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旅路の果て  作者: K.T
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 それからも幾つか調査をした二人は、署に戻り書類を纏め終えた頃になってようやく晩飯を摂ることにした。


「といってももうこんな時間か…」


 時刻は22時を回ったところで、辺りにはまだやっている飯屋は無い。牛丼屋やラーメン屋ならちらほらあるが、流石にいい加減食傷気味だった。この年になるとどちらも連日は胃にきつい。


「おい野崎。ちょっとコンビニ辺りで胃に優しい飯を買ってきてくれ。お前の方がそういうの詳しいだろ」


 そういうと野崎はあからさまに嫌な顔をしたが、お前の分も買って良いと付けると喜んで飛び出していった。


「現金な奴め…ん?」


 主のいなくなったデスクを見ると、片山の単行本が置いてあることに気づいた。


「あいつ、持ってきたのか。置いて来いと言ったのにしょうがない奴」


 …いや、言ってなかったか? どうにも色々考えることが多すぎて、言ったか言ってないかはっきり思い出せない。


 まあ良い、とりあえず証拠品ということにしておこう。そう考えた有坂は、ついでの時間つぶしとして読んでみようと手に取りページを捲りだした。


「ふむ…ふむ」


 この単行本にも有坂は瞬く間に引き込まれていった。いや、どちらかといえばこちらのほうがより有坂の好みに合致したと言える。


 まだ未成熟なタッチ。荒いが情熱を感じさせるストーリーテリング。そして卓越した人物描写。


 惜しむらくはいずれも私小説のような作品ばかりで、デビュー当事漫画の購買層であった子供たちには面白いとは到底思えないだろう。ある程度経験を積んでから描いたであろうガバチョくんですら、微妙に子供向けとは言い難い作品なのだから。


 しかし、裏を返せばそうでない層には評価されたろう――目に付く機会さえあったならば。ただとにかく惜しい、有坂は読みつつもそう評価せざるを得なかった。


 中でも有坂の心を捉えたのは、表題でもあるデビュー作『夕焼けこやけ』だった。


 田舎育ちの、複雑な家庭環境を持ちながらも普段は接点の無かった少年二人――一人は早世した妹のせいで省みられなくなった自己主張の薄い優等生、もう一人は親と死別した落第生――。

 元々ただの顔見知りに過ぎなかった二人は夏祭りの夜、死者の安息地であるさそり座の異郷へと迷い込んでしまう。二人ははじめは反発するも、やがては互いに似通ったところを認め、助け合いながらやがて家族と再会する…。


 そんな素朴な話だが、確かな人物描写のおかげで知らず知らず彼らに同調してしまう。中でも最後の、祭りの喧騒を抜け、時計屋、電気会社、牛乳屋、学校と抜けて町外れまでつづくポプラ並木を抜けていく辺りの、ひと時の浮かれた喧騒から現実に返る寂しさはまるで我が事のように胸を打った。


「…あ」


 と、そこでふと有坂は気づいた。

 そういえば、あの交差点には学校があった。


「まさか、な」


 口ではそう言いながらも、これまでに養ってきた刑事の直感に突き動かされる形で有坂は事件現場周辺の地図を取り出した。


 高柳の自供による、移動行程を太い指先でなぞっていく。


 大滝時計店、池波電気工事、川代ミルク…


「ビンゴ! これになぞらえていたんだ!!」


 有坂はぱちりと指を鳴らした。


「もっとも親しい仲の高柳がデビュー作のことを知らんとは思えん。…いや、確か二人は高校時代からの親友だという話だったな。なら、この作品の登場人物は片山本人と高柳をモデルにしている…?」


