ミレニアム・コンプリケーション
『ミレニアム』。複雑時計に分類されるその懐中時計は、十九世紀初頭に天才時計師によって作り出されたものだ。
様々な機能を持っていたのだが、特に注目を集めていたのは、二000年十二月二十五日ミレニアムのクリスマスに動作すると言われている謎の機構だった。
深い雪が白く輝くスイスの山脈を窓の向こうに眺めながら、俺はしばらくの間目を休めていた。
今の仕事を請け負ったのが一九九五年、もう五年の時が流れている。
「もう一息か」
俺は軽く首を回すと、期日の迫った自分の仕事に戻る。
天下にその名を知られた大富豪、冷血商人ニコラ・バルドーの使いが来た時、俺は何かの冗談だと思った。
当時の俺は、独立したての若手時計師の一人に過ぎなかった。金持ちの顧客は欲しいに決まっていたが、今の段階では夢物語に過ぎないことも分かっていたのだ。
しかし気が付くと、俺は南仏の豪邸に連れてこられていた。
通された大広間でしばらく待っていると、奥の扉が開き、車椅子の老人が俺の前に現れる。
バルドー翁は言った。
「『ミレニアム』を修理したまえ。当然、二000年十二月二十四日までにな」
あくまでぞんざいに、召使いに対して言うように。
この非現実的な情況に、俺はむしろ開き直った。
「世界に三つだけ作られたと言われている『ミレニアム』の実物を一つ、図面一式、時計師の残したメモ、これらが揃えばやってみてもいいでしょう」
ヴァルド―翁が大きく目を見開く。
「言いよる、若造。だがな、ワシにかかればそう大した条件ではない」
ヴァルドー翁が手を叩くと、俺を迎えに来た男が手に小さな箱を持ってやってきた。
「『ミレニアム』の実物だ。これを直すのだ」
歴史的な天才時計師の作品の中でも特別な品。所在は全て分からなくなっているはずだ。
ヴァルドー相手にも震えなかった膝が、今では立っているのがやっとなほど震えている。
当然俺は修理を請け負った。
俺の工房に後から後から資料が送られてきた。
そして俺は、人生を捧げるにふさわしいこの仕事に没頭していく。
一九九七年、中間報告の為、再度南仏を訪れる。
今度は屋敷の近くにある、小さな教会に連れて行かれた。
そこはまさに村の教会であり、小さな子供が遊んでいる声が外から聞こえてくる。
バルドー翁はそこで、頭を垂れて神父から祈りを捧げられていた。
天窓からの光が2人を照らし、なんとも神秘的な雰囲気を作り出す。
祈りが終わると、バルドー翁は車椅子を操作してこちらを向いた。
「よし、来たな。報告を聞こう」
前回と同じような横柄な態度だったが、先程の従順な姿を見た後だったので、思わず吹き出してしまう。
「何を笑っておる、屋敷に帰る間に話を聞かせろ。ワシは忙しいのだ」
驚いたことに、この老人は照れていた。
二000年十二月二十四日。
『ミレニアム』は既に完璧に修理を終えており、今再び正しい時を刻み続けている。
この世紀の瞬間に立ち会うのは、バルドー翁と彼の執事、そして俺の三人だけだった。三人はバルドー翁の書斎に集まり、日付の変わり目を待ち構える。
俺自身は修理の過程で、『ミレニアム』の機構は知り尽くしていた。
しかしバルドー翁の鬼気迫る目の輝きの前に、今から何かの奇蹟が起こるのだと、本気になって思い始めていた。
時計が0時0分0秒を示す。
まず最初に、年の表示が二000年十二月二十四日から二000年十二月二十五日に切り替わる。
この時、年月日、全ての文字の色が黒から赤に変わった。
次に、月の形を示すムーンフェーズを覆い隠すように、新たなプレートが現れ始める。
徐々に現れたそのプレートには、キリストの顔がエナメル彩色されていた。
「ああ、神よ」
バルドー翁が呟く。その目から大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちる。
執事はいつものように無表情のままだ。
確かに見た目のインパクトは小さい。しかしこの動作を、二000年十二月二十五日にだけ施すには、途方もない技術力が必要だった。
まさに天才時計師の名に恥じないものである。
と、バルドーが首を横たえる。執事が主の頸動脈に指を添え、首を振る。
この事態に俺はなんの不思議も感じなかった。執事もそのようだ。彼は冷静に携帯電話を取り出した。
葬式は例の教会で行われた。
参列者の中に村の者が多く含まれているのが印象的である。
神父と少し話が出来た。バルドーが教会に来たのは今から十年前。ビジネスから引退した彼が、ここの屋敷に移ってすぐだったという。
彼はひどく疲れて見えた。引退に当たって後継者争いが激しかったのは、神父もニュースで見聞きしていた。
神父の説教を聞き、多くの慈善事業に出資しながらも彼はなお飢えていた。
神をこの目で見たかったのだ。
彼は恐らく神を見たのでしょう。神父はそう語った。それほどまでに穏やかな死に顔だった。
バルドーは神を見たのだろう。
ただ俺の修理した時計によってではなく、彼自身の信仰によって。