近づくもの
授業の声は僕の耳に入っては頭に定着することもなく流れていく。
黒板に書かれたことを手はまるで自動筆記のようにノートに書き写してはいるがそれは文字の羅列となっていて頭は意味までは理解していない。
こんなことを繰り返してはまたテスト前に慌ててノートを一から見直す作業をすることになるとわかってはいるがしかしそうそう心を勤勉なものに入れ替えることはできない。
こうして世界史の授業は進んでいった。
実際のところはその他の授業でも同じなのだが。
学校では【特殊能力者】に関するもの以外にも通常の授業も行われている。
しかし【特殊能力者】も通常科目もぼんやりと聞いているということには変わりはない。
ただテストで赤点を取らないよう最低限のことは押さえるようにしているのはある意味では勤勉と言えるのかもしれない。
このように僕の日常は何事もなく戻ってきた。
僕自身がそう努めていたこともあるかもしれないが、そもそも日常を失ってしまうほど非日常の中にいたわけでもなかったのだ。
ほんの少し、これまでの生活では知らなかった世界に触れていた瞬間もあったのかもしれないが、それらは意識しないでいればもう僕の日常に紛れてくることは決してなかった。
あの日から1週間経った。
携帯には苗間の連絡先は残しているが連絡を取っていないし向こうから来ることもない。
学校に行く途中にあの公園の前を通るがそれは通学路なので仕方がない。
公園に立つ補修中の看板が目に入るとどうしても彼女のことを思い出してしまうがそれもそれだけのことだ。
学校ではこれまで通りに授業を受け、友人たちと他愛もない話を楽しむ。
そうして家に帰れば家族が待っていて、眠りにつけばまた次の朝が訪れる。
僕が何を考え、何をしていても日常はその間も常に流れていて変わりがなく、僕はただそこに帰ってきて再びその中に身を置くことにしただけだ。
だから、というと理由にはまるでなっていないが、今日は放課後にそのまま家に帰らず出かけていた。
こうして意味もなく出かけることは普通の日常生活らしい気がして、そうしてみたくなったのだ。
といってもどこかに遠出とはできず、駅前に買い物に来ただけだ。
夕方の駅前は学生やらでそれなりに賑わっていた。
学校や僕の家の周りが閑散としているからで駅前には店も多く学生などは皆こうして帰る前に少し立ち寄って何か食べたりしているのだろう。
駅前に来ることなど休日に本か何かを買うときくらいなのでこうした平日の姿はあまり見慣れていなかった。
しかしやってきたはいいものの今日は特に目的があったわけでもないので何をしようかと迷ってしまう。
仕方がないのでよく行く本屋に入っては見たがやはり目当てのものがあるわけでもないのでぷらぷらと店内をうろつく。
この本屋には度々来てはいるが買うものと言えば漫画か小説か、姉に頼まれた雑誌くらいのもので別に僕は本の虫というわけではない。
なので「趣味のコーナー」と区分けされたエリアも普段なら決して来ないが、目的のない今日はいつの間にか足が向いていた。
整然と並べられた本の背表紙や平積みにされた賑やかな表紙に目をやる。
【今からできるDIY】や【身体に効くヨガ】など僕は興味がないが母や姉ならとりあえず手に取りそうなものが並んでいる。
しかしせっかくなら何か新しい趣味でも始めてみようと、面白そうなものを探していると
【今年は家族、友人と天体観測を楽しみませんか?】
という派手な文字で書かれたポップが目に入った。
棚の一角には小さなエリアが作られそこには天体観測関連のものや星座占いの本が少し並んでいた。
よくある店員のお薦めコーナーという感じなのだろう。
普段なら気にもしないで通り過ぎているだろうが、今の僕には引っかかるものが多すぎてどうしてもそれを無視することが出来なかった。
別に仕掛けられたわけでもあるまいが何か気になってしまい本に手を伸ばすと
「貴方、気を付けたほうがいいわよ」
いつの間に隣に立っていたのか、誰かが僕にそう声をかけてきた。
思わず伸ばしかけた手を止めて声に顔を向けるとそこには女性が1人立っていた。
「望む望まいと、それは向こうからやってくる。貴方はどうもそういう所にいるようだから」
「え?」
突然の言葉に僕はぽかんと口を開けて間抜けな声を出してしまう。
それはどこにでもいそうな女性だった。
カジュアルな服装に身を包んだ姿はどこかその辺のオフィスで働く会社員としか見えない。
見た目には不審な様子もない女性からいきなりそう声をかけられ僕はフリーズしてしまった。
「そして貴方も知ってか知らずか、そこへ近づこうとしてしまう」
女性はちらっと僕の手が伸びる先に目を向ける。
そこには星座やら何やらの本が置かれている。
それは一体どういう意味なのか。
「何ですか?」
僕は当然の疑問ぶつける。
ひょっとしてこれは新手の宗教勧誘か何かなのだろうか。
しかし女性は僕の警戒など意に介さないように
「けれど不思議ね。その中でも貴方にはそこから何とか生き延びようとする意志がある」
そう独り言のようにつぶやいた。
その女性の眼は僕に向けられているがどこか虚空を見るようで決して僕と目を合わせているわけではない。
「僕のこと知っているんですか?」
「いいえ、別にこれも伝えようとも思っていなかったけど、少し気になっただけよ」
僕は相変わらずの警戒を続けていたが女性の方はそれだけ言うとくるりと背を向け去ろうとする。
「ちょっ――」
ちょっと待って、とその背に声をかけようとしたが女性は振り返ることもせずに立ち去った。
その後を追おうとは流石に思えなかった。
気になることを言われはしたがあまりにも不審であり、下手な厄介ごとには首を突っ込みたくはなかった。
埜亜とも、苗間とも、僕を襲った謎の男ともまた違う奇妙な雰囲気を纏っていた。
しかし、どうしてこんな出来事ばかりが起こるのだろうか。
僕は目を本棚に戻す。
そこには星に関わる本がいくつか並んでいる
望む望まいと、それは向こうからやってくる
先ほどの女の言葉が頭にループして、僕は何も買わずに店から出た。