プロポーズの結末
とある国の宮殿にある庭の一角に、一組の男女がいた。男はこの国の皇太子で、名はスペンサー。女はこの国の侯爵の一人、ウィンフリート侯爵の娘で、名はティルダ。
皇太子はこの日、彼女に求婚するつもりだった。長年の思いを伝えるべく、彼女を庭園散策に誘ったのだ。代々の皇后が気に入っているというその庭には、見事な薔薇がいくつも咲いていた。ティルダはそのうちの、薄いピンクの花びらを美しく咲かせる薔薇に見とれている。
「――――ティルダ」
「はい、殿下」
薔薇に劣らぬ美しいその横顔に呼びかけると、パッと視線が彼に向けられる。ことりと首を傾げながら言葉を待つ柔らかな微笑に勇気づけられた彼は、ティルダの両手を掬い取り、握った。
「ティルダ。私はずっと、君の事が好きだ。どうか私の、妃になってほしい」
熱のこもった真摯な眼差しで告げられた彼女は、一度ぱちりと瞬いた。そして次の瞬間ゆっくりと、それは美しい笑みを浮かべ――――。
「殿下が皇帝になられる前に離縁して下さるなら、喜んで」
◇ ◆ ◇
「――――側室は持っていただいて構いません。ですが、次期皇后となられる方ですから、慎重にお選びになってくださいね。それから」
「……ティルダ」
「はい、なんでしょう?」
可愛らしく、恐らく無意識に首を傾げるティルダ。穢れなど知らぬ澄んだ瞳にどうしたのかという風に見つめられ、スペンサーは一瞬ひるんだ。彼が今抱く気持ちは、彼としてはもっともだと思っている。だが、彼女の様子に、自信が揺らいできた。その表れなのか、彼は恐る恐る尋ねる。
「私は君に、プロポーズしたはずなのだが……」
「はい、殿下。それに対してわたくしは、殿下が皇帝になられる前に離縁して下さるなら喜んでと、お返事いたしましたわ」
ついさっき聞いた事と一言一句違わぬ言葉が返ってきたが、彼の頭はその事実を受け入れたくなかった。受け入れる前に、その機能を放棄することにしたのだ。なので、誤魔化してみる。
「……今のは空耳か?私はそんなに疲れているのか?……まさかとは思うが今、君の口から、離縁という言葉が聞こえたのだが」
スペンサーのその言葉に、彼女は眼を見開いた。心配げにそっと、彼の腕に触れる。
「まぁ殿下、お疲れなのですか?わたくしったらちっとも気づかず……申し訳ございません。お話はまた今度にいたしましょう」
「待てティルダ!分かった、空耳でも疲れているのでもないのだな!?――――……何故なのだ、君は私が、そんなに嫌いか……?」
腕に触れた細い指が離れる前にさっと握りしめ、離れる事を止めた彼は、凛々しい眉を哀しげに下げながら尋ねた。ここで、「はい、嫌いです」などという返事が返って来ようものならショックで寝込める自身があったが、聞かずにはいられなかったのだ。
「いいえ、殿下。殿下が皇帝となられる方でなければ、今すぐ殿下に嫁ぎたいと思うほど、殿下をお慕いしております」
「ティルダ……!」
愛らしい唇から紡がれた言葉に、スペンサーは震えるほど感激した。言外に、「好きだけど、あなたは皇太子だから嫁ぐのはちょっと……」と、ある意味直接「嫌いです」と言われるよりも辛い事を告げられているのだが、彼はそれに気づかない。彼の耳がしっかりキャッチしたのは、「殿下をお慕いしております」という部分だけだったのだ。
「ティルダ、私も君と同じ気持ちだ。君の事を愛している。だからどうか、私の妃に――――」
「離縁して下さるなら」
「ティ、ティルダ……!?」
なってほしいと続くはずだった言葉を遮ってまで告げられた事に、スペンサーは最早泣きそうだった。いや、もう泣いている。涙目だ。
一方彼女は、変わらぬ美しい微笑を浮かべたままだ。現在進行形で、一人の男性の求婚を素気無く断っているようには思えない。
「き、君は……私の事を、慕ってくれていると……」
「はい、殿下。……ずっと、お慕いしております」
恥じらいから目を伏せ、頬を赤らめる姿の、なんと可憐な事か。またもや感激に震えそうになった彼だが、同じ轍は踏まないようにと、気をしっかり引き締める。
「慕ってはいるが……妃には、なれぬと……?」
「いいえ、殿下。殿下が求めて下さるのならば、わたくしは喜んで殿下の妃になります」
そう言って、目線をしっかり合わせて微笑むティルダに、スペンサーの気がするっと緩む。しかし、続く「ただ、」という言葉に、彼はなんだか嫌な予感がした。
「ただ、皇后にはなりたくないので、殿下が皇帝として即位なさる前には、離縁してください」
予感が的中した。
