星の少女ーMoon lightー
涙が頬を伝う感覚があった。
しかしそれを止めようとはしなかった。
苗間もまた何も言わずに僕を見ている。
聞こえてくるのはピアノの音だけで、それが反って沈黙を強調しているようだったがそれでもしばらくは2人とも口を開かなかった。
この涙は何に由来するものなのか。
語られた過去。
苗間の思い。
埜亜の心。
僕の無力さ。
そうしたものが全て混ざりあって、僕の深いところに溜まり、それが溢れてきた。
そんな涙だと思った。
こんなところで泣いていては周りに変な目で見られるかとも思ったが周囲を気にしていられる程の余裕はなかったが、しかしこのままでは苗間にも申し訳ないと思い、一度強く目を拭う。
「ありがとうございます」
そうしてやっと口に出せた言葉がそれだった。
何に対しても感謝なのかは自分でもよくわからない。
――ただ、何となく
この涙が流せたことには何か意味があるような気がして、その気持ちだけは伝えたく、言葉が口をついて出ていた。
そんな僕の言葉にうん、と苗間は小さく頷いて応えた。
*
昼の青は夜の黒に変わり静寂の時間が訪れる。
太陽の光は眩しすぎて目にすることはできないが、月の穏やかな光を見るのは好きだった。
鳥も眠り生き物の声も聞こえない木々の中でこうして夜空を見上げることが好きだった。
彼女が帰ってくるまではまだ少し時間があるだろう。
怒られることはないが、あまり外に出ているときっと心配をさせてしまうのですぐに戻ろう。
空には鳥はもちろん飛行機も見えない。
月と星だけが浮かぶ空には視点の焦点が定まりにくい。
何かを見ているようで何を見ているのかよくわからないこの感覚も嫌いではない。
そうしてぼんやりとただ立っていると
「何をしている」
声がどこからともなく聞こえてきた。
低く重い声。
夜の闇から聞こえてきたかのような声に普通であれば悲鳴でも上がるのだろうが、我ながらどうもそういった神経は鈍いようだ。
「誰かな?」
声の主の姿は見えないがどこかの誰かへ向かって問いかける。
「ここで何をしている」
ふと、声が自身の背後から聞こえたことに気が付き後ろを振り向く。
するとそこには影が一つ立っていた。
「夜の散歩かな」
――いや、影かと思ったのはそれが身に着けている服が真っ黒であったためそう見えただけだ。
木と木の間、その影から溶けて出てきたように、黒い服を纏った男が一人そこには立っていた。
「君は誰かな?」
相手の姿も見えたところで再びそう問いかける。
危機察知ができないわけでも、そういう常識がないわけでもない。
どちらかといえば知らない人間には近づかないようにいつも口酸っぱく言われている方だとも思う。
しかし、目の前の男には何というかそういった“意味不明の危険性”というものは感じなかった。
おかしな話ではあるがこの男が突然襲い掛かってくるという気は全くしない。
その代わりにひどく理性的かつ論理的な脅威である、ということだけが何となく理解できた。
「貴様を監視するものだ」
そして男の方もおよそまともとは思えないことをあっさりと言ってきた。
悲鳴を上げられるどころか通報されてもおかしくないような発言であるが男にはそれを悪びれる様子も隠す様子もない。
「そうなんだね」
「気づいていたのか?」
こちらもあまりにも淡々と返したためだろうか、男の方がそう問い返してきた。
しかしそれには小さく首を横に振る。
「いいや、でもそういう人もいるんだろうと思ってね」
別に深い意味はない。
あるいは全てを見透かしたかのような発言にも聞こえるのかもしれないが自分としてはただ思ったことを言ったまでだ。
その反応に男は何を思っているのか、暗闇の中何も言わずに黙っている。
「それで、私に何か用かな?」
当然知り合いではないし、知り合いの知り合いとも思えない。
こんな夜中に突然話しかけられるような用はないと思っていた。
「見極めていた」
問いかけに淡々と語る男にはおよそ感情らしきものはない。
しかしそれは物静かだとか沈着冷静というわけではなく、ただそういった感情の機微が乏しいだけのようにも見えた。
「貴様が何者なのか。その身の危険性、それがもたらす災禍、命の価値、それらを見極めていた」
「そう。それでどうだったのかな?」
およそ意味不明の発言ではあるがそれはあまり気にしなかった。
この男が何者で何のために何をしようとしているのか、それが知りたかっただけだ。
「貴様の危険性は変わらない。貴様がどんな人間であろうともその力が世界を滅ぼしかねないものであるのならばそうなる前に対処せねばならない」
それがどういう意味かは直ぐに理解できた。
静かな夜には男の声はよく響いた。
理由もなく随分と身勝手な言葉にも聞こえたがそれを否定しようとは思わない。
それは自分がよく知っているから。
この力のことは自分でもよくわかっている。
しかしそれを恨んだことはない。
恥じたこともない。
けれど、これが人を傷つけること、悲しませることとはわかっていた。
だからきっとこういうこともあるだろうとそれは何となくわかっていた。
「私を殺すの?」
「いや」
濁すことなく率直にそう尋ねると男も短く否定する。
「まだその指示は受けていない」
誰かを殺す許可を待っているとは何とも奇妙なことだ。
なるほど、この男の持つ危険性はまさに武器のようなもので“そのために使わない”限り危険はないが、“そのために使われたとき”には躊躇もなく人を死に至らしめるという冷たい論理性のあるものだったのだ、と何となく納得する。
「そう。それじゃあその時が来るまではいいのかな」
動かない男に背を向ける。
男の用事はもうわかったし、それにそろそろ彼女が帰ってくるので部屋に戻らなければならない。
不注意にも背を向けるとは危険な気もするが今は殺さないと言ってきた以上今はそうではないのだろう。
「でも気を付けたほうがいいよ」
振り返らずにしかし背後に感じる気配に向かって言葉を送る。
「“その時”なんてものはあっという間に来て、あっという間に過ぎていくのかもしれないんだから」
まだそこで聞いているのだろうか、背後から反応はない。
最初から求めてもいなかったので気にすることはなく部屋へと戻ることにした。




