放課後の教室で
「あーっ!終わったー」
クラスの女子生徒が両手を突き上げる様に伸びをしながら言った。
中間テストが終わって、弛緩した空気の中でダラダラ帰り始める生徒たちを後目に、わたしは黒板を消していた。普段は日替わりの日直の担当だが、テスト期間中、黒板の隅の日直と書かれた欄は空席になっている。テストの開始から終了時間を書いていくが、誰も消して行かないので逐一わたしが出向いて黒板消しを手にしなければならないのは些か不満ではあるけれど、学級委員なので仕方がない。
「どっちの意味で?」
殆どの生徒が羽を伸ばしに教室を出て行った後、最後に残った女子のグループのもう一人が鞄を肩に引っ掛けたまま尋ねる。
「どっちって言うか、いろんな意味で…」
まっすぐ伸びていた身体から空気が抜ける様に机に突っ伏した。
「なんでテストは存在するのかなあ」
憂鬱な溜め息まじりにそんな言葉が聞こえてくるのを、わたしは黒板を消しながら聞いていた。
「それは、生徒の習熟度を定期的に調査するっていう名目で、短期間で強制的に勉強を促してるんじゃない?」
もう一人の女子生徒の答えを聞きながら、わたしは無心で手を動かしていた。文字は既に消えているけれど、黒板消しが通過した軌跡が残ってしまう。それを消すと少しずれた場所にそのチョークの粉の軌跡が移る。それを追いかけているうちに、わたしの性格上、黒板全体を消さなければいけなくなっていた。
「そんな意図があったとは!」
そんな意図は無いと思うけれど、そこまで親しい人たちでもないので口は挟まない。
「最後が世界史って…」
まだ席を立とうとしない女子生徒は、明らかに不満を帯びた口調になった。
「ローマ帝国とか知らないし」
「カエサルの有名なセリフって、なににした?」
「ブルートゥースがどうのこうのって言うやつ?」
なんで近距離無線通信機器がローマ帝国にあるのよ?
「『ブルータス、お前もか』ですね」
二人とは別のおっとりした声が聞こえてくる。というか、何で増える…。
「『賽は投げられた』とか、『来た、見た、勝った』でも正解だそうです」
このまま教室の鍵を置いて帰るわけにもいかないので、わたしは正直、早く帰れと頭の中で呪文の様に唱え続けていた。
「なんだあ、サイって投げれるの?」
「まあ、それくらい頑張ったんじゃないの?」
「ゾウは無理だけど、サイならいけなくもないって事?なるほど」
なるほどじゃねーよ!思ったけど、言わなかった。というか、この人たちと同じ偏差値の学校にいるのかと思うと、途端に少し惨めな気分になった。
「いえ、カエサルが軍を率いてルビコン川を渡る時に、ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅、神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう。賽は投げられた。と檄を飛ばしたんだそうです。そこから、勝負事の開始の時に、賽は投げられたという言葉が使われる様になったんです。因みにですが、賽はサイコロの事です。戦いは始まっている、という意味ですね」
なんでこの人とあの人は同じ高校の同じクラスに居るんだ?自慢げでもなくさらりと予備知識を披露したその女子生徒の存在に、少しだけホッとした。
「なーんだ。じゃあそう言えばいいのに。カッコつけたかったのかな?」
「そこまでは計りかねますね…」
無邪気な質問で大人を困らせるんじゃない。思ったけど、喉元まで出かかった言葉をどうにか飲み込んだ。
「きたみたかったは順番逆じゃない?」
「どういう意味?」
「見て、着て、買うんじゃないの?」
もう帰れよお…。
わたしは泣きそうな気分で黒板消しを黒板に押し付けながらゴシゴシ消した。
「洋服屋のキャッチコピーみたいに言うな」
「ゼラの戦いでファルナケス2世を破った時、腹心に送った戦勝報告が『来た、見た、勝った』との言葉があったそうです」
「その知識って、今後の生活の役に立つんですか?」
そういう問題じゃねーよ!わたしは黒板が削れるくらい緑色の壁を擦っていた。
「まあ、あまり日常生活では常用しませんね」
微笑を含んだ声に、その人の優しさがにじみ出ている。
「そろそろ帰っていい?」
鞄を肩に引っ掛けていた女子生徒が鞄を下ろしてもう一度肩にかけ直した。ようやく言ってくれたと思った時、緊張感の無い、間延びした声が耳に届いた。
「えーっ!もう帰るの?」
いや、帰れよ!お前だけでもいいから帰れ!黒板消しクリーナーに黒板消しを乗せて鰹節を削る様に前後に押し当てながら押し殺した声で言う。幸いクリーナーの掃除機のような音のお蔭で聞こえてはいないらしい。
「じゃあさ、カラオケいこーよ!」
「女子高生みたいなこというなよ」
「今まであたしの事を何だと思ってたの?!」
まだ席に座っている女子生徒が憤慨して、一番博識の女子生徒がその様子を微笑ましげに眺めている。
「行こうぜ?みんなで」
なんだか、楽しそうだなあなんて、不意に思ってしまった。クリーナーから黒板消しを離すと、掃除機の音が止んで、教室は再び、クラスメイト達の会話の声だけになった。色々な色のスーパーボールやビー玉が跳ねる様な声が、耳元で耳障りだった。流石に言おう。そう言う話は歩きながらでもできるでしょ?それとも、特別仲のいい人のいないわたしにたいする当て付け?そんな言葉が頭に浮かんで、胸を過って、そんな自分がどうしようもなく嫌になる。
「委員長、終わった?」
突然声を掛けられて黒板消しを落しかけた。空中でどうにかキャッチして黒板の淵にあるレールの上に置くと、活発な瞳がこっちを見ていた。
「あ、終わった、けど…」
「じゃあ行こうぜ?カラオケ」
ニッと笑った口元で、八重歯が無邪気に顔を覗かせていた。
「とりあえず…鍵、職員室に返してくる」
わたしは思わず視線を逸らして、黒板の隅のフックに掛っている鍵を引っ手繰った。