鬼多見遙香(三)
氷室さんはお母さんを促して教室を出て、すぐ側にある小さな公園へ行った。
「大久保、今日欠席したな……」
「あんたは悪くないよ、カノジョが居るんなら仕方ない」
氷室さんは驚いたような顔をした。
「知ってるのか?」
「玲菜から聞いた」
「じゃ、オレに何の用が?」
「本当にゴメン」
お母さんは氷室さんの額に触れた。
何をするのかは明らかだ、彼の心を操るんだ。
眼の前にある場景の他に、玲菜さんの姿が脳裏に浮かんだ。
氷室さんの感情を書き換えるため、お母さんは玲菜さんの情報を流し込んでいるんだ。
その刹那、わたしの頭に早紀ちゃんの姿が一瞬よぎる。
「えッ?」
今のは氷室さんから流れてきた情報だ。どうして早紀ちゃんを知っているんだろう?
お母さんは手を放した。
氷室さんは焦点の合わない眼でボーッとしている。
「ウソでしょ……」
つぶやきが聞こえたのか、氷室さんは改めてお母さんを見た。
「あれ、オレ何してたんだ?」
戸惑いの表情を浮かべる。
「キタミ……やっぱりオレ……。
大久保に謝らなきゃ、あいつの連絡先知ってるだろ?」
「あ、ここに……」
お母さんは電話番号が書かれたメモを出した。
「サンキュッ、用意いいな」
引ったくる様にしてメモを取り駆け出す。
「い、今のカノジョはどうするのッ?」
「別れるッ。オレ、もう玲菜の事しか考えられないんだ!」
振り返りもせず、氷室さんは行ってしまった。どうしてお母さんが、早紀ちゃんの事を知っているかも気にならなかったみたいだ。
「鬼多見」
呆然と氷室さんの後ろ姿見送っていると、背後から声がした。
お母さんが振り向くと、そこには名物講師の坂本先生が立っていた。
「氷室に何をしたんだ?」
「先生には関係ない」
お母さんは無視して公園を出ようとした。
「待ってくれッ」
乱暴に腕をつかまれる。
とっさの行動なのだろう、お母さんは先生の腕をつかみ返し捻り上げる。流れるように身体を払うと、長身の男が簡単に宙を舞う。
「うわッ」
お祖父さんから教わった拳法だ、先生は無様に地面に転がった。
「また、親父みたいに説教する気? あたしの事は放っておいて」
「違うッ。知りたいんだ、どうしたら人の心を変えられるかを」
すがり付く様にお母さんを見上げる。
「なに言ってんの?」
「君が特別な力を持っているのは、初めから判っていた。でも、こんな事ができるなんて……なんて……なんて素晴らしいんだッ!」
恍惚とした表情を浮かべながら立ち上がる。
「僕にも霊力があるんだ。霊が視えたり、人の心の声が聞こえたり……
でも、人の心を変える事はなんて出来ない。どうしたら君と同じになれる?」
「………………」
「頼む、教えてくれッ」
「アンタじゃムリよ」
「え?」
「人の心を操るなんて最低よ。
そんな事をしたがるヤツはクズよ。
そしてあたしは、救いようのない最低最悪のクズよ」
「君は解っていないッ、その力は……」
「ノウマク・サラバ・タタギャテイ・ビヤサルバ・モッケイ・ビヤサルバ・タタラタ・センダ・マカロシャナ・ケン・ギャキ・ギャキ・サルバビキナン・ウン・タラタ・カン・マン」
早口に真言を唱えると、先生は人形みたいに固まった。
以前、叔父さんが魔物に取り憑かれた凜に使った『不動明王金縛り』だ。
「解ってないのはそっちよ。
アンタに人に物を教える資格なんて無い」
坂本を残して、お母さんは公園を出た。
それにしても、どうして氷室さんから早紀ちゃんの情報が流れてきたんだろう?
受験を控えたカレシがいるって言っていたけど……
「おねえちゃん、食べないの?」
子供の叔父さんがテーブルの向かい側にいる。
ここは戌亥寺の台所だ、戻ってきたのか。
眼の前には素麺がある。
「うん、食べていいよ」
お母さんは自分の汁を叔父さんに差し出した。
「食べかけのツユは、ほしくないんだけど……
ぐあい悪いの?」
心配そうに覗き込む。
「ううん、勉強で疲れただけ」
「だったら、ちゃんと食べないとダメだよ」
「ありがとう。じゃあアイス買って来てくれるかな?
悠輝のお小遣いで」
「それはヤだ」
叔父さんがキッパリ断る。って言うか、小学生にたかるなよ。
あきれていると、電話のベルが鳴り響いた。
叔父さんが、椅子から立ち上がって台所から飛び出す。
電話の音が鳴り止み、すましたの叔父さんの声がする。
「もしもし、キタミです。
あ……はい。
おねえちゃん!」
何かに気付いたのか、はじかれた様にお母さんは廊下に飛び出し、叔父さんから受話器を奪い取った。
「もしもし?」
〈あ、遙香、アタシ!〉
受話器から聞こえるのは、玲菜さんの明るい声だ。
〈氷室くんが電話くれて、会いたいって言うからさ、さっき行ってきたんだ。
そしたら、アタシのコト、やっぱり好きだってさ!
これって、遙香がしてくれたんでしょ?〉
「うん……ねぇ、氷室、今付き合っているカノジョどうするか言ってた?」
〈別れてくれるってさ! きっと今頃、向こうも電話をしている頃だよ〉
一点の曇りもない、喜びに満ちた声だ。
玲菜さんにとっては、恋が成就したばかりなんだ。周りの事など目に入らないないんだろう。
でも、氷室さんと付き合っていた人は、何の前触れもなく別れを切り出されるんだ。たまった物ではない。
お母さんが受話器を置いた。
見えている物がまた変わった。
今、眼の前にあるのは知らない家だ。
『荒木』と表札が出ている。この苗字は知らないけれど、誰の家かは判っている。
インターフォンを鳴らすと、中からか細い声がした。
「はい……」
「早紀ちゃん? あたし、遙香」
「先輩……どうしたんですか?」
「あの……今、だいじょうぶ?」
「ええ……」
玄関が開き、中から早紀ちゃんが顔を出す。
眼が赤く充血している。きっと、今まで泣いていたんだ。
「早紀ちゃん……」
お母さんは早紀ちゃんを抱きしめた。
「ど、どうしたんですか?」
戸惑いの声を上げる。それはそうだろう、お母さんがした事を彼女は知らない。
「ごめんね、本当にごめん」
「なんで謝るんですか?」
「あたしのせいなんだ。あたしが余計な事をしたから……」
「私がフラれた事を言っているんですか? どうして知っているんです? それに、先輩のせいって?」
「元に戻すから……。ううん、もう元通りには出来ないかも知れないけれど……
早紀ちゃんを傷つけるなんて、思ってもいなかった。
あたしが浅はかだったせいで、お詫びのしようもないけど」