⑨過去
俺が彼女の殺人を命じた?やっと心通じ合えたと思えた彼女を?…犯人を殺したいほど憎んだ俺が、彼女を殺したなんて。
ありえないありえないありえない!
確かに理論上は可能かもしれない。この田舎で通り魔的凶悪犯罪が起きる可能性より、今の俺の妄想が真実である可能性の方がまだ高いだろう。足跡の問題や動機の不明など説明付けられる事柄が多々ある。
しかしこんな偶然が発生するはずないだろう?
たまたま寝坊して、たまたま伊達眼鏡を忘れ、たまたま雑談の最中に蛇が俺の方を向いていて、しかもたまたま普通の会話が毒殺命令へと変わって、たまたま猿が俺の背後にいて、たまたま気障な台詞が切断の命令に変わり…しかも命じた本人には何の自覚も無い。
こんな偶然あってたまるか。
……それに、ほら、俺は今生きている!
俺は昨日の夜、自らに命じた。「佳久治華を殺した犯人を殺せ」と。もし俺が犯人なら、ほら、今自分自身が犯人であると特定した瞬間、俺は自殺しなくてはいけなくなる。
しかし、俺の体は自由に動くし、心臓発作的な異常もないし、きちんと生きている。
水で『能力』を反射させることができるのは知っている。だから俺には間違いなく、『能力』がかかっているはずなのだ。
しかし俺は生きている。俺の無意識か、あるいはこの世界の神が、あなたは犯人ではないと励ましてくれているようではないか。
能力者自身には能力使用不可?そんな後出しルールは却下だ。
『能力』を封殺するルールはただ一つのみ。『能力』は一人一回まで。これ以外に『能力』を完全に破る方法はない。
そして俺は自分が知る限り、昨日の夜以前に、自分自身に『能力』を使用した覚えはない。
だいたい、何が「涙に反射した」だ。確かに人工物以外には反射も可能だが、しかしそんな厳密なことを言い出したら、キリがないではないか。
じゃあ泣いている人に命令したら、涙に反射して、自分に『能力』が返ってくるのか?涙をためている瞳に命じたら、自分に返るのか?
いや、そんなことを言い出したら、涙以前に……
……小学六年生のとき、俺は小学生名人戦にエントリーした。群馬予選の決勝で、彼女と対局した…
…俺が『能力』を自覚したのは小学六年生、将棋大会群馬予選を終えたあたり…
…小学六年生のとき、彼女は俺に敗北したが、後に奨励会に入会。しかし今年の三月に退会した。彼女曰く「将棋指しとしての私、つまり私は死んだも同然」…
…彼女は驚くべきことに、当時の俺との感想戦を覚えていた。
「自分が勝ったくせに、感想戦でまたこっちの目をじろじろ見て徹底的にやっつけるんだもの。『玉将の逃げ方が悪いよ。有りえないね』『香車じゃなくて打つなら桂馬でしょ?何考えてんの?』『やっぱ金将は重要だよ。銀将なんて取ってる場合じゃなかったね』『歩兵打つにしても5……五ねえ。んーあと、角行を殺せ……ればいいけど、上手くいくわけないじゃん』」
心のどこかでずっと疑問に思っていた。
『能力』は人工物でないなら反射可能。鏡、ガラスは無理だけど、水なら反射可能。だから涙もおそらく可能。
しかし、このルールが正しいなら。
『能力』はある矛盾を抱えていることになる。
自然物なら反射可能。だから水も涙も反射可能。
ならば瞳孔は?
人は人と目を合わせるとき、常に相手に見つめられることとなる。当たり前だ。それが目を合わせるという行為だ。
そして瞳孔は反射可能。鏡をのぞいてみれば分かる。鏡の中の自らの瞳には、また自分が映っているはずだから。そして瞳の中の自分にもまた、瞳は存在する。
ならば。目を見なければ発動しない『能力』は。
常に、相手を見つめながら、相手の瞳の中にいる自分に見つめられることになる。
―怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない―
ニーチェの名言には、有名な続きがある。
―深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ―
つまり、どんな命令も、必ず自分に返ってくる。自分が相手に命じるのと同時に、相手の瞳の中の自分が、自らに命令を下すことになる。
そして『能力』は同じ人物には二度と使用できない。
とするなら。
俺が初めて『能力』を発動した時、その命令は相手に届くと同時に、自らにも返ってきている理屈となる。
俺が『能力』を自覚したのは小学六年生で挑んだ将棋大会を終えた後だ。
しかし『能力』は無意識に発動するのだから、厳密にはどこが初めての能力発動か特定することはできない。ただ『将棋大会が終わる直前のどこか』で初めて能力に目覚めた、ということだけ推測できる。
大会中に目覚めた可能性も、当然ながらある。
ところで、佳久治華は今年の3月、奨励会を退会した。彼女はまだ17歳。初段の年齢規定は21歳。なぜ今退会したのだろう。
