕食のラーメンを作って食べていたときに倒れたということだった。

「ぺっこ、疲れた・・・」と言って横になると、すぐにイビキをかき始めたらしい。

 医学的な知識があれば、こういうケースのイビキは緊急事態であるということが分かっただろう。

 しかしそのときの七海には、それがどういうことかを理解する知識がなかった。自分がラーメンを食べ終えてもお爺ちゃんが起きてこないので、不審に思って隣のおじさんに声をかけるところまでしか行動できなかった。

 救急車が呼ばれたが、病院に着いた時には源助さんはすでに手遅れだった。

 七海にはそれが傷になっていたのだろうか。七海の言う「リベンジ」とは、そんな自分の傷を吹き飛ばしたい——というような意味もあったのかもしれない。と、あとで一歩は想像した。


 しかし一歩が心配するほど、実際の七海は華奢でも脆弱でもなかった。

 この時、七海は七海なりに、自分の中の得体の知れない感情を整理整頓して、新しい生活に移行しようとしていたようである。

 ただ、甘えなおしを必要としていたのも間違いではない。その意味で、初期の頃の一歩の対応は概ね間違いではなかったのだろう。

 その証拠に、七海は急速に一歩との距離感を掴みつつあった。


 が、この時の一歩はまだ、その情報を持っていない。なんとかして七海とわかり合おうと試行錯誤している最中だった。

 帰りの車の中でも、一歩は些細な話題を見つけては「会話」をつなごうと努力し続けた。

 子どもを上から目線で見てはいけない。それでいて、保護者としての安心感も同時に与えなければならない。とりあえず一歩が「付け焼き刃」から得たこういうケースの接し方である。


 難しい。

 時おり大人びた微笑を見せるのは、七海は一歩のそういう腹の底を見抜いているのかもしれなかった。

 しかし、一歩の「ひたむきさ」が、七海に対して「自分は愛されている」のメッセージとして伝わったのか、この日の七海は一歩に対して甘えるような言葉や態度を見せるようになっていた。


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