生存者
部屋の中には男が一人座っていた。
男が腰かける椅子以外には何もない。
机やテレビ、窓すらない。
ただ出入り用のドアがあるだけの空っぽの部屋の中で男は一人だった。
背もたれに体重を預け、どこともなく空中の一点を見つめる男が口を開く。
「それで、結論は何なんだ」
高圧的な口調。
それは意味のない独り言として空中に消えるはずが
―わからないの?このまま変更はなし、ということよ―
姿なき女の声がそれに答えた。
部屋の中にはスピーカーや電話の類もない。
どこからともなく聞こえる声に、しかし男は驚いた様子もない。
「馬鹿な。事は起こったんだぞ。物陰から見続けることにもう何の意味がある」
端から見れば男は空間に向かって話しているようだが、その目線は一点から動かず、まるで何かを見ているようだ。
眉間にしわを寄せるその姿は憤怒の表情の仏像のようで、この場に誰かいれば委縮せずにはいられないだろう。
―それでもよ。そう指示が下りたのだから貴方はそれに従いなさい―
声の女はその顔が見えているのかいないのか、ただ淡々とそう告げる。
―それにあれはまだ生きているのだから、監視は続けるべきということ。次の段階に移るのはまだ先でもいいという判断よ―
そう続ける声に男はもう肯定も否定も返さない。
―話は以上。お互い為すべきことを為すとしましょう―
声が会話の終了を告げるとふっと部屋の中から目には見えない何かが消える。
女の声はもう聞こえない。
男は視線を壁に向ける。
「そう、生きているのだ。だが何故だ。あれにはそんなことはできない。何かが起こったのだ」
静かな男の言葉に声が返ってくることはなかった。
*
退院した翌日には僕はもう学校に行くことが出来た。
あの後、姉と入れ違いで病院にやってきた母と共に家に帰ったのは昼を少し回った頃だった。
そして家に着くなり夜まで母からの説教が始まった。
しかし説教というよりも、それは心配であり、途中から少し涙ぐんでいた母の姿には僕もかなり罪悪感があった。
息子が夜中に出歩き、あわや死にかけていたとなればそうなるのも当然だ。
それは真面目に僕の罪として受け止めた。
それでも翌朝になればいつもの日常が戻ってきて、いつも通り朝食を食べ、こうして学生生活は再び始まるのだった。
体には目立った外傷はない。
腕に少しガーゼを張っているがそれも制服を着れば隠れる。
昨日はどうやら体調不調ということになっていたらしく、学校にやってきた僕をクラスメイトは別に大して驚いた様子もなく普通に迎えた。
しかし、一昨日の夜のことは学校でも話題にはなっていた。
近所の公園が爆発したと話している生徒の会話は登校途中にもちらほらと聞こえてくる。
公園で突然爆発事故、老朽化した水道管が原因か、とネットで少し調べると小さなニュースとしても載っていた。
「爆発・・・」
結局のところあれが何だったのかはよくわからないが、水道管や何かが爆発したというわけではないだろう。
だが、そんなことを知っているなどと言おうものならどんな大騒ぎになるかわからない。
誰に口止めされているわけでもないが、僕はあの夜のことだけは言わないでおこうと誓っていた。
「よう、真喜屋、元気そうだな」
教室に向かう途中、廊下で足利に出会った。
これから授業に向かうのだろうか、教科書や書類を抱えている。
「この前爆発あったのってお前の家の近くだろ?てっきり爆発に巻き込まれでもしたのかと思ったぞ」
本人は冗談のつもりなのだろうがあながち間違いでもないのだから面白い。
「近所でも大騒ぎでしたよ」
僕もそう当たり障りのないことを言っておくが
「けど爆発したのが古い公園でよかったよな。怪我人もいなかったらしいじゃないか」
足利の言葉に少し動揺してしまう。
怪我人はいなかったのか。
どうやら世間ではそういうことになっているらしい。
僕も埜亜もその存在はいなかったものとなっているのか。
確かに原因はともかく、ああいう事故の当事者ともなれば警察などが話を聞きにきても良いのかもしれないがそういったことはなかったし、家族にもなかったようだ。
そもそも母も姉も僕が公園で倒れていたということしか知らなかった。
僕が少し背中に冷たいものを感じていると足利は何かを思い出したように
「そうだ、この前のボランティアのやつ、あれ感想のレポートあるんだよ。あとで適当に書いといてくれ」
と空中に何かを書く仕草をしながらそう言ってきた。
そういえば学校で足利から説明を受けたときにそんなことも言われていたような気がする。
教師が自ら適当に書け、とは如何なものかとも思ったがこうしたところも足利らしい。
休日を挟んで数日会っていないだけなのにまるで数か月ぶりかのように何だか懐かしい気がする。
「わかりました、適当に書いておきます」
動揺を悟られないように僕も冗談交じりに返す。
その言葉にたのむぞー、と残すと足利は廊下の先へと消えていった。
「ボランティア・・・」
その言葉には様々なことを連想してしまう。
それに参加しなければ僕があの研究所に行くこともなかっただろうし、あそこで彼女に会うこともなく、夜に散歩に行くこともなかったはずだ。
そう考えれば全くの偶然ではあったがやはり始まりはあの研究所にあるのだろう。
苗間にはああは言ったが、本当はどうしようかと少し考えていた。
もう会う必要はないのかもしれない、そもそも向こうが僕に会いたがっているかなんてわからない。
会ってもらえないかもしれないし、嫌なことを思い出させるだけかもしれない。
いつか時期を見て、などとも思っていたが多分それを待っていたらいつまでもその時はこない。
何かを伝えたいわけでもない、何かをしたいわけでもない。
ただもう一度だけ、
僕はあの少女に会いたいと思った。