⑧悪夢2
佳久治華に『能力』は効かない。
だから、仮に俺があの日伊達眼鏡を忘れ、うっかりとんでもない命令をしていたとしても、彼女は俺の命令に従わない。俺の『能力』に捕らわれない。よって、『能力』が彼女の死に影響を与えた可能性はない。
安堵した俺はほっと息を吐き出すと、伊達眼鏡をベッドの横にあるサイドテーブルに置き、部屋の電気を消して、ベッドに寝転んだ。
部屋は暗闇に包まれ、天井の色すら見えない。窓からは、星がぽつりぽつりと光っているが、曇っているからかほとんど明かりは入ってこない。
よく見ると、窓の外には蜘蛛の巣が張られていた。蜘蛛は益虫。小さい虫を取ってくれるありがたい虫だ。
むしろ適切なところに巣を張ってくれれば、小さな虫の対策になってくれる。『能力』が効けば、命じてやるのに。
俺はベッドから起きると再度照明をつけ、勉強机に置いてあるノートパソコンの電源を入れた。
あの日、俺は両親と佳久治華の三人にしか会わなかった。だから、その三人にしか命令はできない。そして三人に『能力』は無効。よって、『能力』に操られた者は、存在しなかった。一旦はそう結論したが。
本当か?
確かにあの日、俺は三人にしか会っていない…その他の人間には、会っていない。
人間以外ならどうなんだ?
例えば動物。動物になら命じることができたんじゃないか?俺は動物を見た記憶はないが、小さい動物がどこかに潜み、俺の瞳を見ていた可能性はあるんじゃないか?
俺は椅子に座り、パソコンで検索エンジンを開き、あるキーワードを入力した。キーワードに従い、大量のwebページが表示される。
昔、探偵小説を読んだ経験がある。その中で「そんな馬鹿な」と飛び上がって驚いたトリックがあった。
動物を使役するトリックだ。
よく出来た調教師が操れば、動物は、人間にとって脅威となる。人間には不可能な犯罪を、実行できるからだ。
彼女の母親、綾さんは言った。「現場周辺の人の足跡は、私たち夫婦、娘の治華に、そしてもう一人のものしかなかったのです。」
人間以外ならどうだろう。足跡と云うが、直前まで雨が降っていたわけでもない。人間の足跡は残るが、動物は軽いから、足跡が残らない可能性もあるのでは?しかも佳久家の南は山に面している。そちら側に逃げれば、跡も残りにくい。
いやそれでも警察なら気付くはずだ、とも思う。しかし、警察は既に気付き、捜査を開始しているのではないか?殺人を命じられるほど動物と関わりの深い人間を、探しているのではないか?
俺は知っている。例え動物を調教しなくても、動物を飼ってさえいなくても、目的を命令、実行させることができる唯一の人物を。
俺だ。動物が犯罪を犯したとするならば、それは『能力』によるものの可能性がある。
彼女は毒殺された。仮に動物が犯罪を犯したとして、毒と聞いて真っ先に思い浮かぶのは。
蛇だ。
俺はパソコンを操作し、目的のページを表示させた。
<ヤマカガシ 爬虫類綱有鱗目ナミヘビ科ヤマカガシ属
生息地→日本全国。田舎ではメジャーな蛇で、河川敷や田んぼなど、水場で見られる。
特徴→牙に毒を持つ。毒を注入される可能性は低いものの、強力な毒を所持しており、死亡例あり。臆病で、咬まれるケースは多くない>
この場合、臆病、は関係ない。命じてしまえば、感情や習性は無視できるから。田舎、湿地、田んぼと、条件も満たす。
爬虫類に言語が理解できるはずがない…しかし言語障害を持つ人間にも『能力』が発動することは既に説明済みである。言語を理解できない言語障害者に『能力』が効くのだから、爬虫類に『能力』が有効でもおかしくはない。
蛇に命令が聞こえるはずがない…確かにそうだろう。蛇には鼓膜が無い種類が多い。振動には敏感だから、よくある蛇笛は振動を用いて蛇を操るのかもしれない。ただ音での遠隔操作は不可能だが。
