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⑤遭遇

 お茶を片手に縁側に座っていると、段々気分が落ち着いてきた。お茶を持ってきてくれた佳久さんも俺の左隣に座り、ずずずっとお茶を飲む。

 数分前の激闘が嘘のような穏やかさ。

 眼前には水田が広がっている。昼を過ぎてなお輝く太陽の光が、水田の水に眩しく反射する。


 激闘は一局だけだった。ルールは持ち時間60分秒読み1分。結果は…あえて書くこともないだろう。こんなに長い持ち時間で対局したのは久しぶりだ。しかし俺は充実感に溢れていたし、彼女もまた俺と同じ気持ちに違いない。だから13時ちょっとに対局は終わったのに、昼食も食べず1時間も感想戦に励んでしまった。

 将棋は勝ち負けの明確なゲームだ。だから嫌いな人もいるのだが、しかし今回のように、勝ち負けを度外視して満足できる対局も稀にある。これも将棋の奥行きの一つ…かもしれない。


「そういえば純一くん、すごいかっこしてるね。対局中は気付かなかったけど」

 隣に座る彼女は、くすくすと笑った。無邪気な笑い声。

「気になるか?服を選んでる暇がなくてな。そうそう今さらだが、遅刻してすまん。ごめんなさい」

「服装は関係ないけど…いいよ遅刻なんて。気にしてないから」

 ふう、とまた二人溜め息をつく。

「ところで、対局前は随分大げさなこと言ってたが、まさか本当に俺のことを、長年意識してたのか?」

「まさか」

 と言う彼女の頬は、心なしかやや上気している。

「ただ5年前の対局は、結構印象に残ってるけど。あなたとの対局が忘れられなくて、みたいな件はテンションに任せた虚構。

 でも5年前、あの3月の小学生名人戦群馬予選は悔しくて、それがきっかけで奨励会に入会した、とも言えるかな?」

「そういえば対局前もそんなこと言ってたけど、佳久さんは奨励会員なのか?強いわけだ」

「違う違う、もう止めちゃったよ。二ヶ月ぐらい前に退会した。だからもう、将棋指しとしての私、つまり私は死んだも同然なの」

 死んだとは大げさだが、奨励会に入会するだけでも凄いことだ。そんな傑物にとって、退会、挫折とは、死んだと同然なのかもしれない。俺には到底理解できない世界だ。

「じゃあなぜ今さら俺と対局する気になったんだ」

「うーん、何でかな。実は、純一くんがあの時私を負かせた相手だってことは、中学の時に既に知ってた。でも別に対局したいとは思わなかった。

 今回は、純一くんからデートのお誘い(でいいんだよね?)があったから、いやいや、それなら私のリベンジマッチの方が楽しそう、と思って」

 納得できるようなできないような説明だ。

「しかしよく覚えてるな。小学生の頃の対局相手の顔なんて。俺は今日言われるまで気付かなかったよ」

 ははっと声を出して笑われた。

「感想戦が印象に残ってたのよ。だって純一くんって典型的な将棋が強い嫌なガキだったから」

「否定はしないが」

 今でも大して変わらないし。

「自分が勝ったくせに、感想戦でまたこっちの目をじろじろ見て徹底的にやっつけるんだもの。『玉将(ぎょく)の逃げ方が悪いよ。有りえないね』『香車(きょう)じゃなくて打つなら桂馬(けい)でしょ?何考えてんの?』『やっぱ金将(きん)は重要だよ。銀将(ぎん)なんて取ってる場合じゃなかったね』『歩兵()打つにしても5……五ねえ。んーあと、角行(かく)を殺せ……ればいいけど、上手くいくわけないじゃん』」

「おいおい。まさかそんな細かい会話まで覚えてるのか?」

「印象的だったから」

 マジかよ。

「結局将棋はただの趣味になったけど。でも、それで良かったのかも。元々、争うのは得意じゃないし。ここを見ても」

 彼女は首を回して自らの家を見渡す。

「のんびりしてていいじゃない。私はその方が性に合ってる」

「まだ若いのに自分を規定するのはどうかと思うが」

 俺は縁側に置いてあった外用スリッパを拝借して、水田の方へ歩き始めた。

「確かに良いところだよな。自然がたくさんあって、和やかで」

 そして何より君がいて。

 気障な台詞を思い付いて、あわてて口を閉じた。恥ずかしかったから、彼女が座る縁側の方を振り向かずに、目の前の水田を見渡しながら、俺は次に紡ぐべき言葉をじっくり吟味した。水を張った水田が揺れている。そのあたりに視線を泳がせながら、俺は必死に口を動かした。

