5.VS訪問者ウェルト卿
朝。 健やかに始まるはずだった朝。 目が覚めて、欠伸と伸びを同時にしていたら、甘い臭いの暗闇に一瞬で飲み込まれた。 これは……あの方の泥か。
「っ……」 体が熱い。 ずるずると肌の上と中を這い回り、体の中どころか骨や肉まで浸食されている。 全体の違和感が酷く、聞くに堪えない音がまったく止まないので、性別を変えられているのだろう。 痛みがあまり遮断されていないが、その分脳に直接快楽をぶち込まれている。 なんだ、私何かしたか?
頭の芯が痺れて、何も考えられなくなっていく。 今は使えもしない声帯を震わそうと口を開こうとするも、やっぱり何も漏れてこない。 完全に行動権を奪われている。 勝手に出たはずの涙すら感じる事はできなかった。
「なん……ですか、いきなり」
何度も達せさせられて荒くなった息を整えようと、震える喉で深呼吸する。 文字通り朝飯前に、説明もなく男にされた。 ついでに遊ばれた。
頭に声が響く。 『何度も言っているのに裸で寝ている方が悪い。 早く他所向けの服を着ろ』
「下着はつけてるじゃないですか……シャワーは浴びますからね」
『さっさと入れ』
気が変わる前にふらつく足を叱咤した。 さっぱりして、髪を結って白と黒の上下を着終わったら即持主様の仕事部屋に連れ込まれる。
彼は意外と本の虫なので、仕事部屋の壁は窓以外本棚とイコールになっている。 そしてその中身どころかほぼ全ての机の上まで本やハーブ、良くわからない材料などが重ねられている。 逆に床は奇麗で、塵一つない。 調度品の基調は欅素材で濃い緑が多く、主の性格に似合わず意外と落ち着ける場所になっている。
「おはようございます、お腹空きました」 さっきの恨みも込めて全力で訴える。
『これでも食ってろ』
揚げパンを投げつけられた。 シナモン味。 嫌そうなため息をひとつついた彼は、これまた不機嫌そうに、奇跡的に空いているソファの一つに座った。 その横に腰を下ろす。
「今日はどうしました?」
『ウェルトが来る』 声が低い。
無言で立つも、ズボンとベルト両方を掴まれる。 逃げようとしてもまったく放してくれない。 なんで男にしたのかと思ったらそういう事か!
「いーやーでーすー」
『駄目だ、座れ』 隠れ蓑にする気だあ!
仲間なんだから自分で対応してほしい。 私を人形だと言いつつ自由意志残してるのは貴方様の意向でしょうに! 自分が文句言われるからって酷い!
「そもそもあの方は貴方より立場が下でしょう、黙らせれば良いではありませんか!」
『……』
「なんで貴方が黙るんですか」 いくら昔の常識に凝り固まっているとはいえ、まだまだ名前も無くしていない、比べてずっと若い若輩者じゃないか。 それこそ持主様の言う事なら聞かざるをえないだろうに。
『……最近、さらに面倒くさくなってきていてな』
「だから私に身代わりになれって事ですか。 そんな逃げてばっかりだから頭の中まで老けるんですよ」
『お前はずうっと若々しいままでなんとも羨ましいなぁ?』 こめかみが抉られるかと思うほどの力で締め付けられる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」 許してもらえた。 脳味噌飛び出るかと思ったわ。
『まったく、余計な事まで付け加えるんじゃないと何度言えばわかる』
「くーん」 すり寄って反省の意を示す。 千年詰まったがごときため息が聞こえると、体に腕を回された。 言葉が勝手に出てきてしまうんだ、わざとじゃないんだ。
『本当によくそれで自活できてたな……』
「なーに変な事言ってるんです? 私ばりっばりの野獣じゃないですか。 その気になれば文字通りサバイバルもできますし、自分の口は自分で養えますよ」
『すぐ媚びる駄犬が何を言う』
「それもこれもあれもぜーんぶ演技に決まってるじゃないですか、てか犬ってなんですかライオンですよ私は。 女豹や孤高のローンウルフでもいいですけど」
『後で精神鑑定行っとけ』
「酷い」
『いいから早く食べ終われ、着いたようだしそろそろ行くぞ』 お茶を渡された。
「はーい」
どろりと闇が晴れた時、周りはどこにでもある普通の応接室に代わっていた。 彼は来客はあまり好まれないので、こういう所には拘らない。 必要最低限の物さえあれば良いとお考えだ。