しかし鼓膜の有無が関係あるだろうか?『能力』は聴覚に障害をもつ人間にも効力があることも、既に説明してある。聴覚に障害があるにもかかわらず『能力』は発動する。ならば鼓膜のない蛇にも『能力』が効くのでは?説明した通り、『能力』は意味の雲なのだ。音や理解力は関係ない。目を見て意味の雲がぶつかれば、その命令には逆らえなくなる。
そして蛇には目がある。視力は悪いが、とにかく俺の目を見られれば、『能力』が発動する余地はある。
俺はあの日を思い出した。
ヤマカガシは水場で見られる。あの場で水場といえば、水田しか考えられない。5月の水田には水が張られ、太陽の光を反射させていた。
彼女との対局を終え、縁側から水田へ歩いていったあの場面。水田の水が跳ね、波紋が広がった覚えがある。
あの時、あそこに蛇がいたのではないか?ただの蛇ではない。毒を持った、場合によっては人を死に至らしめるほど強力な毒を秘めた、毒蛇が。
しかし、俺は誓って、命令などしなかった。「彼女を咬め」なんて言った記憶はない。また、そんな命令をしたらすぐさま蛇は俺と佳久さんの前に姿を現しただろう。そうなれば、逃げるか撃退するかして、簡単に対応できたのに…そう、やはりありえないのだ。
俺は命令していない。だから蛇が彼女を咬みに来たはずはない。そうだ、そうに決まっている…
瞬間、背筋が凍った。水田に近付いた場面…命令…毒蛇…咬め…
「お前が、す、す…」
たっぷり間を取って。
「好き」
「何が?」
すぐ後ろから声が飛んできた。どうやら彼女も縁側からこちらに歩いてきたらしい。思ったより大きい彼女の声に驚いてしまい、俺は視線を動かさず間髪いれずに誤魔化した。
「み、見て、亀!」
俺は必死に水田を指差す。
「か、亀?亀、が好きなの?」
「……そ、そうなんだ。見てごらん、あそこの水が揺れてるだろ?」
「あっホントだ。でも亀かな?」
俺の台詞のみ抜き出すと
「お前が、す、す…」
「好き」
「み、見て、亀!」
「そ、そうなんだ。見てごらん、あそこの水が揺れてるだろ?」
「好き」「み、見て、亀!」→「好きみ、見て、亀!」→「すきみてかめ!」→「隙見て咬め!」
俺は愕然とした。まさか、これが命令だったのか。俺は毒蛇に「隙見て咬め」と命じたというのか?蛇は俺のすぐ隣に来ていた佳久さんを標的と解釈したのか?「隙見て」だから、睡眠薬を飲んで寝るまで、手を出さなかったとでもいうのか?
彼女は自室の扉と縁側の窓を開けて寝る癖がある。蛇が忍び込む可能性は確かにあった。
しかし、俺はこの説の弱点を見つけ苦笑した。
綾さんの話では、警察はまだ捜査中ということだった。しかし、仮に蛇に咬まれて死んだとしたら、警察はとっくに真相を見つけ、綾さんら家族に伝えるだろう。
19世紀じゃあるまいし、蛇の毒の特定には時間がかかるかもしれないが、咬まれた跡はすぐに分かる。蛇の毒牙の跡。それが見つかり、また毒殺と断定できたなら、当然蛇による事故死と分かり、綾さんたちにそう説明するはずだ。「娘さんは事故死です」と。
しかし現実に、警察はまだ捜査を続けている。
蛇使いがいるかもしれない!なんてありそうもない可能性に賭けて捜査を延長するはずがない。蛇に咬まれて死んでしまった。田舎では、ないこともない悲劇だから。
よって、蛇に咬まれて死んだなどという可能性は、絶対にない…
そこで俺は思い至った。彼女の右腕が切断されていた事実に。
彼女の右腕は切断されていた。そして、蛇の毒が回るには、腹や背中ではなく、手の指のような、細い箇所でないと、毒が届きにくい。
毒蛇は、右手の指に噛み付いた?
