⑦悪夢1
0時53分。俺は就寝するため伊達眼鏡を外し、そしてピタリと動きを止めた。
手に持った伊達眼鏡を見つめる。
俺は普段、この伊達眼鏡を掛けている。伊達といっても度が入っていない以外は眼鏡と同じなので、今のように、寝る前には外す。
彼女の家に行った日の朝。俺は寝坊した。起きて時刻を確認して驚き、慌てて彼女の家へ行こうとして、両親に止められ、パジャマだけ着替えて彼女の家へ自転車で走った。
伊達眼鏡は掛けていただろうか?
あわてた俺は『ベッドで起きたままの格好で玄関へ直行』して両親に止められた。『ベッドで起きたままの格好』なのだから、伊達眼鏡は掛けていないのではないか?
そして服を着替えた俺は『着のみ着のまま』家を出た。『着のみ着のまま』とはつまり「服の他には何も持っていない」状態ではないか?
佳久さんと対局を終えた後、彼女は笑って「すごいかっこしてるね」と言った。俺がダサい服装について謝ると「服装は関係ないけど」と返した。服装は関係ない。なら彼女は俺の何を笑ったのだろう?
眼鏡を掛け忘れて気付かないなんて普通はありえない。しかし俺が掛けているのは伊達眼鏡だから無くても生活に支障はないし、この伊達眼鏡は機能性を重視し『軽さに拘っ』ている。
あの日伊達眼鏡を掛け忘れた。
その可能性は、ある。
そして『能力』は自らの意思でコントロールできない。ならば、もしあの日、伊達眼鏡を掛け忘れたと仮定したら…
俺は知らず知らずのうちに、誰かに『能力』を使用してしまったかもしれない。
もしかしたらそれが、彼女の死の原因となったのかもしれない…
「ははっ」
俺は真夜中の自室で一人声を出して笑った。
伊達眼鏡を掛け忘れた。しかしそれが何だというんだ。
何も問題なかったじゃないか。特にあの日は。
あの日、家を出た俺は、当然ながら寄り道をせずに佳久さんの家へ行った。帰宅時も、両親に約束した時間ぎりぎりだったし、それに疲れていたから、どこにも寄らず帰って、すぐ寝た。
つまりあの日、俺が会った人は、両親、佳久治華。この三人しかいない。この三人は、『能力』が効かない人物だ。
『能力』は、一人に一度しか使えないから。
一度『能力』を使った人物には二度と『能力』を使うことはできないのだから。
将棋道場で中年といざこざがあってから今日まで、俺の『能力』が効いた人は三人。そして、効かなかった人も三人いる。
『能力』が効いた人。①中年②外国人③岩世瞳。
『能力』が効かなかった人。A将棋道場のオヤジB牛嶋数田C佳久治華。
一人一人思い出してみよう。
①賭け将棋で敗勢だったため、中年に「負けろ」と命じ、中年はその通り負けた。
②殴り合いでは勝てそうになかったので、外国人に「出てけ」と命じ、外国人は出て行った。
③伊達眼鏡について笑いの種にしそうだった岩世瞳に「黙れ」と命じ、彼女は黙った。
この三人には『能力』が効いた。
一方、『能力』が発動したはずなのに、効果がなかった人物もいる。
A将棋道場で中年と外国人を撃退した俺とオヤジは、将棋の盤と駒を片付けた。俺の伊達眼鏡は外国人に命じてから道場を出るまで机に置かれていた。その証拠に、俺は道場を出る時にやっと、伊達眼鏡を掛けている。つまりそれまでは掛けていなかったのだ。
伊達眼鏡を掛けていなかった俺は、オヤジと以下のように会話した。
「黙れ。俺の勝手だろ」
「あーあ。そんな能力があれば、こんなアングラ商売やらなくてもいいのにな」
『オヤジは俺を覗き込』んでいたし、『俺はその小さい目を見』ていた。
つまり目と目が合っていた。
そして上記のように、俺は『黙れ』と命じたにも関わらず、親父は黙らなかった。つまりオヤジに『能力』は効かないのだ。