ソファに座ったまま転移したので自分達は立つ必要はない。 元々向かいのソファに座っていたスーツ姿の見た目だけは爽やか青年と、対照的に何の感情もない顔をした甘ロリ系美少女は立ち上がって一礼し、すっと座った。 彼らが今日の来客、ウェルト卿とその人形だ。
『お久しぶりでございます、腐敗の王。 再びお目にかかれて誠、恐悦至極に存じます』
一見するだけなら本当に好青年だ。 見るだけなら無害なんだ、本当に。
『御託はいい、さっさと終わらせろ』 声が普通に戻っている。 嫌がるのに疲れてシャットダウンしたんだろう。
『そんな事を言わないでくださいませ、起床から就寝まで常にお傍に控えさせていただきたいのに許されるのは時折の逢瀬だけ。 ほんの少しでも長くお顔を拝見していたいのです、いと気高き古き神よ』
そして持主様を崇拝している。 ハルカさんばりのストーカーだ。 まあ、確かに前より悪化してるねこの物言い。
『気色悪い』 ばっさり。 好みじゃないから執着されても嬉しくないとか言っていた。 少し同情心を覚える。
「言われてやーんの」 持主様に見られたので、ぷふーっと笑って挑発する。 安全圏から攻撃するのは、本当に気持ちがいい。
『……あーあいらっしゃったのですか、矮小すぎて気づきませんでしたよ。 そろそろ人形としての本分を弁えたのかと思ったらそうではないようでとっても残念でございます。 我らが王の寛大なるご慈悲で多少の自由を貰っているのに感謝もできない犬は哀れですねぇ、恩を仇で返すお気持ちはいったいどのようなモノなのでしょう私にはわかりません』
わぁいつもより口数多い。 機嫌悪いねー。 そんなんで私に勝てると思ってるのかな?
「おや、目の前に居るのに気づかないなんて随分と耄碌してらっしゃるんですねぇ。 どうでしょうそろそろご隠居なされては?」
笑いあう。
『人の身の分際でよくもまあ口の回る事。 本来なら私の足元に這いつくばる事すら不可能な塵のくせに』
「そんな塵でも集まれば毒しか吐かない鳥一匹ぐらいは地に落とせるのですよ? 謙虚という言葉を辞書で引いてみてはいかがでしょう、貴方の身を守る事に繋がるやもしれませんよ」
『塵なぞ鳥にかかれば一羽ばたきで吹き飛ばされますよ、いくら集まろうと生きる世界が違っては手を伸ばす事すら許されない事も知らないんですか』
「確かに見た目だけならそうでしょうが、優れた猫というはえてしてそういう仮面を被っているモノですよ。 油断したところで喉笛を噛み千切るのです」
『口の減らない油舐めですねぇ、舌が何枚あるのか確かめてみたいですよ。 好奇心は猫をも殺すと言いましょうしどうでしょう謙虚に生きてみては』
「生憎と持って生まれた一枚しかございませんが、滑りの良さには自信がありますとも。 たとえそれで死んだとしてもご安心ください、残り八つの限界まで私は己のもって生まれた魂の導くままに歩きます故」 油舐めだけにね。
『ええ、そ の よ う で』 一語一語くっきり区切って言われた。 よしよし苛立ってる。
『もういいだろう、要件を話せ』 持主様が至極めんどうくさそうに言った。
『……御意のままに』
話はなんてことのない、報告だった。 ただ、彼らの話は口頭と思考レベルの両方で行われるので、横で聞いているだけじゃ中身の本質はわからない。 暇なので少女を見る。 前見た時とまったく変わりがない。 なんの変化もなく、ただそこに、それこそ人形のように在るだけだ。 毎日退屈そうで本当に気の毒。
人形である彼女に名前は無い。 元々無いのか取り上げられたのかは知らないけれど、彼女は元生物というだけの物にさせられたから新しいソレは貰っていないようだ。 何をしてそんな恨みまたは愛情を買ったのか、私は知らない。
ただ、魂は体の中に今もある。 解放されて自由になれば、物になる以前の彼女に戻れる可能性はある。 しかしその魂は今、ウェルト卿だけを知覚できるようにされている。 視覚も、聴覚も、触覚も、何もかも、彼が許可した物のみ感じられる。 体が動いているのだって、彼が彼の意思で動かしている。 そこに彼女の意志も主義も主張も関係ない。 本来、人形になった者は、皆そうされる。 そうして主の心の赴くままに遊ばれる。 私が自由なのは持主様が特殊なだけだ。 変人……変神?……とも言う。
