会室にて
パソコンに向かって懸命に考えながらキーを打つ僕に対し、「おーい、小説なんて書く必要ないよォ。」と小馬鹿にするように言ってくるのは鈴木で、ちょっとうんざりしてきた。鈴木は、もはや粗大ごみに近い古びたソファの上に寝転がって、アメリカの映画かなにかに出てくるデブみたくポテトチップスをほおばっている。かなりうんざりしてきた。結局のところ、文学会の会誌『芽』の発行のため尽力しているのは、僕だけになってしまった。
窓から差し込んでくる春らしい暖かな陽光とは対照的な、無機質な会室のパソコンに何時間も向かっていると悲しくなってくる。やるせなくなってくる。
「ねえ、鈴木もなんか書いてよぉ。かりにも文学会の一会員なんだからさぁ」
僕は思わず嘆くようにそう言ってしまった。
「おれ、文学とか小説やめたんだよ。世界を語ることができなくなっちゃったから。対して、経済学は、まだましなの。つまり、経済学にしか興味なくなっちゃった。ごめんよォ」彼は言った。
それから、ポテチを折って細い棒を2本作り、それらを斜めに交差させて、「おい、これを見ろ!いいから見ろ!需要曲線、供給曲線、その交点においてー、ドゥルドゥルドゥルドゥルドゥルー、ダン!
社会的総余剰が最大化される!市場均衡万歳!市場原理万歳!マンセー、マンセー、マンセー」と絶叫した。
「お前、いつから市場原理主義者になったの?市場も失敗するの!」僕はため息をついてふたたびパソコンに向かった。
僕ら文学会の伝統にのっとり、会誌には少なくとも3作品は載せなければならない。そして現状、まだ1作品もできていない。こういった追い込まれた状況で、大げさにいって、なにかを創造するというのは、不可能なことなんじゃないだろうか。また、ため息をついて悲しげに天井を見上げる。黄ばんだ汚れがそこここに見られる。会室の空気はやはりいつものように淀んでいる。こうした愚劣な環境でなにかを創造するというのは、やっぱり不可能なんじゃないだろうか。
いや、後ろ向きな考えはよそう。僕は自分に言い聞かせた。ともかくパソコンに向かって小説を書き上げるしかないのだ。こうして僕は気持ちを入れ直したのである。が、少しのあいだ静かにしていた鈴木が突然興奮して、
「ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー」と歌い出した。
僕はあきれるほかなかった。次第に憤懣が募り、
「ねえ、人が一生懸命小説書いてるの。勘弁してよ」とわりにマジなトーンで言った。
鈴木は歌うのを止め、マネキンのように冷静な顔をしてこちらを見た。そのあまりにも生命の臭いのしない顔に引いてしまい、僕はちょっと怖くなった。しかしながら、正しいのは僕なのである。僕は正義だ。ここは強く言わなければならない。
「ほんと、勘弁してよ。集中してるのにうるさくされたら困るよ…」
「…………すまん。つい調子乗っちゃって。悪いな」鈴木は下を向いてひどく反省したように言った。
そういう風に素直に謝られてしまうと、なんか僕も悪かったような気がしてくる。そこで「いや、わかればいいんだよ。というか、僕も悪かったよ。強く言っちゃってごめんね」と謝った。いや、誤った。
すると鈴木の顔面が換えてすぐの蛍光灯みたくパッと明るくなって、
「じゃあ、歌うね。今度は本気で歌うからさ。さっきのリハーサルだから。おれ歌うまいんだ」
それに対する僕の反応を待たずして、鈴木は足音でリズムをつけながら歌い出した。
「ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー
ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイべー」
すこぶるうまくて感動して興奮した。鈴木の歌には人を惹きつけるなにかがあったのだ。というのも、途中から僕も歌わずにはいられなかったからだ。かくして、鈴木と僕は、約1時間「ビーマイベイベー」と歌い狂うことになったわけだ。
それでさすがに疲れてきて、「そろそろ終わりにしようか」と鈴木に言おうとしたちょうどそのとき、僕が密かに思いを寄せている女性会員の剛力さんが「こんにちはー」と言って入って来た。すぐにこの世のものとは思えない、といったような表情を浮かべた。まあ剛力さんからしてみれば、会室のドアを開けた途端に、「ビーマイベイベー」と歌い狂う鈴木と僕が現れたわけで、彼女が地獄のような表情を浮かべたのは至極当然だったのだ。僕たちも歌うのを止め、やはり地獄のような表情を浮かべたのは言うまでもない。彼女は「す、すいません」と言って即座に会室から出て行った。ドアが悲しげな音を立てて閉まった。
彼女が出て行ったあとの、空虚に淀んだ会室の空気のなかにおいて、鈴木が泣き出した。
「おれ、剛力さんのこと、好きだったんだあああ。もうダメだあああ、ゴーリキー、ゴーリキ―、ゴーリキー、ゴーリキ―」
子供のように泣いている鈴木を見ていたら、僕まで悲しくなってきて「ゴーリキー、ゴーリキー、ゴーリキー」と静かに泣きながら何度もつぶやいた。剛力さんには僕も鈴木も変人と強固に認識されてしまっただろう。そしてもう、手遅れなのだ。
そうして1時間ほど泣いていたら「いや、一人前の男がいつまでもメソメソしていたらあかんでしょ」という観念でもって、僕と鈴木は意気投合し、悲しさを吹き飛ばすという意味も込めて、ふたたび「ビーマイベイベービーマイベイベー、ビーマイベイベー、ビーマイベイベー」と歌い出した。途中から「ゴーリキーベイべー、ゴーリキーベイべー、ゴーリキーベイべー、ゴーリキーベイべー」と変えて歌った。
小説どうしよう。