 実在の人物をモデルにしているなら、人物描写が緻密なのも頷ける。


 ところで漫画家を廃業した男が原点に戻るような動きをしているのが気になる。これではまるで…


「万が一、ということもあるか」


 有坂は地図をそのままに電話を取った。


「おう、検視の辻か? 捜査一課の有坂だ。至急調べて欲しいことがあるんだが」



 ………

 ………………

 ………………………



「どうも」


 有坂にそう声を掛けられ、それまで俯いていた高柳は顔を上げた。が、すぐに無言のままうつむいてしまった。


「またで悪いんですが、色々あなたから改めて話を聞きたい。そう思ったんですよ」


「…話すことはありません」


 にべもなく言われたが、有坂は気にすることなくつづけた。


「おっと、そうはいかんのです。警察はね、真実を調べるのが仕事なんです。例え、被害者や加害者にどんな信念や理由があろうと…ね」


 そう言いながら、はじめて高柳と会ったとき同様彼の対面に椅子を引くと腰掛けた。


「実はですね、片山さんの家を調べてきたんです。そこで、これを見つけました」


 取り出された『夕焼けこやけ』に、高柳はちらと視線を走らせる。ほんのわずか、目を見開いた高柳はつづけて有坂をまじまじと見た。


「これ、読みました。いやぁ、面白いですねこれ。私普段漫画読まないんですが、思わず読みふけってしまいましたよ」


 有坂はその視線を真っ向から受け止めながらぺらぺらとページを捲る。と、その手が止まった。


「中でも、このデビュー作。なんとも、穏やかな雰囲気でありながら同調させられるというのかな。思わず子供の頃読んだ銀河鉄道の夜を思い出してしまいましたよ。あれも、序盤の方で主人公のジョバンニは祭りに向かうんでしたな。それにさそり座。この作品にも、重要な役どころとして出ている。こういうのをオマージュというんでしたかな? ああ、若い部下がそういうのに詳しいんですが、わたしゃからっきしでしてね」


 一人で喋りつつ、有坂の瞳は高柳の一挙手一投足を逃すまいとしっかり開いている。そして過たず、高柳の腿上に組まれていた手にぐっと力が込められていたのを見て取った。


 どうやら切り口はあっているらしい。まだまだこれからだ。


「で、ですね。ふと思い出したことがあるんですよ」


 今度は犯行現場周辺の地図を取り出し、高柳の眼前に広げてやる。


「あんたら二人の行動を追っていくとですね。面白いものを見つけたんです」


 つ、つ、つ…と漫画に符合するいくつかのポイントを示す度、高柳の視線が指先を追っていく。


「これ、偶然じゃないですよね?」


「……だとしたら何だと?」


 初めて高柳から言葉を引き出したことに内心喜びを隠し、有坂はつづけた。


「さぁて、関係あるかどうかはまだ判りません。さて、次はこれです」


 地図などはそのままに、今度は借金のメモを取り出し置いてやる。


「これ、あなた方片山が金を借りた相手のことですよね? そして、あなたがもっとも彼に金を貸してきた」


 無言。


 それを肯定と受け取り、有坂は更につづけた。


「で、面白いのは…あなたのだけ、数字が図抜けてでかいにも関わらずすべての数字に棒線が引かれている。これ、借金を返し終えたってことですよね?」


「だから…何が言いたいんですか!」


 とうとう、高柳の声の調子が変わった。


「そうだ、借金は返してもらった。だから用済みになったから、殺したんだ! それで良いだろう!!」」


「いいや、よくありませんなぁ」


 高柳をいなすように、有坂は余裕たっぷりに応じる。


「そうだとすると、随分と悠長なことをなさる。殺す気なら一々こんな、思い出に浸るような道行きをしないでもっと手っ取り早く空き地にでも連れて行って殺した方が良い。そもそも一緒に飯を食いに行くなんてこと、殺したいと思うほど嫌いな相手とはしないでしょうよ」


「そ、それは…油断させるために…」


「油断? なら酒でも飲ませるべきでしたな」


「わ、私たちは下戸で…」


「殺す相手を気遣ったと?」


 言葉がなくなった。


「私の考えではこうです。あなたと片山は、久しぶりに会った。もしかしたら警備員の仕事に就いた片山が誘ったのかもしれない。どちらにしろ、旧交を温めたあなたたちは腹ごなしもかねて以前より知っていた道をぶらぶら散歩していた。そこで交差点に差し掛かり、信号待ちをしていたところで片山が体勢を崩して…」


