静かな音の中で
黒いコーヒーに天井の明かりが反射する。
中央に建てられた小さな舞台の上で弾かれるピアノの静かな音楽が店内を包んでいる。
知らない曲だがおそらく名前を聞いてもピンとは来ないだろう。
「では再会を祝して乾杯!」
乾杯、といいつつも僕も苗間も頼んだのはコーヒーだ。
静かな店内では大きな声は目立ちそうだったが意外にもピアノの音に消されるようだった。
コンッと軽くカップを合わせる。
店内にはもともと席が少ないというのもあるが客は少なく穏やかな時間が流れている。
苗間に連れてこられたのは所謂ジャズバーと呼ばれるような店だった。
結局あの後僕は何をするでもなく、何かをする気にもなれずバスで街まで戻ると駅前の喫茶店で約束まで時間をつぶしていたのだった。
そうして現れた苗間に連れてこられたのがここというわけだ。
正直なところ、まさかこんな場所に連れてこられるとは思っていなかった。
普通にどこかのファミレスかレストラン程度だと考えていたのでこの店が見えてきたときには少し驚いてしまった。
しかしこういう店にはドレスコードなどはないのだろうか。
周りの男性客はジャケットなどを羽織っているが僕はまったくの私服だ。
――それを言ってしまえば苗間はいつもの白衣なのであるが。
白衣の女性と私服と若者という組み合わせは何だか浮いてしまうような気もしたが苗間は気にしていないようである。
「ほんとはお酒がおいしんだけどねぇ。流石に真喜屋君には飲ませられないからね」
あはは、と笑う苗間はいつもの通りの様子だ。
「苗間さんも元気そうでよかったです」
そして――
「埜亜も元気にしているよ」
にこりと微笑むその顔に少し安堵する。
埜亜が今日来ないと聞いてひょっとしたら何かの事情で外に出ることもできないのでは、という可能性も考えていた。
しかしそうではないらしい。
だが、そうなると埜亜をここに連れてこなかったということはやはり3人では話しにくいようなことなのだろうか。
「あの、今日はなんで僕を」
僕はあれこれと考えるのはやめて率直に尋ねることにした。
僕と2人で話したいこととは一体何だというのか。
「そうだね」
もう一度コーヒーに口をつけると苗間は静かにそう切り出した。
何となく空気が少し張り詰めたようなそんな感じがした。
「きっと真喜屋君も気になっているだろうから結論から言うと、明日流星群が訪れるといわれているけれどもあれは埜亜の力とは関係がないと考えている。あれはただの自然現象だろうね」
「そう、なんですね」
僕の眼をまっすぐに見ながらそう言い切った苗間の言葉に心につかえていたものが一つなくなったような気がした。
その根拠などはきっと僕にはよくわからないだろうから聞かないでおくが苗間の言葉には嘘はなさそうだったので今は素直に信じることにした。
「けれど」
そう続ける苗間の眼は僕を捉えたまま揺るがない。
「それに紛れ込むようにして、埜亜に引き寄せられた星が地上に落ちる可能性はあるとみている」
店内を包むピアノの音に消えることもなく、その言葉ははっきりと聞こえた。
「・・・どういうことですか?」
「空を流れる星の全てがあの子の力によるものではない。まだ研究途中ではあるけれどもそこまで強大な力を持っているとは考えられてはいない」
生徒に授業をするかのように淡々と話を続ける苗間に僕もまた聞き入ってしまう。
「しかし大前提として宇宙から星が多く流れるときに、地上に埜亜という標準があれば“星が墜ちやすい”と私たちは考えている。それは真喜屋君もよく知っているんじゃないかな」
それは――あの夜のことだ。
あの夜も多くの星が流れていた。
てっきり今まではあの夜空の流れ星が全てその力によるものなのかとも思っていたがそれは違ったようだ。
あれが偶然なのかはわからないが流れ星のいくつかは自然に発生したものなのだろう。
しかし、そんな星が流れてる夜には