B昼食休憩中、牛嶋は俺から伊達眼鏡を奪って遊んだ。伊達眼鏡を掛けて似合うかどうか訊ねられたので、俺が「似合わない」と言ってやると、彼は『ゴーグルのように伊達眼鏡を頭の上に乗せた』。そんな彼を俺は『睨みつけ』て
「おい。汚れたらどうすんだよ。さっさと返してくれ」
と言った。これは「返してくれ」という依頼である。
にも関わらず彼は返さなかった。乱入してきた岩世瞳と俺の会話中、ずっと伊達眼鏡を持ち続けていた。
目を見て命じたにもかかわらず、牛嶋は従わなかった。牛嶋にも『能力』は通じないのだ。
①②③とABの違いは何か?それは、付き合いが長いか短いかだ。中年と外国人は初対面だし、岩世は今年からのクラスメイト。対して道場のオヤジは昔馴染みであり、牛嶋とは中学の時からの付き合いである。
ではなぜ付き合いが長いと『能力』が効かず、付き合いが短いと効くのか。
『能力』は一人に一回しか使えないからだ。
だから将棋道場で、わざわざ外国人のサングラスを弾き飛ばした。何度でも『能力』が使えるのなら、中年に「俺たちは悪くないと伝えろ」とでも命じればよかったのだ。サングラスを掛けている外国人に『能力』を使おうとする必要はなかった。
そうせずリスクをとったのは、一人一回というルールのためだった。
また俺は、佳久さんに惚れてから、彼女と真剣に付き合うため、それまでのガールフレンドに土下座して別れてもらった。もし何度でも『能力』が使えるなら、一言「別れろ」あるいは「俺を嫌え」でよかった。そうせず、頼み込むしかなかったのは、一人一回のルールがあったからだ。
俺は佳久さんと付き合いたかった。『能力』を使えば成功するのに、彼女には使っていない。
彼女とは真剣交際したいから使わなかった?…まさか。『能力』の使用は控えると決めながら、高校生になっても数多の女生徒相手に『能力』で交際を強要した俺に、そんなプライドなどあるわけがない。
使わなかったのではなく、使えなかったのだ。
俺は中学まで、誰彼構わず『能力』を使った。だから、近しい間柄のオヤジと牛嶋も既に使用済み。加えて両親も使用済み。
そして佳久さんも使用済みだった。何に使ったのかは覚えていないのだが、俺は彼女と中学が同じで、中学の時は駄々草に使っていたから、覚えていない。
『能力』は一人に一度まで。そして、俺があの日会った人物は、両親を除けば佳久さんのみ。
佳久さんにうっかり何かを命じて、それが彼女の死のきっかけになる…そんなことは、ありえない。『能力』の効かない佳久さんにはどのような命令も無効なのだ。
もし仮に、俺の『能力』が奇跡的に成長して、一人一度の制限が外れていたとしたら?
絶対にありえないとは言えない。しかし少なくともあの日、佳久さんに『能力』が効かなかった事実は明白である。
なぜなら俺は、佳久さんとの対局前、計三度も彼女に命令したからだ。
「佳久さん…いや佳久治華。教えろ。なぜその名を知っている?」
「群馬の英雄をまねて中飛車穴熊使いになり、数々の才能を粉砕して小学生名人の栄冠まで後一歩だった天才。それがお前だ純一よ」
「黙れ!
しかしなぜ…なぜそこまで俺の情報を…まさか!」
「思い出したか」
「ははは。群馬の雷よ。今さら俺に復讐したいのか?もうあの日は取り戻せないと悟るのに、それでもお前はこの俺を打ち砕こうと挑むのか?やめろ。過去を追うのは愚者だけだ」
彼女は教えなかったし、黙らなかったし、対局を挑んできた。よってあの日、仮に伊達眼鏡を忘れていたとしても、少なくとも彼女に『能力』は効かなかった。これは絶対の事実である。




