青年は眼鏡をかける
ホラーです。残酷な描写があります。
その眼鏡に僕が気づいたのは――――たぶん、迷い込んだ路地裏の骨董品屋で、ほんの少し射し込む陽光にぼんやり光ったからだと思う。
骨董品屋の中は埃が降り積もっていた。冷やかしだと思ったのだろう。土間で店番するおじいさんは僕をちらっと見ては、興味無さげにまた開いている新聞に視線を戻した。
通りに面する窓の前にも、うず高く色んな骨董品が積まれている。
針が一本しか無い柱時計、右腕の取れた裸のキューピー人形、いつのものかわからないレコードに、雑誌……。そのせいで窓の面積は全体の十分の一しか、明かり取りの役目を果たしていない。
その上で鈍く光る眼鏡のレンズに僕は目が止まった。埃まみれのレンズは曇っていたが、赤銅色の細いフレームが耳にかける部分でぐるぐると渦巻きを作っている洒落たデザインの逸品。そしてどこか懐かしい気分になった。
おじいさんに値段を聞くと「五百円だよ」と言うので、その眼鏡に心強く惹かれた僕は迷わず購入した。
家に持ち帰り、石鹸水で眼鏡を洗う。埃をかぶっていた時にはわからなかったが、レンズには傷一つ無く凹凸を象る硝子が本来の輝きを取り戻す。
試しにかけてみたが、度が入っているのか、視力の悪くない僕は少し頭がくらくらした。
その日は僕の大学進学のせいで、なかなか会えなくなっていた一つ年下の彼女とデートの日――
いつも約束より三十分は遅れてくる彼女のせいで、僕らの待ち合わせ場所は駅前の喫茶店だ。手持無沙汰な僕はあの眼鏡を指先でいじりながら、熱いコーヒーが少し冷めるのを待っている。
その時、ドアのカウベルが鳴り、髪を整髪料で固め、皺一つ無い灰色のスーツを着た、隙の無い出で立ちのサラリーマンが入ってきた。
ふと僕は(あんなきっちりした人でも、この眼鏡で見たら歪んで見えるのかな?)といたずら心を出し、眼鏡をかける。
すると――彼は自室らしき場所でくつろいでいる光景が見えた。
あたりには散乱した衣服、ワインの空き瓶、ビールの空き缶――ただスーツだけは皺になると困るのか、壁にきちんとかけられている。
(これって――もしかして、その人の部屋が見える眼鏡?)
そんなまさか――と思いながら僕は右横のテーブルに座るお姉さんを見た。
けばい装飾品をつけ、下着が見えそうなほど短いスカート、派手なスカーフ、デコレーションを施した紫の爪……さっきから鼻を刺す香水の匂いが僕の席まで漂ってくる、全身のほとんどを深紅に包まれた夜の商売風の女の人。
――海が広がる――潮騒と磯の香りに、僕は一瞬、自分が本当に海に来たのかと思った。塩分を含んだ風が肌に纏わりつくところまで、鮮やかに再現されていたからだ。
そこではその女の人は化粧を落とし、今より幼い笑顔で年老いた両親と笑い合っている。母親らしい老婦人の手を引き、父親らしき老人は目を細め、彼女達を眺めている。
慌てて僕は眼鏡を外し、その女の人を見た。
彼女は遠い目で、喫茶店にかかっている海の絵を見つめている。
(もしかして、心の中を見る眼鏡?)目を丸くして、僕は眼鏡を見た。
しばらく呆然としていると、カウベルが鳴って僕の彼女が肌を上気させながら、やっと来た。僕は眼鏡を慌てて外し、シャツの胸ポケットにしまう。
「遅いよー」
「ごめんね、お待たせ」
息をはずませ、えへへと笑う彼女を見て、僕は許した。この笑顔と、必死で走ってきたらしい姿で、四十分の遅刻も見逃せる。
僕らは喫茶店を出て、手をつなぎ歩いた。
電車に乗り、都心に出て今日は何をしようと僕はぼんやり考える。とりあえず、彼女の買い物に付き合いながら僕はこの空気を楽しんでいた。自分は買う物など何も無いけどね。
隣で嬉しそうに笑う彼女を見て、僕は思った。
(あの眼鏡で彼女を見たら、どういう風に見えるのかな?)また僕の好奇心が湧く。
そっと、胸ポケットから眼鏡を出し、彼女を見た。
――――その部屋は、もともと白い床で白い壁だったのだと思う。そのほとんどが今は血に染まっている。そして何体もの〈僕〉が彼女によって、バラバラに解体されていた。
彼女は無表情な顔で出刃包丁を持って、〈僕〉が泣き叫んでも、ずっと刺し続けている。辺りには血飛沫が飛び、鉄サビに似た生暖かい臭気が漂う。
部屋の壁にはピンクの花のカレンダーがかかっていた。そしてその一月十四日のマスの部分にはカッターや虫ピン、ペティナイフ等のありとあらゆる尖った物が刺さっている。
―― 一月十四日――大学サークルの新歓コンパで、先輩から飲まされた僕は酔っていた。同じく酩酊していた一人の女の子と、つい出来心で浮気をしたあの日。
(でも……どうして……?)僕は混乱していた、さっきから体が小刻みに痙攣しているのを止める事はできない。
「あれ? 眼鏡なんてかけてた? そういえばその眼鏡、私が前に持っていたのと似てるね……」
眼鏡をかけた僕を見ながら、彼女は微笑む。頬には先ほど〈僕〉を解体した時に飛んだ血飛沫が三つの水玉を作っている。
そして僕は、目の前に迫る兇刃についた、ところどころどす黒い血液をただ眺めていた。