しかしなぜなのか。皇后になりたくないとは。自分が皇帝、つまり国で一番の男性になれば、その妻である皇后は、国一番の女性となれるのに。
スペンサーが正直にその疑問をぶつけると、ティルダからはこう返事が返ってきた。
「殿下は、先の太皇太后様と皇太后様についてご存知ですか?」
「あぁ、もちろんだ。ひいおばあ様にはお会いした事はないが……。お二人がどうしたのだ」
彼女の言う先の太皇太后と皇太后というのは、スペンサーの曾祖母と祖母の事だ。二人ともすでに亡くなっているが、彼が幼少の頃は、祖母である皇太后は健在だった。
「先の皇太后様が、当時としては珍しい男爵家のご出身で、大変苦労なされたという事も、ご存知ですか?」
「あぁ。祖父である先の皇帝陛下に是非にと請われ、反対する大臣達の口を閉じさせてご結婚なされたと聞いている」
先の皇帝夫婦の結婚にまつわる話は、あまりにも有名だ。落ちぶれかけていた男爵家の令嬢と、将来有望な皇太子との恋は、国を代表する物語として語り継がれ、サクセスストーリーとして、夢見る少女達の心を捉え続けていた。
先の皇帝を、皇帝として、祖父として、また、一人の男性として尊敬するスペンサーは、世紀のロマンスとも称された祖父母の恋に思いを馳せたが、違います、そちらではございませんと首を振るティルダに、どういう事かと首を傾げた。
「私が申しているのは、先の太皇太后様との関係で、皇太后様がご苦労なさったという事なのです」
「あぁ……」
そちらかと、彼も思い当った。
先の太皇太后は、皇帝となる大事な息子の妃が身分の低い男爵令嬢である事を、よく思っていなかった。貴族として最低位に位置する男爵家の娘如きに、皇后の座が務まるのかと、公然と非難する事もあったという。それは、皇太后が皇太子妃であった時から、太皇太后が亡くなるまで続いたという。その逸話も最近物語にされ、姑にいびられながらも健気に夫を愛し、妻としての務めを全うする、お手本のような理想の妻像として人気になっているらしい。
皇帝は、先の皇帝が亡くなれば、皇太子が皇帝として即位する事になる。つまり、皇帝より位の高い男性は、生きている者の中にはいない。しかし、皇后は違う。皇后は、夫である皇帝が亡くなれば皇太后になるのだ。つまり、夫は国一番の位でも、自分はそうではない事があるのだ。寧ろ、その場合の方が多い。
「だから君は、皇太子妃にはなれても、皇后にはなりたくないと?」
「はい」
満面の笑みで頷く彼女に、なんて事だと思う。皇太子という身分が理由で拒まれるのではないかという心配はあった。だが、皇太子妃になる事を受け入れてもらったが、皇后になる事を拒まれるとは思ってもいなかった。
「殿下、わたくしは立派な皇太子妃になるとお約束いたします。ですから殿下も、皇帝になられる前にわたくしを離縁するとお約束してくださいね」
◇ ◆ ◇
「ハンス、どうしたらティルダの考えを変えさせられると思う!?結婚の条件が離縁だなんて、あんまりだ!」
「……恐れながら殿下。私にはどうすればよいのか、分かりかねます」
「やはりお前にも分からぬか!私だって分からない!とりあえず、あの物語を出版禁止にしようと思うのだが、どう思う!?」
「それは……お止めになった方がよろしいかと。貴族や庶民に関わらず、絶大な人気を誇っているそうなので、反発を受ける事になりましょう」
「――――皇太子殿下!一体どういう事なのですっ!?ティルダを早くわたくしの義娘にして下さるのではないのですか!?プロポーズなさったのでしょうっ?」
「これは、皇后陛下……」
「母上……どうか落ち着いてください……」
「落ち着いてなど、いられません!ティルダに、義母としてしてあげたい事がたくさんあるのです!せっかく用意して待っているのに、殿下は全然彼女を連れてきて下さらないではないですか!」
「わ、私だって彼女を妃にしたいと努力しています!ですがティルダが、半分しか受け入れてくれないのです……!私にどうしろと仰るのですかっ!?」
侍女達によると、皇太子の部屋ではここ最近、このようなやり取りが頻繁に行われているそうだ。皇太子と、彼の侍従長、そして母である皇后との言い合いは、誰にも止められない。唯一止められるであろう件の侯爵令嬢は、今日も大好きな物語を読み耽っているのだそうな。
ティルダ嬢はその物語が大好きです。現皇后であるスペンサーのお母様とは面識があり、気に入られていますが、そんな事は大好きな物語の前では吹っ飛んでしまうようです。
結末は「半分受け入れる」でした!
突発的に書いたものなので続きません。多分。