彼女は入り口に対し横向きに寝ていた。扉から侵入した蛇の前に、一番最初に現れる彼女の体の部位は、右腕。噛み付く場所は指定されていなかったから、蛇は最も近くにある右腕、もしくは右手の指を咬んだ…
しかし、右腕は切断されている。毒牙の跡のついた右腕は、何者かによって切断され、持ち去られてしまった。
だから警察は、毒牙の跡を発見できず、毒蛇による毒殺と断定できずにいる…いや、それが判明したとしても、毒牙の跡を隠すために右腕を切断したとするならば、他殺である可能性が高い…以上の理由で、今だ警察は捜査の手を緩めていない、のかもしれない。
蛇による毒殺。その可能性は、まだ消せない。
俺はパソコンの電源を切り、椅子の背にもたれた。
これは妄想だ。ただの空想物語だ。まさか伊達眼鏡を忘れていたなんて、知らず知らずの内に蛇に命令していたなんて、その命令が彼女の毒殺なんて、そんな馬鹿な話はない。
そもそも、右腕の問題はどうなる。
俺は消えそうな魂の灯し火が再び燃え上がるのを感じた。
蛇による毒殺の可能性はあった。それは認めよう。
しかし右腕の切断はどうなる?まさか蛇が右腕を切断できるはずはないから、例え蛇に命じたとしても実行できない。蛇にそんな力があるなら見せて欲しい。
つまりこれは蛇を利用した他殺なのだ。蛇に毒殺させることで事故死の可能性を残しつつ、蛇の可能性が露見しないように右腕を切断した。これは誰かの計画犯罪…
半ば強引と認めつつ、俺は必死に仮想の犯人を憎むことで思考を停止させた。一体誰が、彼女の右腕を切断したのか。あの白く細く美しい右腕を。
最後に握手した、彼女の愛しい右腕を。
そうあの夜、俺は気障な言葉を使って、彼女の手を握って、体を抱きしめて…
…右腕…切断…盗む…
「まだ間に合うのなら」
俺はそういって右手を差し出す。俺を見つめる彼女の瞳に、大粒の涙が浮かんだ。その涙を見つめながら。
「この手を取ってくれないか。今すぐじゃなくてもいい…俺たちはやり直せる。寂しさを埋めあえる」
言い終わらないうちに、彼女は俺の右手を握った。俺は強く握り返した。それだけじゃ満足できなくて、彼女の体を抱き寄せた。華奢な俺よりさらに細く、壊れそうなほど儚い体が、俺の胸にしがみついて。どうしようもなく彼女が愛しくて、俺は一層強く彼女を抱きしめて…
「あっ猿よ!」
そして離れた。
彼女が俺の後ろを指差している。俺が苦々しくそちらを振り返ると、閉め忘れた障子のさらに向こう、縁側と廊下を仕切る窓の隙間から、数匹の猿がこちらを見ていた。
あの場には猿がいた。そして俺は次の台詞を吐いた。吐いてしまった。
「この手を取ってくれないか。今すぐじゃなくてもいい…俺たちはやり直せる。寂しさを埋めあえる」
言い終わらないうちに、彼女は俺の右手を握った。
「この手を取ってくれないか。今すぐじゃなくてもいい」
彼女は俺の右手を握った。
「この手を盗ってくれないか。今すぐじゃなくてもいい」
彼女は俺の右手を握った。
俺は右手を差し出し、彼女と握手した。だから彼女の差し出した手もまた右手である。
彼女は俺の台詞が言い終わらないうちに俺の右手を握った。
だから、俺が言った「この手」とは、俺の手ではなく、俺が握った「彼女の右手」であると解釈することもできる。
俺は「取って」といったが、取るとは「部位から離す」と解釈することもできれば、漢字を変えて「盗る」と解釈することすら可能。
つまり。
「俺が握っているこの手を盗んでくれ。今すぐでなくてもかまわない」
俺は、猿にそう命じてしまったのか?
いや、よく思い出せ。
俺がこの台詞を言った時、猿はどこにいた?
俺の後方だ。猿は縁側の窓の隙間からこちらを見ていた。それを彼女に指摘され、俺は振り向いているのだ。
『能力』は目を見て命令を下さなければ発動しない。だから、真後ろの動物に能力を発動させるなど、到底不可能だ。
今度こそ、この可能性はありえない。猿に命じた可能性なんて、ない。
俺はあの時、涙に濡れる彼女の瞳を見つめていたのだ。決して後ろを見たりは…
空気や水を通して目を見て命令してしまうと、能力は発動する。
「佳久治華を殺した犯人を、殺せ」
その日の夜、俺は風呂場で、湯に写る自分自身の瞳を見ながら、そう命令した。鏡は人工物なので無効だが、水ならば反射できる。
彼女の瞳から溢れた涙。
涙とは人工的でない液体。つまり水と同じく、『能力』を反射する。
『能力』は発動する。
あの時猿は、俺の後方からこちらを見ていたらしい。佳久さんがそれに気付いたということは、彼女からは猿が見える位置にいたということだ。
彼女の涙に反射した俺の目。その目を、猿たちが見てしまったとしたら。
涙を通して、俺は猿の目を見て、そして命じたというのか。彼女の右腕の切断を!手を取り合った儚い彼女の右腕を、切断して盗めと!俺が命じたとでも!
俺は笑った。もう笑うしかなかったからだ。