襲撃と別れ
動けなかった。
正確に言えば動かせなかった。
「っ!」
状況はまるでつかめないが何者かに後頭部を鷲掴みにされていることだけが感触で分かる。
それも片手だ。
ボールか何かを掴むように無造作に、しかし力強く握られている。
それはどれほどの力なのか、首はびくとも動かず目を思いきり後ろに向けようとも角度の限界で背後の様子を見ることもできない。
「答えろ」
低く重い男の声。
それは質問などではなく命令だ。
僕は何とか逃れようともがくが万力で締め付けられているように頭はまるで動かない。
「がっ!」
ぐっ、と指に力がこめられる。
頭に走る痛みに思わず声が漏れてしまう。
「貴様は何者だ。それだけ答えろ」
しかし声の主は直ぐに力を緩めた。
答えろということか。
僕はこれが命令ではなく拷問なのだと何となく理解する。
「ぼ、僕が・・・?」
しかしその問いの意味が分からない。
僕が何者か?
こいつは何か人違いをしているのだろうか。
僕は何者でもない。
しかしそんなことを言ったらどうなるかわからない。
男の声と力は大声で助けを呼ぶことも忘れさせた。
何とか振り払おうと腕を後頭部に伸ばすと頭を掴む男の腕に触れた。
硬い岩のような感触、恐ろしいほどの筋肉の存在を感じる。
「思い違いか」
男は低く呟くようにそれだけを告げる。
そこには落胆や怒りなどない。
ただ機械が動き出すような無機質な冷たさがこめられていた。
「あれとは無関係か」
「っ!」
ゆっくりと、しかし確実に指に力がこめられる。
昔テレビで筋肉自慢の男がリンゴを握りつぶした映像を思い出す。
そのリンゴが僕の頭に変わる。
「ぐっ・・・」
キリキリとした痛みが頭を締め付ける。
この力なら本当に僕の頭なんて握りつぶせてしまうのではないか。
だがどれほど暴れても引き剥がすことが出来ない。
このままでは本当に、握りつぶされてしまうと
そう思った瞬間
「なにっ!」
ふっ、と僕を掴んでいた力がなくなる。
その手から逃れようと体重を前方に傾けていた僕は掴まれていたことであった支えを失って前のめりに倒れてしまう。
突然の出来事に受け身も取れず地面に倒れこんでしまった。
「貴様っ」
しかし驚愕しているのは男の方だ。
初めて感情らしきものを伺わせる。
「何なんだっ!お前」
僕は地面を転がりながら体を起こして振り返る。
しかしそこには既に誰もいなかった。
「やはり、何かあるな。貴様には」
声は再び背後から聞こえてきた。
姿は見えないがあれだけの力を持っているのだ、かなりの巨漢のはずだが恐ろしいほど素早い。
僕は先ほどの万力に締め付けられるような痛みを思い出し身が竦んでしまう。
だが、意外にも男は何もしてこなかった。
「まさか貴様もそうなのか?」
相変わらず男の独り言のような言葉の意味は僕にはわからない。
僕は男につかまらないようにまるで自分のしっぽを追いかける犬のようにぐるぐると回転する。
しかし奇妙なことにまるで男の姿を視界にとらえることが出来ない。
「世界を滅ぼすものがそうはいるはずがない。だが、迂闊には触れられんな」
それだけ言い残すとふっと男の気配が遠ざかるのを感じる。
足音も何も聞こえないが押しつぶされそうな威圧感がなくなっていく。
「何だったんだ・・・」
全身から力が抜ける。
痛みもあるが何より解放された感覚に安堵してしまう。
尻もちをつくように倒れる。
突然の出来事。
あの男は何者だったのか。
襲われた、と思っているが姿すら見ていない。
しかし今もずきずきと痛む頭があれが夢などではないことを伝えてくる。
あれが何かはわからない。
だが、危険な人物であることは間違いない。
僕はゆっくりと立ち上がる。
苗間と埜亜に伝えたほうがいいだろうか、しかし姿も見えなかった男に襲われたなど無意味な不安を抱かせるだけになるかもしれない。
そんなことを思いながらそれでも足が自然と研究棟の方に向かったところで
「送っていくよ」
少し困ったように笑いながら苗間がそこに立っていた。
彼女はいつもこういう時に現れるな、とそう思った。
*
静かな時間が流れる。
苗間は車で僕を送ってくれるといい、僕は今度はそれを断らなかった。
何となく苗間がそれを望んでいるような気がしたのだ。
音楽もかけず、車が風を切る音だけが社内に響く。
もっとあれこれと話かけてきそうなものだが苗間は静かに前を向いているだけだ。
「さっきのことは気にしなくていいよ」
その沈黙を先に破ったのは苗間だった。
僕に目線も向けずそれだけを告げる。
苗間の横顔には怒りや冷酷さは感じない。
ただ、それ以上の問いは寄せ付けないような静けさがあった。
だが、
「それはどのことですか」
何も聞かずに沈黙で返すのはやめた。
僕は聞かなければならない。
さっきのこととは埜亜とのやり取りではなく、僕とあの男のことだろう。
ならば僕は聞かなくてはならない。
それは僕が襲われた理由、そして苗間や埜亜のことにも関わるはずだ。
「真喜屋君がさっき出会ったことについてはもう忘れなさい。このまま今までの生活に戻ればもう2度と関わることはないだろうからね」
冷たく突き放すようにも聞こえるが、その中にはどこか優しさのようなものがあると僕は感じた。
「どういうことですか?」
しかし引き下がれない。
僕が襲われたということもあるが、何となくあの男は埜亜にとっても危険な存在であると、そういいようのない感情が僕にはあった。
「真喜屋君が悩むことは何もないってことさ」
「僕はさっき誰かに襲われました」
苗間は決して核心には触れないような気がしたので僕ははっきりと告げる。
だがこの言葉に苗間は驚いた様子もない。
やはり知っていたのだ。
「その危険はもうないし、埜亜に関していえば真喜屋君が心配するようなことは何もないよ。それとも私の心配をしてくれてるのかな?」
「そういうことじゃなくて・・・」
それでも苗間の僕に対する言葉は変わらなかった。
茶化すようなの言葉に僕は何といっていいかわからない。
「真喜屋君はやっぱり優しいね。埜亜が気にかけるのもわかるよ。でもそれならやっぱりこれは同じことなんだ。君は巻き込まれる必要がない」
もう忘れなさい、と
優しく、子供を諭すような口調。
今日2回目の別れを告げる言葉に僕はまた何も言い返せない。
気が付けば車は僕の家の近くまで着いていた。