 一旦有坂はそこで口を切り、両手を打ち合わせて衝突したことを示す。


「違いますかな?」


 高柳は顔を上げ、じっと有坂を見つめた。


 これこそが真相だ、そう確信を抱いていた有坂だが…


「違う」


 長い沈黙の後、高柳はただ一言そう言った。


「な…」


 ショックを受ける有坂に、高柳は深く息を吐くと淡々とつづけた。


「正確に言えば途中まではその通りです。驚かされました。が、肝心のところが判っていない。私は、私が片山を殺したことを翻すつもりはありません」


 そのまま再び俯いてしまう。もはや話す気は無いという確たる意志がそこにはあった。


「…判りました」


 しばらく待っても顔すら上げない相手に、とうとう有坂は音を上げた。どうやら攻め手が足りなかったらしい。


「また来ます」


 そう言い、証拠品を片付け立ち上がろうとしたところで。


「おっと」


 背広の袖に引っかかりかん、かんと音を立てて転がり落ちたのはガバ千代の缶バッジだった。

 受け取ってから適当にポケット突っ込んでいたため、入りが浅かったらしい。


「それは…!」


 ちらと見た高柳が、驚いたように顔を上げた。


「ああ…実はそれ、部下から貰ったんですよ」


 今は席をはずしていていないが、長丁場になると踏んだ野崎が一旦帰宅して着替えを取ってきた際に持ってきたと机に書置きとともに置いてあったのだ。


「あいつ、子供の頃から片山しょうの大ファンだったらしくて。ガバチョくんを貸してくれたのもそいつなんですよ」


「そうなんですか…」


 高柳がわずかに相好を崩した。その表情を見て、有坂はやはりこの男が親友である片山を殺すはずがないと確信を深める。


(あ…!)


 直後、ばさりと落ちる音が取調室に鳴った。


「そうか…あの証言だ」


 ずっと引っかかっていたもの――それは、富山の証言だったのだ。


『被害者が、自分に向かって笑いかけたように見えた』


 もし、突き飛ばされたなら、或いは躓いたりしたのならば普通は真っ先にそちらを見る。次いで車の方を見るから、驚いたような顔になるはずなのだ。


 最初から笑顔だったということは、被害者はそのつもりで飛び込んだ…つまりは自殺。


「そうですね?」


 そこまで告げた有坂の言葉に、高柳は今度こそ、はっきり動揺していた。


「だ、だが…そうだ! 理由は、理由はなんだ! あいつが、警備員をはじめたというなら、自殺する理由がないじゃないか!」


 がたりと椅子を蹴立てて反論する高柳だが。


「生憎、それについてはあるんですよ。理由を推測できるものがね」


 そう答えた有坂は、落ち着いた動きで胸元から封書を取り出す。広げて見せたそれには、“検死報告書”と書かれていた。


「これを見ると、片山さんは…重度の胃がんを患っていたそうです。高柳さんは…ご存じなかったようですな」


 高柳は、信じられないという表情で食い入るように見つめ。


「そうか…だから、あいついきなり…」


 やがて、どさりと椅子に腰を下ろした。


「…刑事さん。すみませんが、あいつの本…読ませてもらっても、いいですか」


「どうぞ」


 受け取った単行本を、懐かしむようにゆっくりとページを捲っていく。


「知ってましたか、刑事さん。この単行本には、その後の版では差し替えられた部分があることを」


「野崎がそんなことを言ってました…が、結局どこだか判らなかったと言ってましたよ。あるんですか?」


 そう有坂が答えると、高柳はこくりとうなずいた。


「…正解は、よく言われる夕焼けこやけ、じゃないんです。その後の作品の、パチンコ中毒の男の話の背後に出ている、漫画を郵送している男…こいつが、その後からいなくなってる」


 そういって一枚のページに指を止める。覗き込むとそこには確かに、小さなコマのこれまた片隅に、男が分厚い封筒を郵便局に持ち込んでいるのが見える。そいつは小さくかつデフォルメされているが、どことなく眼前の男に似ているように有坂には思えた。


