17 ージャーナリストー
田県が指定された時間より少し早くそのネットカフェのブースの前に行くと、そこにはもう誰かが入っているようだった。
小声でブツブツと何かを呟く声が聞こえる。
田県がブースの扉をノックすると、プラスチック製の半透明な引き戸が、からっと開いた。
「まだちょっと早いぞ、田県さん。相変わらずだな。」
リクライニングチェアに座ったまま、顔だけこちらに向けてその男は言った。
年は40前後、ボサボサの髪に無精髭を生やした少し長い顔の男で、着ているものはコーディネートという言葉とは対極にあるようなトンチンカンな組み合わせだった。何日も風呂にも入っていないのだろうか、少し饐えたような臭いがした。
「覚えてないか?」
と、からかうような笑い顔で言う。
ああ、あの時のホームレスか・・・、と田県も思い出した。
「矢ヶ崎さん・・・ですか?」
「お、さすがジャーナリスト。」
矢ヶ崎と呼ばれた男は、相変わらずからかい半分のような口調で言った。
矢ヶ崎征次。東大を中退して、非正規雇用の仕事を転々としながら、3年前、田県が取材した時にはホームレスだった男。
田県が「ネットカフェ難民」の取材をする中で出会った風変わりな男だ。
田県が取材していたのは「就職氷河期世代の厳しい現実」をテーマにしたものだったが、矢ケ崎は世代としてはそうでありながら、田県のテーマとはまるっきりかけ離れていた。
彼は、そのまま行けば中央省庁のトップエリートにもなれそうな頭脳を持ちながら、自分からドロップアウトしてネットカフェの住民になったのだった。
「俺はあんたの取材のテーマには乗らねーから。」
と言いながら、まるで中央省庁の要職にいるか、政府系シンクタンクの主要研究員でもあるかのように、現状の社会の巨視的で的確な分析をしてのけ、田県も記事を書く上で大いに参考にさせてもらったものである。
「アメリカに独裁者が現れる。」
トランプの名前こそ出てこなかったが、当時の状況で、すでにそれを予言したのがこの男だった。北朝鮮の急速な核開発と、平昌オリンピック参加を踏み台にアメリカを交渉の席に引きずり出す戦略も、この男の予言通りに進んだ。
「構造を見てれば、世の中の動きなんざ2〜3種類の可能性に絞り込めるのさ。」
と、このホームレスは言う。
頭はもの凄くいいのだが、この男も、どこか欠落したものがあるような感じを、田県は受けた記憶がある。
「髭、剃ったからな。」と矢ケ崎は無精髭の顔で笑った。
田県は苦笑した。
「矢ケ崎さん、それは『剃った』という顔じゃないですよ。」
「前みたいなもじゃもじゃの髭じゃ、アルカイダと間違えられてもヤだしな。」
矢ケ崎はリクライニングチェアから、よっこいしょと立ち上がった。
「オープン席なんだろ? そっち行こう。」
矢ケ崎は途中、フリードリンクコーナーでカルピスをコップに入れ、田県の席まで歩いてきて、4人がけの席の片方のソファにどかっと座った。
氷は入れていない。
「濃い方がいいんだ。頭が糖分を欲しててね。で、何が聞きたいの?」
まるで自分の家の応接間のようなくつろいだ態度だ。
横柄なもの言いはこいつの癖だ——と分かってはいるのだが、田県は内心少なからず不快感を覚えている。こいつと話すときはいつもそうだ。
こいつの方が圧倒的に頭がいい——ということが、田県に抱かせる劣等感のようなものも混じっているかもしれない。
こいつの風体と、ホームレスという立場、それと相対したときの圧倒的知力の差がどうにも違和感を覚えるせいかもしれない。それは一種の外見による差別だ——と、田県は自分に言い聞かせる。
田県は、努めて丁寧に接しようと自分を戒めた。
田県は、例の元女子大生(今は被告だ)について、矢ケ崎の感想を聞いてみた。
「生命ってのは、アルゴリズムだ。——ってのは知ってるよな?」
矢ケ崎は、突然そのキーワードから話し出した。
「人間もそうだ。複雑ではあっても。」
「私は、その考えには同意しかねるね。」
と田県が言うと、矢ケ崎は鼻でフンと笑った。
「あんたが同意しようがしまいが、これは事実だ。最近の生命科学では、これはもうコンセンサスが得られた考え方なんだよ。」
矢ケ崎はカルピスを、ごくごくと半分くらい飲んだ。
「先行くぞ、いいか? それとも、あんたの思考も取材も、ここで引っ掛かったまんま停滞するか?」
田県も、コーヒーを一口飲んで、感情を落ち着かせた。そうだ。取材に来てたんだった。
「進めてくれ。」
と田県は促した。つい言葉がぞんざいになった。
「生命ってのは生き延びるためのシステムだ。」
矢ケ崎はまた話を飛躍させた。
「単細胞生物は基本的に同じ機能を持ち、同じように行動する。——個体差はあってもな。一方、多細胞生物の細胞は、同じDNAを持ちながら違う機能を持って、より複雑なシステムの部分を分担する。その中間にあるのが群体だ。」
矢ケ崎は、目の前に田県がいないかのような目をして話している。