――埜亜に星が墜ちやすい
そう苗間は言ったのだ。
天気予報でもあるまいし、
そのどこか間の抜けた表現に思わず笑ってしまいそうになる。
しかし、それは決して冗談や何かではない。
それはこの僕自身が一番よく知っている。
「それじゃあ、明日は」
「危険な可能性が高い」
実に簡単に苗間はそう言った。
想像はしていたが聞きたい言葉ではなかった。
そんな話とは対照的に軽快な音楽が店を包んでいた。
「私と埜亜はそれなりに古い付き合いでね」
そんな音を楽しむように、苗間は少し微笑みながらまたコーヒーに一口つける。
突然切り替わった話に、しかし僕は何も口を挟まない。
それは何か大切な話なような気がしたのだ。
「榛名埜亜の両親は研究者でね、まあ所謂私の恩師という人たちだったんだ」
何かを思い出すような視線には何が見えているのだろう。
「けれども2人とも亡くなってしまってね。埜亜が5つの時にね。それ以来だからもう7年か、一緒に過ごすようになったのは」
「埜亜・・・榛名さんのご両親って」
「埜亜でいいんじゃないかな?あの子も多分喜ぶよ」
あっさりと触れられた埜亜の過去に僕は戸惑ってしまったが苗間はふふっと笑ってそんなこと言ってきた。
「埜亜が生まれたときから知っていたんだよ?だからまあ年の離れた妹みたいなものさ」
感慨深げに苗間はそう呟いた。
苗間と埜亜の不思議な関係が少し見えたような気がした。
「埜亜が施設に引き取られると聞いてね、それなら私が一緒に暮らすといったんだ」
あの子には幸せになってほしかったから、という苗間の言葉には深い優しさと、ほんの少しの寂しさがあった。
「もちろん埜亜の力のことは知っていた。けど、それであの子が悲しむ必要はない。あの子にはあの子が望む人生を生きてほしいとそう思っていたんだ」
「埜亜もきっと、幸せだと思います・・・えっと」
そんな苗間が少し悲しげに見えて何か伝えたいと思ったのだが何といえばいいのかうまくまとまらなかった。
しかし苗間と共にいた時の彼女が悲しんでいるようには見えなかった。
だからそんなことを言いたかったのだが。
「ありがとう。でも私は私にできることをしただけだよ」
そんな僕を見て苗間は微笑んだ。
きっとこんな顔をいつも埜亜に向けているのだろう。
それならばやはり彼女は幸せに過ごしているに違いない、とそう思った。
「だからこそ、私は埜亜と共にいることを選ぶ。最後までね」
「・・・」
しかし苗間の話は決して穏やかなものではない。
その“最後”とは一体何を指すのか、それを聞くことはできなかった。
「今日、真喜屋君を呼んだのはこの話をしたかったからだ」
じっと苗間は僕を見る。
その表情はまた先ほどのものに戻っている。
「これから先、どんなことが起こるかははっきり言ってわからない。けれど私は私の意志で埜亜と過ごす。だからそのことについて君が何か悩む必要はないんだよ」
「それって・・・」
どんなことが起ころうとも――その言葉にはずしっとした重みがあった。
「君にはそういったことで思い悩まずに幸せに生きてほしい。これは私と、埜亜の願いかな。あの子は結構君のことを気にしているようだから」
「えっ?」
「何だかんだといってもあの子もまだ12だからね。一緒に星を見てくれた君のことは友達として大切に思っているようだよ」
「星・・・」
その言葉に胸が締め付けられた。
埜亜が僕を友人と思っていた。
あの日、あの夜、たった数十分程しか話をしていない僕を彼女は友人としてくれた。
そんなことで、とは言えなかった。
一緒に星を見た、それだけでも彼女にとっては十分だったのか。
榛名埜亜という少女にとってその存在がどんな意味を持つのか僕には到底推し量れない。
けれど、それでも。
そこにある埜亜の思いと――寂しさに触れた気がして、僕は涙を止めることが出来なかった。
穏やかなピアノの音が静かにその場を包んでいた。