それに、女性には女流への道も残されているだろうに。彼女の言葉を聞く限り、もはや女流も含め、プロを目指すこと自体を諦めたようだった。
小学生名人戦は、毎年3月に開催される。つまり彼女は、小学生名人戦を終えたちょうど5年後に、奨励会を退会した。それから二ヶ月経ち、今に至る。
そしてあまりにも偶然だらけのこの事件。猿や蛇は田舎だからそこそこいるとしよう。しかし、普段の会話が偶然命令になり、動物達に殺人を命じてしまったというのは、あまりに偶然が過ぎるのではないか。命じたものに、その自覚がまったくないなど、ありえないのではないか。
俺が密かに、自分でも意識しない内に、彼女に殺意を覚えていない限りは。
5年前の、小学生名人戦。俺は彼女と感想戦を行った。そこで俺は様々な意見を出したらしいが、その中に、こんな台詞があったという。
『歩兵打つにしても5……五ねえ。んーあと、角行を殺せ……ればいいけど、上手くいくわけないじゃん』
この中で、依頼の形になる部分を抜き出してみる。
『五ねえ。んーあと、角行を殺せ』
読点と棒をとる。
『五ねえんあと、角行を殺せ』
『ごねんあと、かくをころせ』
『五年後、佳久を殺せ』
彼女は奨励会を退会した。それは将棋指しとしての彼女の死同然だったという。
奨励会退会は、あの対局…この言葉の、5年後だった。
彼女は佳久を、つまり自分を殺したのではないか。この命令に従って、将棋指しとしての自分を、殺した。将棋指しとしての自分を殺すことで、命令を遂行した…
彼女の死んだ夜。佳久治華に『能力』が効かなかったのは周知の事実。彼女と俺は同じ中学で同じクラスだった。中学生の時、俺は『能力』を駄々草に使用していて、だから彼女にも、中学の時どこかで使用してしまったのだと思っていたが。
彼女に初めて『能力』を使ったのは、5年前の、この言葉だったのかもしれない。
俺は将棋大会が終わる時には『能力』について自覚していたから、この会話が、初めての能力発動だとしても、不思議ではない。
俺は無意識の内に彼女に命じた。『五年後、佳久を殺せ』
命令は、彼女の大きな瞳に反射して、俺へと返ってきた。『五年後、佳久を殺せ』。
だから俺には『能力』が効かない?5年前、既に『能力』にかかってしまったから。昨日の夜、自らに命じた「佳久治華を殺した犯人を殺せ」の命令は無効となった。
『カクを殺せ』の『カク』を将棋の『かく』と認識すれば何も問題ない。将棋盤の上で、駒の角を殺せばいい。
しかし駄目なのだ。彼女は、将棋の角行を角行と呼ぶ(対局前の会話参照)。また俺も、昔は角行だったが、今は丁寧な言い方、角行と呼ぶようにしている(中年との対局参照)。棋譜の記号や戦法の名前は角だが、駒そのものは角行なのだ。これでは、殺す対象に選ぶわけにはいかない。
また日常生活の中で、『カク』という名称を持つ『殺せる物』はほとんど存在しない…
小学生名人戦から、5年。佳久治華を見つけ、それが5年後の範疇に入ると知り。
俺は無意識の内に、佳久を殺そうと…彼女を殺そうと、画策していたのではないか。
無意識の内に、彼女にばれない方法で蛇に命令し、また無意識の内に、猿に命令したのではないか。
いや、無意識ですらないかもしれない。
あの時俺は、なぜ縁側を離れ、水田へ歩いたのだろう?水田を眺めていたら毒蛇を見つけたから、これは利用できると考え、そちらへ近付いたんじゃないのか?彼女にばれないように言葉を選びながら、しかししっかり蛇の瞳を見つめ、自らの意思で彼女の死を命じたんじゃないのか?
ヤマカガシの毒は強力だが確実性はない。だから俺は蛇が失敗した場合の予防策として、猿にも命じたんじゃないか?彼女の涙に反射する猿を見つけて、彼女の行動を全て予測した上で、真意が分からないように言葉を選び、彼女の腕の切断を命じたんじゃないのか?
5年前の俺の命令が、俺自身の行動を操作し、彼女を殺させた。
過去の自分に命令された俺は、猿と蛇というミステリ界の意外な犯罪者に、彼女の殺人を依頼しようと考えた…
犯人は俺…愛した彼女を殺害したのが、俺?
過去と現在の俺、そして彼女自身が、全力で彼女という存在を殺そうと画策した…
ありえない。こんなものは偶然だ。俺は殺人者ではないのだ。
犯人は俺じゃない。そうだ。仮に全てが真実だとして、実行犯は俺じゃない。実行犯は猿と蛇。特に直接の死因、毒殺を実行したのは、蛇じゃないか。犯人は俺じゃないのだ。
彼女を殺した犯人を許さない。犯人には死を命じてやる。俺は、そんな決意を胸に秘めていた俺自身を、必死に忘れようとした。
俺は悪くない。犯人は俺じゃない…精神を保つために、深夜の自室に一人座る俺は、思い切り息を吸い込んで、はっきりと断言した。
「俺は犯人ではない」
そして自らの罪を逃れるために、スケープゴートの名前を言う。
俺は犯人じゃない。
つまり―
毒蛇(読者)が犯人だ。
人じゃないけど。