「粘菌なんぞは面白いぞ。単細胞でありながら、群体的でもあり、多細胞生物のような動きさえする。それをただ単に、そういう生き物なのだ、というふうに捉えてるだけじゃダメだ。生命の持つ基本的アルゴリズムが、ここにはすでに全部揃ってる。」
田県は、自分の質問と何の関係があるのかと思いながらも、辛抱強く聴いた。
「文明社会というのは、この粘菌のようなものだ。個々の人間が自由意志で動いているようでいながら、一個の擬似生命体のように全体としても動く。」
矢ケ崎の目は、ここで初めて田県の顔に焦点を合わせた。
「先進国においては、都市文明はすでに『擬似』の取れた生命体になった、と考えていい。その中に、かつて『人間』の個体が持っていたアルゴリズムの全てを持ってはいない——または、作動させていない個体が出現してくるのは当然なんだ。それが、生命という現象なんだからな。」
矢ケ崎は、田県の頭で理解できるかな? という顔をして、少しの間黙った。
「その女の子に限らず、アルゴリズムが欠落したり短絡したりしている人間は、相当数いるはずだぜ。——今は。」
田県には、その論理は飛躍し過ぎているように思えた。
「人間の社会はもともと、自然の生命活動を模倣して作られているんだから、似ているのは当然でしょう。たしかに文明社会では、個々の役割分担がどんどん分業化しているけど、それは社会的な『役割』であって、生体としての能力そのものが欠落してるわけじゃないでしょ。」
矢ケ崎はまた鼻で笑った。
どうにも嫌なやつだ。こいつは・・・。
「19世紀までは、そういう考え方でも概ねズレてはこなかった。インターネットが出現するまではね。」
「20世紀末から爆発的に普及したインターネットが、人体にまで影響を及ぼしていると言うのか、あんたは?」
「認識が間違ってるぞ、田県さん。何勉強してンだ? インターネットってのは通信手段の世界的ネットワークのことだ。」
こいつの物言いは一言多い。本人は嫌われていることを重々承知の上のことで、矢ケ崎に言わせれば「嫌われることを恐れれば、目が見えなくなる」のだそうだ。
「それまでは『情報』は基本的に生物の個体を通してしか伝達できなかったからな。俺の見解では、この現象が顕著になってくるのは、電信が発達した20世紀初頭あたりからだよ。それでもまだ、第二次大戦くらいまでは『個体』としての復元能力はあったと思うね。」
田県には矢ケ崎が決めつけ過ぎてるように思えた。
「なぜ、そう思うんです?」
「あんたの言う『猟奇事件』のデータを調べてみろよ。太古からある猟奇事件の様相と一線を画し始めるのが、そのあたりだと分かるから。データだよ。ジャーナリストだろ?」
嫌味な口調のわりには、矢ケ崎の表情はむしろ田県の能力を評価しているようにも見えた。
「それだけじゃない。あんた、例えば縄文時代と同じ装備だけで大自然のど真ん中に放り出されたら、2週間生き延びられるか?」
「それは無理だろう・・・。だけど、それは自然に対する知識がないからで、生体としてのアルゴリズムの欠落ではないでしょ?」
「同じだよ。知識も、それを動員する概念や論理の構築も、結局は脳のシナプスの構造というハードに支えられたアルゴリズムの一部だろ?」
そう言われればそうかもしれないが、田県には『人間』をそんなふうに考えることに抵抗があった。
「でも、それは、あなたが言うように、必要とあれば復元可能じゃないですか? あなたの言い方だと『人間は学ぶことも成長することもできる』ということを否定しているように聞こえますが。」
矢ケ崎は田県の問いを無視した。
「知識量だけなら、現代人の方が縄文人よりはるかに多い。だが、それを動員するやり方が縄文人の個体とは違ってしまっているのだ。表皮細胞は死ぬためだけに生まれてくる。死んで角質になることで生体全体を守るのだ。脳細胞と同じDNAを持っていながら、そのある部分だけしか発動しない。」
矢ケ崎はまた話を飛躍させた。どうもこの男の意識の中では『聞き手』という存在が希薄であるらしい。
「単細胞生物の細胞には、そういう顕著な差異は現れない。文明社会、あるいは都市という生体全体を生かすために、アルゴリズムの一部が欠落したり付け加わったりした個体が現れるのは、生命現象としては自然なことなんだよ。」
矢ケ崎は自分に酔うようにして続けた。
「だいたい増えすぎた人口調節のシステムなどは、人類のDNAの中に元々仕組まれているしな。戦争にしろ、テロにしろ、それは『種』全体を守るためにあらかじめDNAの中にセットされた・・・」
「あんたがそれで殺されることになっても、同じことが言えるのか!?」
田県は、ついに声を荒らげてしまった。そんなふうだから、おまえはホームレスなんだ!——と叫びそうになったのを、かろうじて押さえ込んだ。
矢ケ崎はしばらく、きょとんとした顔をしていたが、やがて、にやりと笑った。
「俺もまた、欠落した1人なんだよ。」




