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「漫画家、ねぇ…」
仮眠室の硬い寝台で横になりながら、有坂は一人呟いた。
その手には勇者! ガバッチョくん!!の単行本一巻が握られている。被害者が漫画家であると知った有坂が興味を持ったと見て取り、野崎がどこからか持ってきた物だ。
「漫画なんて読むの、何十年ぶりだ? まったく、こんな年になって漫画を読むことになるとは思わんかったな」
実際には有坂は漫画家というものイコール金持ちという図式が脳内にあったため片山の格好に疑問を覚えただけであり、被害者の描いたという漫画自体にはついぞ興味が無かった…のだが、野崎の熱い推しに負けた格好で渡されたものだ。
正直、表紙を見てその気力は更に萎えている。漫画をあまり読まない有坂でも、はっきり言って上手いとは言い兼ねる画力だ。
「まあ…眠る前に読むのにはちょうどいいか」
律儀な有坂は眠かったが、ひとまずは読んでみることにした。読了は出来ずとも、読んだという事実があれば野崎も納得はするだろう。
「どれどれ…」
ぺらり、ぺらりと静かな仮眠室に紙の捲れる音だけが響く。
やがて、その音は次第に速さを増していった。
「ふぅむ…なるほどなぁ」
気づけば一時間くらいで全三巻を読み終わっていた。
「久しぶりに読んでみたが…うん、これは好みが分かれるかも知れんなぁ」
ガバッチョくんは、元々子供向けの漫画雑誌に描かれたものだった。
勇者を目指すガバッチョくんが、色んな仲間に支えられ勇者を倒す旅に出る…という、まあオーソドックスな話である。
そこだけ見れば、はっきり言って凡百の作品でしかない。
野崎が強く推薦した要因――それは、一人のサブキャラの存在にあった。
仲間に中年男性(ドン・ガバ千代とかいう名前だった。元々はガバッチョくんの名前に似ていることを利用して詐欺を働こうとしているのを成敗されて仲間になった)がいるのだが、こいつがとにかくどうしようもないトラブルメーカーなのだ。
金を持ち出し飲み食いする、博打を打つ、ガバッチョくんの威光を嵩に弱い者いじめをする…と、とにかくひどい。所謂どうしようも無い屑である。
しかし、読み進めるうちにこいつがどうにも憎めなくなってくる。高潔なガバッチョくんと、上手く釣り合いが取れているのだ。
それが顕著になるのは、二巻の最後でドン・ガバ千代が死んでからだ。
野崎いわく、子供向けの漫画ではやはりドン・ガバ千代のあくが強すぎたようで(さもありなんと有坂もそう感じた)、編集部から連載をつづけるためにはドン・ガバ千代を除外するように言われたらしい。
その辺のやり取りは有坂には興味ないし調べようも無いから判らないが、はっきりしているのはドン・ガバ千代がいなくなってから作品の人気は急落し、結局三巻で打ち切られてしまったということだけだ。
読み終わった有坂もこれにはうなずかざるを得ない。
確かに、読みはじめはドン・ガバ千代の身勝手さにげんなりする。これが受け入れられなかった子供も大勢いようし、親が読んだら眉をひそめること請け合いだ。
だがしかし、ドン・ガバ千代がいなくなると、今度は逆にやたらガバッチョくんの言動が綺麗ごと過ぎて鼻に付くように感じてしまうのだ。
多分、ドン・ガバ千代に作者は深い思い入れがある。漫画に詳しくない有坂ですら、それが伝わってきた。
ドン・ガバ千代が屑なのは間違いない。
しかし、ただの屑の有様を描いたのではない。であるなら、二巻もの間ともに出しつづける訳が無かろう。
片山は、人間が誰しも心の奥に持つ、汚さや醜さ浅ましさを抉り出してはドン・ガバ千代という形で正義の代名詞である勇者へぶつけた。故に、それをはじめて見た人は自分の心の闇を突きつけられたような気がして不快感を覚える。
しかし、刑事という、人の闇に触れる機会の多かった有坂はそこへ他人への諦めきれないつながり、そして憧憬があるように感じられたのだ。
だからこそ人を選ぶ作品だろう――そう判断する。有坂個人としては、片山しょうの作風は決して嫌いではなかった。
「うむ、起きたら野崎に礼でも言うか」
もしかしたら、他の作品も貸してもらえるかもしれない。
今度非番の日にでも読んでみるのも良いかも知れん――そんなことを考えながら、有坂は眠りについた。
………
………………
………………………
「時間です、ザカさん」
野崎に声を掛けられ、有坂はぱちりと目を覚ました。
ぱっと時計を見ると、三時間ほど寝たらしいことがわかる。それだけでも、鍛えられた有坂の身体は随分と元気を取り戻していた。
「おう。それじゃあ片山の家に向かうか」
「了解っす。パンと牛乳はすでに買ってありますんで」
「ありがとう。お前は?」
「すでに済ませてありますよ」
心なしか、うきうきしているようにも見える。まあ憧れの漫画家の家に行けるとなれば仕方の無いことなのかもしれない。
「あ、そうだ。ガバッチョくん、読み終わったぞ」
「お、ホントすか? はやいっすね。で、どうでした?」
手早く服を着替え、廊下に出ながら感想を述べる。
「うん、正直期待はまったくしてなかったが、面白かった。ただ、二巻までだな」
「そうでしょうそうでしょう」
後を付いてくる野崎が嬉しそうに同意する。
「当時僕もリアルタイムで読んでたんですけど、同級生の誰もがガバ千代が死んだのがショックでしてねぇ」