 そこを指しながら、高柳が訥々と語り出した。


「実はね。あいつのデビュー作を漫画賞に送ったのは、私なんですよ。私は、あいつの話が好きだった。いつも二人でいたときに話してくれた物語が本当に好きだった。だから…あいつが漫画にして私のためだけに描いてくれた作品を、もっと世に認めてもらいたくて…勝手に送ったんです」


「そう…だったんですか」


 元はただ一人に向けた作風だったわけだ。


「確かにあいつの話は面白かった。だけど、万人受けするものじゃないことは私も、いえ私が一番よく知っていたんです。それでも…あいつが漫画を描いている間は、私も共に夢を追いかけているような気になれた。だからこそ、最後の最後まで片山に金を貸しつづけてきた…」


 やがて、ページを繰る手の上にぽた、ぽたりと雫が落ちていった。


「だけど、あいつは漫画を描くことを苦痛と感じるようになっていた。いつからか、何度も辞めたい、辞めたいってこぼしてました。だけど私は、それでも描く様に言ったんです。お前がもう一発逆転するには漫画を描くしかないんだ…と。私は金を貸すという形で彼の退路を断ってしまっていたんです。いつしか、互いのために思ってはじまった漫画が、望まざることに雁字搦めに縛り付けてしまった。彼に恨まれても仕方ないでしょう」


 片山の描かれたコマが、高柳の涙でふやけていく。


「なんと…」

 では、二版以降片山がその部分をカットした理由は…


「……あなたと片山さんは、まるでガバチョくんとガバ千代さんみたいなものだったのかも知れませんね」


 しばらく間を置いてからもらした有坂の言葉に、高柳は涙にまみれた顔を上げ苦笑した。


「確かにそうかもしれませんね。どちらも、どうしようもない奴だった」


「あなたは別に…」


「いいや。私も同じなんですよ。私も、身勝手な奴なんです」


 高柳は首を力なく振った。


「再会して飯を食っていたとき、私ははっきり言って『またか』と思ったんです。実はしばらく会っていなかったことがありがたかった…もう、困っていたんです。昔と違い、今は不況のあおりを受けて工場は倒産。そして娘の病気で金が無い。そこへあいつから、是非会ってくれと連絡が来た。

断らなかったのは、下手に断ることで片山と仲違いした結果、貸した金が返ってこなくなるのではないかという打算があったからです。

だのにあいつは朗らかに、まるで借金していることなぞついぞ知らぬとばかりに接してくる。それで、つい言ってしまったんです。『いいよな、お前は。何の責任も取らないで生きてきて』って。そのときの表情を、私は…忘れられそうにない。笑っているのだけど、今にも泣きそうな顔で。それで『ごめんなぁ』と言って…」


「金を、返してもらったんですね」


 高柳はうなずいた。


「私は、あいつにどう言って良いか判らなかった。あいつがどうしてこんな真似をしたのか、想像すらできなかった。どうやって、どうしてこんな大金を一括で……混乱したまま、私はあいつに誘われるまま移動したんです」


 そして、懐かしむように天井を見上げた。


「あそこを見つけたのも、私なんですよ。上京してからずぅっと、二人で遊んだり落ち込んだりしたときに通ると、この漫画の主人公たちになったような気がして勇気が出る。…出ていたんです。だけど、もう…今の私には、そんな気持ちは無くなっていた。あいつは、きっともっと早くからでしょうね。…つかの間の道のりを並んで歩く、ただの他人。それが、最後の私たちでした」


 年月、そして環境が、親友だったはずの二人の気持ちをどうにもならないほどに隔ててしまっていた。


「高柳は、交差点に来たところで空を見上げ言ったんです。『見なよ、あれがさそりの火だ』と。それからみんなの幸いがどうとか言って。私はそれを聞いて、こいつ何を言い出すんだろうと不思議に思いました。けど、何か重大な意味があるのかもしれない。そう思ったから、彼と同じように空を見上げたら…その間に片山は、あいつは車道に飛び出していたんです」


 薄ぼんやりとではあるが、有坂にはその言葉に思い当たる節があった。


『どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもう、あのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない』


