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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

桜 闇

作者: 工藤るう子
掲載日:2011/04/10



 江戸から東京へと都の名が変わり、将軍家から天皇へと覇権が移った。そうして色々な文明が異国の地から持ち込まれ、ひとの生活も変化してゆく。


 しかし、それは、まだ、都でのこと。


 都から遠く離れた山あいの小さな村までは、まだ文明化の波はやってこない。


 そんな時代の話である。


 咲き初める桜の森の中、いたいけに泣く赤子がいた。


 寒のもどりが厳しい夜を乗り越えた赤子を、この地の神主が拾い上げた。


 桜の森は、この村の守り神である。


 特に、みごとな白い花を咲かせる桜の木、きよみ桜と呼ばれる、樹齢が千年とも二千年とも言われる古木は、姫神の宿る霊木と敬われていた。


 夜の寒さを乗り切ったのは姫神の加護と、桜の咲きほころびはじめたころにちなみ、神主は赤子に千春の名を与えた。


 そうして、あっという間に十七年が過ぎていった。








 花曇りの空。


 肌を刺すような、冷たい空気。


 春が来たからなのか、妙に人恋しい。


(じいさまも歳だからなぁ………)


 元気そうに見えるし、歳のわりには元気なのも事実ではあるのだが、それでも、もう八十を過ぎている。独りにするのは不安だった。


「おっす。春だぞ」


 きよみ桜の幹をペチリと叩く。


 どの木も分け隔てなく好きだった。しかし、この木だけは特別なのだ。


(オレ、この根元に捨てられてたんだよな)


 自分の母親がどんな人間なのか、どういった理由で自分を捨てたのか、気にならないと言えばウソになる。それでも、それらは自分なりにケリをつけた問題だった。


 幹に抱きつくと、あたたかいような気がする。


(だからかな)


 人恋しい気分が癒えてゆく。まるで、やさしく抱き返してくれているかのようで、安心する。


「きよみちゃん。今年も咲いてくれよな」


 千春のつぶやきに答えるかのように、さわさわと枝が揺れる。


「たのしみにしてるからな」


 そうつぶやくと、千春はきよみ桜を後にした。</P>







 山はほころびはじめた花々で霞んで見えるというのに、千春の好きな森の桜はまだまだ固い。それが淋しくてなんとなく足元の小石を蹴飛ばした。


 蹴飛ばした小石がきれいな放物線を描く。その行方を目で追っていた千春だったが、


「あぶないっ」


 ちょうどその落下地点近くに端然とたたずむ人影を見つけたのだ。人影がゆらりと揺れ、しゃがみこむ。


「わるいっ……もとい、ごめん…なさい」


 石がぶつかったのかと焦って駆けつけた千春に、


「危ないでしょう。千春くん」


 注意するのは、千春の家の離れに長期滞在中の伊集院隼人だった。


 都の治安を守る若き警官の階級が何なのか、千春は興味もないため覚えてはいないが、噂では出世頭だという話だった。彼は、凶悪犯との捕り物の最中に負傷し、療養のためにこの村に来たのだ。


 洗練されたあこがれの地のエリートの上に美男とあって、村の女たちはみんな伊集院の世話をしたがったらしい。実に羨ましい話である。しかし、それは、当の伊集院にとっては煩わしいだけだったらしく、このままでは療養にはならないとそれまで泊まっていた家の主である村長に談判したという。そうして、村長に紹介された家が、千春の家でもある神社だった。


 神社は村から離れた場所にある。行くまでには森を通らなければならず、その木の下闇は大人の男ですら恐怖を覚えるほど、深い。帝のおわす都とは違い、まだ街灯が普及していない田舎である。桜祭りの数日間はまだしも、それ以外はよほどの用がなければ神社にひとが来ることはない。


