④対決
俺は駄目人間といえば駄目人間だが、約束や時間の遵守には拘りのある方だ。待ち合わせをしたらきっちり5分前(友人相手にそれ以上前だと逆に迷惑である)に着かないと気がすまないタイプ。
だから、自分の目が信じられなかった。朝起きて時計を見たら午前10時。平日なら怒られるが今日は土曜日。休日。ちょい遅めだね、で終わる時刻だ。
いつもなら。
今日だけは違った。今日だけは休日午前10時は寝坊なのである!
なにしろ今日は、待ちに待った彼女との逢瀬なのだから!
牛嶋とくだらないやりとりをして岩世に『能力』を使用してしまったあの日の放課後。決心のついた俺は佳久さんに告白をしようと、彼女を放課後の校舎裏に呼び出した。
「やあ佳久さん」
「あっ純一くん。えっと、用事って何?」
「それは」
君に告白しようと思って、と言おうとした。実は好きなんだ付き合ってください。と言おうとした。でも言えなかった。長年『能力』に頼りっぱなしだった告白。俺は一言、心の底を告げる勇気が出なかったのだ。
「あの、その、えー、その」
ああ、言ってしまいたい。君が好きだと叫びたい。これほど『能力』が使えたならと懇願した経験はいまだかつてない。
「え、映画のチケットが手に入ったんだ」
そんなものなかったが、ベタな言葉しか思い付かなかった。
「佳久さん、一緒に行かない?」
「映画のチケット…えっ私と純一君だけで?映画?」
「うん。駄目、かな?」
「駄目じゃないけど」
戸惑うような、困ったような表情の佳久さん。
「でも映画って…この町に映画館なんてないよ?ちょっと遠出しないと…」
彼女に指摘されて気付いた。そうだ。ここは超絶田舎なのである。映画館は隣の隣の町から電車を使ってそのまた隣の市まで出なければならない。片道二時間はかかるだろう。
「ああ、違う違う。映画じゃなくって」
断られるのを恐れた俺は、必死に頭を回転させた。
「そう遊園地。遊園地の券を知人に譲ってもらって」
「…遊園地…?」
首を小さく傾ける彼女の仕草が可愛らしい。
しかし俺は気付いた。そうだ。この町には遊園地もない。ここから遊園地に行くには隣の隣の町から電車を使ってそのまた隣の市まで出た後、バスを使ってまたまた隣の市へ移動しなくてはいけない。片道二時間半はかかるだろう。
映画も駄目、遊園地も駄目、じゃあどうしろというんだ?公園?この田んぼだらけの湿地帯の5月も晴れ晴れと暑いなか、公園に行くのか?じゃあゲーセン?付き合っていないとはいえ、女の子との初デートがゲーセン?俺は課長か?じゃあボウリング?あったかボウリング?
駄目だ。テレビもある、ラジオもある、車もそこそこ走ってるが田舎は田舎なのだ。ベコは飼ってないが蛇やら猿やらいるそこはやはり田舎なのだ。おら東京さ行くだなのだ。吉様は天才なのだ。
苦悩し続ける俺を、佳久さんは優しげに見守っていたが。
ふふっと少し笑うと。
「ああ、そういうことね」
ポツリとつぶやいた。
「純一くん。私、映画館も遊園地も、あまり趣味じゃないの。
だから、ちょっと家に来てみない?きっと楽しいよ」
思わぬ発言に、俺は全身の震えが止まらなかった。
「い、いいのか?佳久さんの家にお邪魔するなんて。迷惑じゃ」
「迷惑なんかじゃない。それに、今週の土曜日は両親共に出掛けて遅くまで帰って来ないから、たっぷり遊べるし」
佳久さんの自宅に10時集合。
教えてもらった住所によると、俺の自宅から佳久さんの自宅まではどれだけ急いでも自転車で30分はかかる。
そして朝起きて今現在の時刻は10時。明らかに寝坊で、遅刻だ。
俺は人生で一番慌てて自室のベッドで起きたままの格好で玄関へ直行し、寝巻き姿で外出しようとしたところ両親に引き止められ、せめて服ぐらい着替えろと言うのでTシャツ短パンという想い人との逢瀬にはアレな服装に着替えると、後は着のみ着のままで家を出た。
スマートフォンで「遅れる」ってメール送らないといけなかったかな…彼女の家へ行く途中、そんなことを思い付いたが、勿論後の祭りであった。
―30分後。彼女の家に到着した。
彼女の家はこれぞ田舎というべき木造平屋だった。東西に伸びた横長の形。南向きの玄関に、東西は水田に挟まれ、北側は山に面している。
玄関には『佳久』の表札。インターホンがなかったが「着いたらそのまま上がって」と事前の指示通り、玄関の扉を開ける。
「すいません、フシミタニです。遅れてすいません。入りますよ」