「へぇ、人気あったのか?」
野崎が興奮に鼻の穴を広げて断言する。
「あったなんてもんじゃありませんよ! 当時、各漫画の主要キャラの缶バッジが読者プレゼントされたことがあったんですが、ガバチョくんだけはガバ千代だったんですよ。もちろん、僕も応募して取ってありますよ。おかげで僕、十個ほどガバ千代バッジを持ってます。あ、今度一つザカさんにも差し上げますね!」
正直いらんとは思ったが、流石に好意を無下に断るのも悪いと考え直し有坂は口を濁した。
「お、おお…にしても意外だな、あれは子供受けするキャラではないと思っていたが…」
その呟きに、野崎が苦笑した。
「…まあ、それ以外がぱっとしないという見方も出来ますけどね」
「なるほどな。まあそれは良いが、他にはどんな作品がいいんだ?」
パトカーの助手席に乗り込みながら有坂がそういうと。
「…うーん…他の作品は、ちょっと…」
運転席に乗り込みながら、野崎は口ごもらせた。
「ちょっと、何だ?」
「ぶっちゃけ、面白くないんですよ」
「そうなのか?」
「ええ」
エンジンを始動させながら、野崎が淡々と言う。
「ガバチョくんで大分行き詰っちゃったのか、その後の作品は微妙になってしまいまして。それ以前に持ち味だった、屑キャラが大分マイルドになっちゃったのばっかりなんですよ。元々話も絵も上手くないでしょう? だから段々売れなくなっちゃって、ここ数年はほとんど商業誌にすら載ってない有様ですよ」
「そうなのか。…ちょっと残念だな」
改めて思い返してみれば、確かにガバチョもガバ千代も狙って描けたようには思えない。たまたま描きたいキャラと描きやすいキャラの方向性ががっちり嵌った作品だったということだろう。
「ま、そんなわけで連載当時周りの友達も引き込んだんです。これでファン仲間が増えた!と内心喜んだんですが…残念なことに、打ち切られてから片山先生の作品はその雑誌に載らなくなっちゃいましてね。他の雑誌で見かけても、輪を掛けて暗い話になっていったんです」
子供向けだとしても有名な雑誌に載るということで恐らく、ガバッチョくんは片山しょうにしても起死回生を狙った作品だったのだろう。そして…最も思い入れのあるキャラを殺してまで編集の意向にそったにも拘らず、結局奮闘むなしく打ち切られてしまった。
落胆した結果、その後の作品が影響されて暗くなるのも無理のない話しだ――過ぎたこととはいえ、有坂は内心同情を覚えた。
「そうだ、漫画家といえば多少は金は入ってたんじゃないか?」
しんみりしてしまった車内の空気を変えようと、有坂は思い出したように軽い口調で尋ねた。
「先輩…今日びそんなこと真面目に聞いたら、馬鹿にされますよ?」
だがそんな心遣いもむなしく、野崎が心底呆れたように溜息を吐く。
「漫画家で大金を得られるのなんて、週刊誌に毎週載ってる超売れっ子作家くらいなもんですよ。それ以外の人なんてまともに生活できればマシな方、連載作を複数も持っているのに火の車なんてのもざらです」
「そ、そうなのか?!」
有坂はびっくりしていた。
確かに最初は片手間に趣味のような絵を描いてそれで生計が立てられる、なんとも羨ましい身分だとは内心思っていた。それが片山の漫画を読んで、どうやらそんな簡単なもんじゃないらしいとはうっすら気づいていたが、それでも広告業のように描けば描くだけ金になる仕事だろうと考えていた節はあった。
そこを読みとったのか、野崎がもう一つ野太い溜息を吐いた。
「あー、誤解されやすいですけどね。漫画家って、広告業とかと違って純粋な歩合じゃないんですよ。そりゃあ単行本が売れれば印税が入ってきますけどね、それまでは出版社による買い切りなんですよ」
「てことは…売れなかったら?」
「ええ、最初の原稿料だけで生活しないといけません」
「相場はどんぐらいなんだ?」
「うーん…僕も詳しい話は知りませんけどね。大学で同じ漫研にいて、売り出した奴だと一ページで数千円貰えれば良いってぼやいてましたね」
「はぁ…そりゃあ少ないなぁ」
正直な感想が口から零れる。
「まったくです」
野崎も大きくうなずいた。
「日本はそういう、漫画家に限らず、技術職全体を下に見る悪癖があるんですよね。好きでやってることだから安くても良いんだろう、という考えがはびこっているというか…」
憤懣やるかたないといった風情で野崎が語りだした。
「僕の兄貴なんですけど、元々技術者だったんですよ。で、会社の元でいろいろ研究して、色々発明したそうなんです」
そういって例に出した幾つかは、有坂にも聞き覚えのあるものだった。どうやら野崎の兄は当人に似ず大分優秀な男らしい。
「ですが、同期で入った文系の奴らばっかりが昇給していく。何も生み出さず、兄貴たちを顎でこき使うしかできないくせにですよ? 本当に腹が立つったらありゃしない。だから兄貴はその会社に見切りをつけて、今は海外に…」
「お、おいおい。落ち着けよ」
「いーや、落ち着けませんよ。大体ですね、片山先生の作品は…」
普段語れないことについて話せる機会だから、ついつい野崎も歯止めが利かなくなったのだろう。
あちゃあ、この話題は鬼門だったか…有坂は内心臍を噛んだがもう遅い。
結局車が目的地に到着するまでの間有坂は野崎の兄の元いた会社の悪口を延々と聞かされる羽目になったのであった。