「銀河鉄道の夜、でしたか」


 銀河鉄道の夜の主人公の片割れ、ジョバンニの言葉ではなかったか。

 この言葉の後、共に進んできたもう一人の主人公カムパネルラはずっと一緒にいたいというジョバンニの願いも空しく消えうせてしまう。

 印象深いシーンだったから、うっすらと記憶に残っていたのだ。


「ご存知でしたか。片山は宮沢賢治が好きでしてね、強く彼の影響を受けていたんです」


 銀河鉄道の夜の最後は、少年のままの少年と、大人になり行く少年とがいずれは違う道へと進んでしまう話だった。


 それをインスパイアした夕焼けこやけの、これまたモチーフとなった少年たちが同じような道を辿ったのは皮肉というべきか。


「確かに、法律上では私には責任は無いかもしれません。或いは、あいつが元々死ぬ気だったのかもしれない。ですが、不用意な一言であいつを追い詰め、殺したのは…やはり、私なんですよ」


 取調室には高柳の嗚咽する声だけが残された。


 有坂は無言で唯一の窓を見上げる。

 そこにはアンタレスが輝いているのが見えた。


 ………

 ………………

 ………………………


 あれ以来、私は夢を見るようになった。

 少年であることを辞めた日の追憶。


「なあ、本当にいいのかな?」


 卒業式の日、私は急いで家に帰り荷物を纏めると、しょうちゃんを連れ出し汽車に飛び乗ったのだ。


 目的地は無い。


 ただひたすら、汽車の走るがままに身をゆだねる。


 はじめは家を出ようと誘ったときは半信半疑ながらもついてきたしょうちゃんだったが、夜も更ける段になってようやく私が本気だとわかったようだった。


「当たり前だ。学校を卒業さえしちまえばこっちのもんなんだ。あの家にはもう、来年の春までだっていたくねぇ。しょうちゃん、お前だってそうだろが」


 あのとき、私ははじめて乗る夜汽車でこれまでの自分が見たことも聞いたこともないはじめての世界へ向かうということ、そして何よりそれまで自身を縛っていたしがらみから逃れられるという興奮に酔っていた。


「そりゃあ…そうだけど」


 記憶の中のしょうちゃん。気弱そうな風情は当時から変わっていない。そんな彼を元気付けようと、俺は早口でまくしたてる。


「お前の母ちゃん、ずっとお前のせいで親父さんが死んだっていうけどそんなのおかしいぜ。俺の親父だって、母ちゃん逃げられた後は俺を便利な道具程度にしか思ってねぇ。このままじゃ、俺たちゃ大人の都合で使い潰されるしかねぇ。俺…そんなん、いやだ。だから、町へ出てそこで暮らそうぜ。町ならきっと、こんな田舎なんかより仕事もある」


「けど、金はどうすんだ? すぐ仕事につけるもんじゃないだろ? 寝床だって…」

 そう言われ、私はかばんから茶封筒を取り出してみせた。


 中にはきっかり十万円が納められている。このときの私たちには見たことも無いほどの大金だった。


「それ、どうしたんだ?!」


「この日のために、こつこつ為替にしておいたものを途中で両替してきたんだ。親父は今日は朝まで酒飲んで寝てるから気づかねぇ。なあに、元々は俺が新聞配達で稼いだ金だ、文句は言わせねぇ」