しかしまあ、私はウェルト卿が暴走した時用に居るだけなので、仕事のお話中はとても退屈でしかたない。 本でも持ってくればよかった。 本当になんか警告とかしてほしい。 暇すぎるので瞑想していたら寝てしまったらしい。 揺り起こされた。
『おい、起きろ』
「え、あ、はい」
『やはり虫けらは心臓にまで毛が生えているのですね、こんな席で寝れるなんて羨ましいくらいの鈍さですよ』 ウェルト卿がすかさず嫌味を突っ込んでくる。
「……ぎゃあぎゃあと囀る事しかできないダチョウごときがよくもまあ吠えれます事、もう少し語彙を増やした方が多少は賢く見てもらえますよ」
『悪口を覚える事なんぞに割く時間があるのなら、その分有益な事に使いますよ』
「へー、乗ってきませんか」 まさかの自制を覚えたらしい。
『下々のおイタなんぞ痛くも痒くもないですしねぇ、ま、許してあげない事もありませんよ? 今すぐに自分の非を認め跪き謝罪す』
「うわぶっさいくな顔」 嘘は言っていない。 常々嫌味を言う顔というのは、不細工だと評されるもの。 個人的な感想なので証拠を出す必要もない。 げに素晴らしきかな、ただの悪口。
『てめぇ』 本性が出た。 ついでに持主様の堪えきれなかった微かな失笑も聞こえた。
やはり最後に物を言うのは単純かつ簡潔な言の葉だ。 とりあえず変な動きで挑発する。 やーい手出しできないの知ってんだぞー。 ウェルト卿の顔が凄く面白い事になっている。
『なんだその動き』 持主様が聞いてきた。
「なんか天啓が下りてきまして」 具体的には空飛ぶスパゲッティモンスター様。 という事にしておこう。
『お前たまに変なモノと繋がるよなぁ』 呆れられた。 『まあ、ウェルト、今日はもう帰れ。 やる事がある』
『……仰せとあらば』
帰ってった。 両手の中指を立ててたらはたかれる。 『そこまでせんでいい』
「はーい」
さて部屋から出るべと扉に向かおうとしたら、仕事部屋に戻された。 いつもなら放置されるのに。
「まだ何か?」
『なに、先の続きをな』
……。 顔を見合わせる。
脱兎のごとく全力で扉に向かうもいつの間にか首輪に鎖が出現していた。 潰れた声が出て、仰向けに転んでしまう。 暴れるたびにちゃりちゃりと首元で鳴る音が煩わしい。 ずるずると引き寄せられて、足元に戻って来てしまった。 やだやだやだ!
『逃げるな』 見下ろされる。
「朝ので満足なさったんじゃないのです?! てかやる事ってこれですか?!」
『とても、疲れた。 ああいうのはどうにも、……苦手なのは、知っているだろう』 真顔。 たまに出る、何も感じていないような、感情が抜け落ちたような顔。 それは長く生きている者達が最も恐れている、全てを死へと至らせる病の症状だ。 虚無病と名付けられたそれを患うと、だんだん何も感じなくなっていって、最終的に自我を失う、らしい。 そして概念の一部となる。 なので、特に肉の器を持たない彼らにとっては致命的だと聞いた。 私にはまったく理解できない感情だけど、持主様は時折とても苦しそうにしておられる。
「知ってますけども」
『だから、俺を癒せ人形。 大人しく遊ばれろ』 からの悪意に満ち満ちた笑顔。
「横暴だ! 正当な手順を踏んでから審議を経て審判を待つべきでしょうそういうのは!」
『何を言う、お前が従うべき常識は俺の意志だろう』
ふわっと彼の髪が舞う。 と同時にまた体が引きずられる。 具体的には奥の扉の向こうにある仮眠室に向けて。 ふざけんじゃねぇ。
「ちょっとちょっと待って、待ってくださいってば! なんかこう、話し合いとかでなんとかできませんかね!」
『できんなぁ』 声がとても楽しそうだ。 踏ん張っても抵抗むなしく彼の歩みは止まらない。
「今お昼前でしょうまだ外は爽やかな朝なんですよ、むしろお散歩とかそういうのの方がストレス解消で健全で健やかな精神になれますよ、ね!」 扉が開いた音がした。
『生憎と健全で健やかとは正反対なのでなぁ、そういった事は後で自分でやればいいのではないか?』
「いやいやそういう事なんて言わないで、なんかこうレッツトライですよねぇ持主様?! ねぇ?!」 聞いちゃくれない。 後ろには一筋の光もないのがわかりすぎるほどわかる。 頭、腹と順々に枠の中を通り、続いて足が入ってしまう。
「……この、変態セクハラくそエロ爺ぃ!」
『そのエロ爺に好き好んで弄ばれている奴はどこのどいつかな』
音もなく扉が閉まった。