「お前が、す、す…」

 たっぷり間を取って。

「好き」

「何が?」

 すぐ後ろから声が飛んできた。どうやら彼女も縁側からこちらに歩いてきたらしい。思ったより大きい彼女の声に驚いてしまい、俺は視線を動かさず間髪いれずに誤魔化した。

「み、見て、亀!」

 俺は必死に水田を指差す。

「か、亀?亀、が好きなの?」

「……そ、そうなんだ。見てごらん、あそこの水が揺れてるだろ?」

「あっホントだ。でも亀かな?」

 咄嗟に指した水田の水は確かに波紋を浮かべていた。何か生き物がいたようで、助かった。

「この辺、亀いたかなあ?虫とかヤモリとか爬虫類は多いけど」

 そう行ってこちらを上目遣いに覗き込む彼女は楽しげで。ひょっとしたらこちらの気持ちも、既に気付いているのかもしれない。

 やがて日が傾き、水田に反射する光は黄からオレンジ、そして赤色へと変わっていった。

 その間、俺と彼女は、会話をした。ただの雑談。それがもどかしくて、でも楽しくて。彼女もそう思ってくれているらしいことがまた嬉しかった。

 やがて夕焼けすら沈み、水田は暗闇を映し始めた。辺りからは蛙の合唱が少しずつ大きくなっていく。

 俺たちは縁側から先ほど対局した和室へ移動した。

 とはいえ、そろそろ帰らなければならない。時計を見ると午後19時ちょっと前。両親には20時ぐらいに帰ると伝えてあるので、残された時間は多くない。

 しかし楽しい時間は早く過ぎる。あっという間に時刻は19時40分。

「そろそろ、帰るよ」

 あぐらを解き、立とうとした俺の両肩を、彼女は掴んで座らせた。

「なんだよ」

 汚い言葉しか出てこない自分に腹が立つ。

「これだけは、言っておこうと思って」

 彼女は俯き加減で話し始めた。

「私、たぶんあなたに憧れていたんだと思う。別に恋愛感情とか好きとか嫌いとかじゃなくって。

 大会で打ちのめされてあの時私、凄いと思ったの。ああ、こういう人がプロになるんだ。立派な人になるんだ。凄いなあ、さすがだなあって」

「生意気だったのに?」

「生意気は自信の裏返しだから」

「そうかな?」

「そうだよたぶん。

 でもあなたが奨励会を受けないって人伝に聞いて、育成会にも所属しないって聞いて。なんだそんなもんか。私も井の中の蛙なら、所詮あの人も、つまり純一くんも井の中の蛙だったのかって思ったの」

「間違っていないな」

「でも純一くん。あなたは将棋道場で賭博をやっている。それは違うんじゃないのか、と思った」

「賭け将棋も将棋の一つの文化だぞ」

「…賭博議論は置いておくとしても。

 私が『違う』って思ったのはね。あなたが、将棋以外の方法で真剣師をやっつけてるらしいって聞いた時」

 …オヤジが教えたのか。それともたまたま見かけたのか、少々派手にやりすぎたかもしれない。

 彼女が言っているのは『能力』のことだ。

「私は憧れの人が落ちぶれていくのが辛い。それは技術的な意味じゃないの。

 魂の堕落が辛いのよ」

「他人の人生に口出しするのか?」

 言ってしまったと思ったときにはもう遅かった。彼女の大きな瞳には確実に涙が滲んでいた。

「確かにあなたと私は他人。それは変わらない絶対の事実。

 でもあの日、私たちは将棋を指して、たった一局だけだけど、あれだけ面白い対局を経験して。

 そして今日も対局して。私はとても面白かった。また指したいって思えた。

 それでもあなたは他人だと言うの?…って当たり前だけど。他人なんだけど。

 えっと、私が言いたいのはね」

 彼女がこちらを見上げた、何かを訴えるかのように、何かを言って欲しいかのように。

 彼女が何を望んでいるのかは俺には分からなかったが、しかしすり合わせられた両手がとても儚げに映った。

  だから。

「そうだな」

 思い切りかっこつけてやろう。そう思えた。

「まだ間に合うのなら」

 俺はそういって右手を差し出す。俺を見つめる彼女の瞳に、大粒の涙が浮かんだ。その涙を見つめながら。

「この手を取ってくれないか。今すぐじゃなくてもいい…俺たちはやり直せる。寂しさを埋めあえる」

 言い終わらないうちに、彼女は俺の右手を握った。俺は強く握り返した。それだけじゃ満足できなくて、彼女の体を抱き寄せた。華奢な俺よりさらに細く、壊れそうなほど儚い体が、俺の胸にしがみついて。どうしようもなく彼女が愛しくて、俺は一層強く彼女を抱きしめて…

「あっ猿よ!」

 そして離れた。

 彼女が俺の後ろを指差している。俺が苦々しくそちらを振り返ると、閉め忘れた障子のさらに向こう、縁側と廊下を仕切る窓の隙間から、数匹の猿がこちらを見ていた。

 悲鳴をあげそうになり、必死で抑えた。

「さ、猿じゃないか。久々に見た」

「ホント?南側が山だから、たまに来るんだけど」

「危なくないのか?」

「危ないは危ないけど。でもこちらから攻撃しなければ安全よ。少なくともこの辺りの猿は」

「そ、そうか」

 彼女の温もりが、まだ胸の中に残っている気がした。またそれを感じたくて、じりじりじれていると。

「ほら純一くん。そろそろ帰る時間」

 と帰宅を促され、俺は素直に撤退した。

 自宅へ着くなり、夕飯も食べず風呂も入らず、俺は自室のベッドに倒れこんだ。

 今日は色々な意味で疲れた。俺は襲いくる睡魔に抗わず、身を委ねるように深く眠った。

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