 しょうちゃんも俺の家庭の事情は知っている。こくりとうなずいた。


「けど、俺にはそんな金、ねぇよ…」


 かばんに金を仕舞いこんだ俺に、しょうちゃんのしょげたような声が掛けられる。

 彼は仕事に出かける前に俺が無理やりひっぱって連れてきたから、ほとんど着の身着のままだ。


 しょうちゃんの母親は、帰ってこない父親への不満をぶつけるため、うかつに家を出る素振りを見せると激昂する。そのため不意打ち気味に連れ出したのだ。


「ある。…これ、これがしょうちゃんの取り分だ」


 そういって、私は…少し迷ったが、予定通りかばんの底に仕舞ってあったもう一つの小包を取り出し渡した。


「え? …どうしたんだ、こんな大金?!」


 その中には同額の金が包まれていた。


「…しょうちゃんには悪いと思ったけど。あの漫画、雑誌の新人賞に応募したんだ。その賞金」


 はじめてしょうちゃんが表情を険しくする。


「そんな、勝手なこと!」


 しょうちゃんも新人賞のことを知っていた。私が当時漫画を購読していて、彼に薦めたことがあったからだ。

 しかし、そのとき彼はすぐに首を振って言った。


『この漫画は、僕たちだけのものだ。他の人に見せるつもりはない』と。


 後になって考えてみれば、彼はわかっていたのだろう。


 彼の漫画は、特定の人物――わたし――だけを向いて書いていた。

 不特定多数相手に描きつづける、プロの漫画とは意識のありようがちがうのだ――と。


 けれど、その頃の私には納得できなかったのだ。


 彼の漫画は、掲載されている漫画にも決してひけは取らない。

 見てもらう人がいさえすれば、きっと万人受けする――と。


 何より、彼が自立できる術としてうってつけじゃないか。


 少年期特有の万能感からそう考えた私は、しょうちゃんが嫌がるだろうことを理解していた上で勝手に応募した。


 結果、佳作ではあったが賞金十万。


 私は自分の目が間違いじゃなかったと心ひそかに満足していた。


「勝手なことしたのは謝る。けど、しょうちゃんだって判ってるだろ? 俺たち、あの村にいても大人に都合よく潰されるだけだ。俺だけが町に逃げても、駄目なんだ」


「そりゃあ…そう、だけど」


「なぁに、しょうちゃんは直ぐに働ける仕事に就けたと思えばいいんだ。当面は二人で部屋借りて、一緒に住めばお互い家賃の負担も軽くなる。後は俺が適当な工場で働けるようになれば、そっからどうするか考えりゃいいさ」


 その子供らしい、稚拙な未来設計は、私と同等以上に日常へ疲弊していたしょうちゃんの心を揺さぶるには十分すぎた。


「……うん」


 たっぷりした間を置いて、しょうちゃんがうなずく。私は場の空気を変えようと、話題を切り替えることにした。


「しかし、夜汽車というのもなかなか乙なもんだよなぁ」


 そういって窓外を見やる。


 夜汽車はいつしか人の灯りのまったく存在しない山の中を走っていた。普段ならもう少し明るいはずの時間だが、今は私たちの行く末を暗示するかのようなただただ真っ暗な世界だけが広がっている。


「…そう、かな? 僕はちょっと、怖いよ」


 彼も、同じ気持ちだったのだろうか。

 私は慌てて他に話題になりそうなものを探した。


 そうして視点をあげた私の視界に、夜空にひときわ目立つ赤い星が見えた。


「あ…あれ! 見てみぃ、アンタレスだよ!!」


 さそり座α星――通称”アンタレス”。

 この星は、私としょうちゃんとの間をつなぐきっかけでもあった。


「ああ、本当だ。蝎の火だ!」


 しょうちゃんも嬉しそうに見上げている。

 ふと私は悪戯心を起こした。


「『「蝎の火ってなんだい。』」


 しょうちゃんはこちらを振り向き、ようやく笑顔を見せた。


「『蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。』」


 小学四年生の国語の授業で知って以来、細かい一節をそらんじて言えるくらい、しょうちゃんは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をよく読んでいた。お父さんが船乗りだったから、きっとジョバンニに自分を重ねていたのかもしれない。


 そして私もまた、彼に薦められて読むうちに己をカンパネルラに重ねていった。だから、当時の私たちにはすらすらと言い合えるくらいに読み込んでいたのだ。


「…『カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのように、ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。』」


 私は今度はそういうと、じっとしょうちゃんを見つめた。

 しばらくきょとんとしたしょうちゃんだったが。


「『うん。僕だってそうだ。』」


 どうやら私が何をさせたいか、意図を汲んでくれたようだ。


「『けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。』」


 ほっとした私がつづける。


「『僕わからない。』」

「『僕たちしっかりやろうねえ。』」


 そこまで掛け合った私たちはしばし互いの顔を見詰め合っていたが、やがてどちらともなく笑いあう。


 その日が、私たちが子供でいられた最後の日であったのだ。

 

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