動き出すもの
じっと携帯を見つめる。
通話画面を開いたまま指は止まる。
あと一つ、この受話器のマークを押せば通話が始まる、というところである。
こんな風に言うとまるでクラスの気になるあの人に電話をかける前に緊張してしまう青春の1コマ、という感じだがそんなものではない。
携帯の画面には『苗間 栞里』の名前。
彼女へ電話をしようかどうか、そんなことを考えて悩んでいたのだった。
僕が悩んでいるのはこんな夜に電話をかけたら迷惑になるのではないか、ということももちろんあるがそれよりも何故電話をしたいのか、それが自分でもよくわからないためである。
当然向こうからしたら何の用か、となるだろうがそう言われたときに僕は何と答えればいいのだろう。
今週末の流星群を知っているか、何て聞いたらまるで遊びに誘っているようである。
だが、この流星群は埜亜の力によるものなんですか、などとはとても聞けない。
正直に言ってしまえば気になってはいた。
――しかし、それは何というか野次馬根性というか、余計なお世話というか。
仮に、万が一にでもこの現象と埜亜に関わりがあったとしてもそれはやはり僕が介入して良い話ではないのだ。
僕にできることと言えば精々場を引っ掻き回す程度のことだ。
もう何度かたどり着いたこの結論。
何度も同じことを考え、そしてこの結論で自分を納得させる。
真喜屋葦人は榛名埜亜とはもう関わる必要がない。
僕は彼女の問題に対して無力なのだから。
だから、もう寝ようと思ったその時に、
僕の携帯から着信音が鳴り響いたときは飛び上がるほど驚いた。
反射的に発信者の名前も見ずに通話ボタンを押してしまう。
しまった、と思う間もなく通話口からは聞きなれた――聞きたくもあり、聞きたくもなかった――女性の声が聞こえた。
『やっ、こんな時間にすまないねぇ。まだ起きてたかな真喜屋君』
苗間栞里という女性は電話でも僕を驚かせてくれた。
*
男は一人静かな部屋にいた。
窓も家具もなく、ただ一人用の椅子だけがポツンと真ん中に置かれた、そんな部屋の椅子に男は座っていた。
部屋には男の他には誰もいない。
一見そう見えるが、わかるものであればこの部屋に流れるある種の特殊な空気を感じるだろう。
「計画は?」
虚空に向かい問いを投げる。
その声が小さな部屋に静かに反響すると
―次の段階よ。動きなさいD4―
どこからともなく、女の声がそれに答えた。
まるでロボットに発進を指示する操縦者のような口ぶりであるが、男はその命令口調の言葉にも不満や怒りはないようであった。
「わかった」
そして男の方も機械のようにただ肯定の意思表示のみで返す。
―そして貴方の報告にあった少年については現段階では放置とするわ。問題はないわね―
反対に投げられた問いにも男は表情を動かすことはない。
「ああ、あれは何にも関与はしない。その程度の存在だ」
男の態度は先ほどの報告の際と変わらない。
その答えに対して、そう、と姿なき女が少し考え込む気配がする。
―これは私個人の質問なのだけど。D4、貴方はこの少年をどう見ているの―
「報告の通りだ」
同じことを聞かれ苛立っている、というわけでもなく、男は自らが思うことをそのまま告げる。
―貴方の“仮説”が正しければそれなりに奇妙な力を持っていると思うのだけれど。それでもこの少年の存在は現時点で対処する必要がない、と結論はおりた。貴方もそれでいいと考えるのね―
「・・・何が言いたい」
―いえ、私もこの決定には異はないわ。これが即座に問題になるとは思えない―
ただ、と女が続けるのを男は黙して聞く。
―もしもこの少年が“対処すべき存在”になったとき、我々にできることはあるのかと、そう思っただけよ―
「・・・」
男は何も答えない。
それは答えに窮しているというよりも、深く思考を巡らせているという感じであった。
―余計な話だったわね。そうなったときには対処できる人員が配置されるだけのこと。忘れてちょうだい。今はただ互いに為すべきを為すとしましょう―
しかしそうして話を切り上げると男の反応を待たず、女の気配がふっと消える。
部屋に残されたすぐに男は立ち上がると唯一の出入り口である扉から外へ出る。
自身の思考は余計なものとして既に男の頭からは切り捨てられ、代わりにその目には己が使命を全うせんとする意志が込められていた。
“始末せよ”という指示が下りたのだ。
自分はただそれを果たすのみである。
*
『こんな時間に申し訳ないねぇ』
「いえ、まだ起きてました」
電話越しに聞く苗間の声は何だかかなり久しぶりのようにも感じたが相変わらず明るいものだった。
『さて、早速なんだけど今度の週末は真喜屋君は暇かな?』
「今週末ですか?」
胸が一度強く脈打つ。
――それはまさに、今僕が聞こうとしていたことである。
「・・・別に予定はないですけど」
何かまずい話でもしているようについ小声になってしまう。
こんなタイミングでなければ休日の予定を聞かれ緊張してしまうようなシチュエーションだが、今はそういう気持ちにはなれない。
何故苗間がそんなことを聞いてくるのか、このあとどんな話を切り出されるのか、そのことで頭はいっぱいだった。
『それは良かった、いや真喜屋君のような若者が休みに予定がないのは悲しいことなのかな?』
ふざけているのか本気なのか、電話の向こうで苗間は笑っていた。
『それじゃあそのまま開けておいてくれるかな?久しぶりにご飯でも行こうかと思ってね。もちろん私のおごりだよ』
「別に・・・大丈夫ですけど」
まくしたてるように言われるが、これはどういうことなのだろう。
話だけ聞けば食事の誘いとしか思えないが、急にそんなことを言われる理由がわからなかった。
苗間という人間はどことなく読めないところがあるので何の理由もないのかもしれないが、それにしてもこんな夜中にいきなり電話をしてくるほどのことなのだろうか。
『ちなみに埜亜はお留守番してもらう予定だけどね』
「・・・そうですか」
落胆、という気持ちはなかった。
そしてそれは苗間もわかっていることのようだった。
むしろこれで何となく話が見えた気がした。
次の金曜日夕方に苗間が迎えに来てくれる、ということで話は終わった。
ではおやすみ、と通話が終わった暗い画面をじっと見つめる。
苗間に会うのはいつぶりだろうか。
どんな話が出るのかはわからないが何か込み入った話になるのかもしれない。
その日までにいろいろと考えてをまとめておこう、と自分に言い聞かせる。
――しかし僕は知らなかった。
深刻な話なんてものは大抵の場合、既に進むべき方向は決まっており、そこにいちいち頭を悩ませるほど何かができる余地はなく、そして、悲しいことにそうした時には前もって準備していた考えなどは何の意味もないということを。




