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ポストサピエンス  作者: Aju
16/40

16 ージャーナリストー


 友達できたらどうしたい?

 殺したい。


 彼女は何の屈託もなく、そう話した。


 と、面接した精神科医は田県に話した。この異常な事件の被告となった18歳の大学生に、田県のような何の肩書きもないフリージャーナリストが面会したいと申し出たところで許可など出るわけもなく、仕方なく田県は精神鑑定をした医師に取材を申し入れたのだった。


 まだ裁判途中なので「記事にしないこと」を条件に、医師は取材に応じてくれた。あくまでも「参考」意見として——という条件だ。

「いわゆるサイコパスの一種なんでしょう。かなり特殊ですがね。」

 そういう説明を聞いても、田県には俄かに腑に落ちるものではなかった。「友達」と「殺す」はどうやってつながるのだ?

「たしかに・・・。頭のいい子ですが、論理構築は我々一般のものとは相当に違うようです。ソシオパスも重なっている可能性があると思われますが・・・。」

 資料は一切見せず、守秘義務違反を意識しているのか、医師の言葉はどことなく歯切れが悪いように田県には聞こえた。


 田県龍一はフリーのジャーナリストだ。5年ほど大手新聞社の記者として働いたあと、独立してフリーになった。

 独立したのは、新聞社の「思想」に基づいて記事を書かされることに嫌気がさしたからだ。


 フリーと言うと、聞こえは格好いいが、不安定な職業である。多くはどこか、例えばTV番組制作会社や新聞・雑誌などの編集と「契約」して、特定の事件やテーマを追う仕事をする。その合間に、自分が興味を持ったテーマを追いかけ、書き上げた記事を買ってもらう。

 「戦場カメラマン」みたいに有名になってしまえば別だろうが、田県のような無名の下請けは、はたから見るほど「格好いい」ものではない。

 ただ、少しばかりの「自由」があった。


 田県が今、自分の興味で取材しているテーマは、NETいじめやNET暴力をその入り口としていた。

 初めは、 NET世界が開く反社会性の扉——というような切り口で、と考えていたのだが、取材を進めるにしたがって、なんとも言いようのない不安に襲われ始めたのだった。


 多くの暴言や中傷は、日常生活の中で出すことのできないストレスを、匿名世界で発散させているだけのものでしかなかったが、そういう中に明らかに人間として「おかしい」ものが混じっているのだ。

 例えば、オウム真理教事件の加害者でも、「人間」としてそこに至った精神の軌跡は追跡できる。

 許しがたい行為ではあっても、まだ「理解」の範疇にあるのだ。


 ところが、この女子大生(元・・・か)の場合、人間としての論理そのものの前提が崩れているとしか思えない。

 高い知性と論理構築力を持ちながら、その論理の前提となる価値観が普通の人間のものとは違う——。

 あるいはそこまで行かなくでも、どこをどう押したら、その条件からその結論が導き出されるのか?——というような人間が、どうやら顕在化せずに一定の数存在しているように、田県には思われた。


 それらは当面、「極端な幼児性」とか「サイコパス」といった部類の中で理解されているようだけれども、田県はそれだけでは納得できなかった。

 この問題を理解するために、田県は「顕在化したケース」として、この元女子大生の周辺を取材して回っているのだった。


 事件から間もないこともあって、両親は取材に応じてはくれなかった。小、中、高と、彼女が通った学校の同級生や教師を訪ね歩いてみたが、彼女は見事に擬態していたようだった。

 田県には、なぜ彼女がそうなったのか、あるいは最初からそうだったのか、についての疑問が解けなかった。


 生まれてこない方がいい存在——などという者があっていいはずがない。という田県の倫理観が、「初めからそうだった」という結論を拒否しているのかもしれない。

 それが田県を「取材」へと突き動かしているのかもしれなかった。

 NET内を検索して、同じような精神性の持ち主らしき書き込みを探している時、そのブログに出会った。


 それは一種、超然としたブログだった。訪問者は少なく、ブロガーもそのことを気にしてすらいないようだった。

 冷徹で、高空からの俯瞰——といった趣を持ち、「神の視点」とでもいうような視点を持ちながら、いわゆるスピリチュアルな宗教色が全くなかった。どちらかと言えば、人間社会を観察している研究者・・・のような感じで、温かみがまるでない。

 ただ、論理は明快で、「論理の前提が人間とは違う」というようなところはない。

 相当傲慢な人間らしい。と田県は推測した。


 文明の発達した社会、特に先進国と呼ばれる地域に、生物としてのヒトのアルゴリズムの一部を欠落させた存在が、多数現れるようになる。これは、生命としての必然である。


 ブログの中にあったこの一文に田県は興味を持ち、この人物を取材してみたいと思ったのだった。

 今、田県が追っている「おかしな人間」は、この文章に示された「存在」なのだろうか?

 だとしたら、それは田県の希望的倫理観に反して、初めからそのように生まれてきているのだろうか?

 このブロガーは、何を根拠にそのように断言しているのか?


 田県はこのブロガーのコメント欄に、自分の素性を明かして「取材したい」旨を書き込んでみた。

 ほとんど時間を空けずに、田県の取材用アカウント(記事のないブログ)に返事のコメントが入った。


 そこには都内にあるネットカフェの名前とブースの番号、そして日時が指定してあった。その日時に、そこに居る——ということだろう。



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