声をかけて、中に入った。
靴を脱ぎ、出来得る限り丁寧に揃える。本当に勝手に上がっていいのか?と疑問に思ったが、「すいませんごめんください」としきりに声をかけるも、何も反応がない。
仕方なく、東西へ伸びる廊下を、西へ歩いていく。
直角の曲がり角を右に折れ直進すると、左手の窓から水田が見えた。窓の外には小さな縁側も設けてある。反対の右手側には障子が並び、一番右奥には扉もあった。
その扉の手前、並んだ障子の一つが、僅かに開けられている。その中から、かすかに人の気配を感じた。
なんだよ。いるならいるって言えばいいのに。遅刻したくせに不満を覚える自らの心が醜い。その醜い心を押し留めて、俺は障子を開けた。
開けた瞬間、懐かしい畳の匂いが漂ってきた。十二畳ほどの広い和室。
和室の中央に、その人はいた。
制服を着て正座をしている彼女はまぎれもなく佳久さん。いつも通り長い髪、釣り目かつ大きな瞳に、冷たさすら覚える白い頬。いつもと変わらない容姿のはずなのに、しかしその雰囲気は尋常ではなかった。
悪寒を覚えるほど鋭い視線が俺を刺す。遅刻を怒っているのか。謝ろうとして、それより早く彼女の口が開いた。
はははははは。初めて聞く彼女の快活な笑い。高く響く笑い声が傷の如く耳に残る。
「武蔵戦法とは落ちたものだな。群馬のパワーショベルことフシミタニ純一もそんなものか」
群馬のパワーショベル。馬鹿な。
「佳久さん…いや佳久治華。教えろ。なぜその名を知っている?」
彼女ははっきりと嘲笑した。
「群馬の英雄をまねて中飛車穴熊使いになり、数々の才能を粉砕して小学生名人の栄冠まで後一歩だった天才。それがお前だ純一よ」
「褒められるのは嬉しいが」
「はっ馬鹿が。侮辱しているのが分からないか。
小学生名人戦に敗れ、恐れをなして本道から道を外し、奨励会、育成会、全ての試練を受ける前から逃げ出し、賭け将棋という名のぬるま湯に浸かることを求めまた実行したお前を、私は嘲弄しているのだ」
「黙れ!
しかしなぜ…なぜそこまで俺の情報を…まさか!」
「思い出したか」
「その態度…そしてこの凍てつくがごとき重圧…そして佳久の名前…!
思い出した。思い出したぞ!貴様の正体!
光速の寄せならぬ雷の寄せと称され、群馬歴代最強女子小学生との呼び声も未だ高い天才!
ああっ!思い出したぞ!
5年前の小学生名人戦群馬予選決勝で、群馬のパワーショベルこと俺の初手5六歩に対し、二手目5二飛と返したお前は!」
「弱冠小学生にして女傑と呼ばれ、またお前との対局が忘れられず、奨励会に入会して日々腕を磨いた私と、よく対等に話せるものだな。
そう、群馬の雷とはこの私、佳久治華のことなり!」
なぜだ。なぜ今の今まで思い出せなかった。佳久さんがまさかあの、俺と死闘を繰り広げた群馬の雷だったとは…おそらく、俺の魂があの頃の記憶を無意識に閉じ込めてしまったのだろう。神こと群馬の英雄に憧れて棋士を目指し、そして負けることの恐ろしさに身が震えたあの頃の俺の黄金期を。俺自身で封印してしまったのだ。
しかし記憶の封印が解けた今、不思議と動揺は少なく、恐れもなく、むしろ心躍る何かがあった。長年のアングラ将棋暦が、痛みを感じない身体に改造してしまったのかもしれない。
俺は笑った。佳久さんと同じそれは嘲笑だった。
「ははは。群馬の雷よ、今さら俺に復讐したいのか?もうあの日は取り戻せないと悟るのに、それでもお前はこの俺を打ち砕こうと挑むのか?やめろ。過去を追うのは愚者だけだ」
「愚者だとして何が悪い。角行による頓死、今だに体が覚えている。私はあの日に報いるために、ただそのために一人腕を磨いてきた。お前のように賭けと云う名の邪道に堕ちず、一人剣を磨いてきた」
「笑わせてくれる。堕落を知らずに何が栄光か。地獄を知らずに天の美酒に酔えるとでも?将棋と云う名の神の遊戯に、善と悪を偽造したのは所詮人間。
人間を超越する者、それが名人。神と契る者、それが名人だ!
それは全てを理解してこそ届く一つの境地であり、その道から俺は決して落ちていない!」
「元奨ですらないただの将棋指しが戯言を。
ならばお前は堕ちながらも磨き続けたとでも言うのか?自らの剣を!魂を!」
「言語にすれば事象は腐る。言っても伝わらないのなら、自らの技をこの盤上に示すのもいいだろう」
俺は盤の前に正座した。既に駒は並べられている。
「言葉より指し手。そのロジックは同感よ。だから」
「だから」
「「お願いします」」