 療養先としては、これ以上ない場所ではある。まぁ、医師と看護婦までもが往診を躊躇するという点を除けばではあるが。


「石を蹴る時は周囲を確認してからになさい」


「ごめん。いつもはひとなんかいないからさ。それよか傷、大丈夫?」


 心配しているのが一目瞭然の千春に、伊集院の悪戯心がくすぐられる。


「大丈夫じゃありません」


 そのひとことに、


「じゃ、じゃあ、オレ、先生呼んでくる。あ、それとも、先に部屋にもどったほうがいいかな。………そうだ。じいさまに」


 真っ青になっておたおたと踵を返そうとした千春に、大人気なかったかと、


「冗談ですよ。おちつきなさい」


 肩を竦める伊集院だった。


「ひどっ、ひどいや伊集院さんっ」


 真っ青から真っ赤に染まった顔を見て、退屈しないなどと伊集院が考えているなどとは、千春は露程も知らない。


 伊集院はと言えば、人の悪い笑いを堪えて、


「立つの手伝ってくれませんか」


と、手を差し出すのだった。








 とろりと漆を流したような夜。


(そういや新月だっけ………)


 半纏を羽織り、千春は庭に出た。


 闇夜に大きなくしゃみが響く。


 首をすくめて周囲を見渡し、ほっと安堵の吐息をこぼす。


 眠れない。


(なんでだろ)


 寝汚いと祖父に笑われるくらいにはいくらでも眠れるし、眠れずに困ったことなどない。


(あれのせいかな)


 伊集院を部屋まで送っていった礼だと言って、珈琲といういい匂いのする飲み物をごちそうになったのだ。


(匂いはいいんだけどなぁ………。味は、せんぶりみたいだよな。すっげ、苦いの。あんなの好んで飲むだなんて。いっくら帝都じゃ流行ってるからって………………)


 こういうときは、きよみ桜のところに行くのが一番なのだ。


 みんなは怖いと言って祭りの夜くらいしか近寄ってこない。


 たしかに闇は怖いけれど…。


(きよみ桜のところに行くだけだから、大丈夫)


 千春は自分で自分を納得させながら、闇に沈む森を進んでいった。


 どれくらい歩いただろう。


 ふと、違和感を感じて千春は立ち止まった。


(迷った? げっ。まぬけ………)


 自分のマヌケぶりに、頭をぼりぼりと掻く。


「うわっ」


 その時、千春は木の根に足を取られた。


 崖などあるはずがないのに、落下するような感覚が千春に襲いかかる。


 どすんと、腰をしたたかに打った。全身に衝撃が走り、目の前がちかちかする。


「いってぇ」


 基本的に、自分の庭も同然の森なのに。どこに何があるかなんて、毎日ごみを拾ったり雑草を抜いたりしているのだから、覚えている。


 なのに………………。


 ここはどこだろう?


 腰をさすりながら起き上がった千春は、目の前の光景に目を剥いた。


 輝く花々が大地を飾り、半分透けたような蝶が舞う。


 空はやはり漆を流したような闇だというのに。


 ただし、花にも蝶にも、色はない。


 茎も葉もはなびらさえも白い花はそれ自体が発光し、蝶はその光を浴びて透けている。


 現実のこととは思われず、千春は思いっきり自分の頬を抓り、あまりの痛さにその場で硬直した。


「っ…てぇ………」


 その時だった。


 喉の奥で噛み殺し損ねたような笑い声が耳を打った。


「誰だっ」


 ばっと振り返った千春は、そこに見知らぬ若者を見出した。


 白銀と漆を背景に、いっそ鮮やかな紫紺のきもの。細かな金糸の刺繍が蛇のうろこを彷彿とする。


 一見して千春よりも五歳くらいは年長だろうか。すらりと様子のいい青年だった。


「それは、私のことばですよ。ここは私の庭。私にとっては、君のほうが、侵入者なのですから」


 ひとを嘲るような、なのにあくまでも玲瓏と耳に心地好く響く声だった。


 自分に向けられるまなざしが、青年がひとではないのだと千春に教える。


 青年のまなざしは、灼熱に溶けた黄金色だ。


 ぞわりと、千春の背筋が鳥肌立つ。


 それは、得体の知れない存在に対する本能的な恐怖だったろう。


 近づいて来る青年の動きは、すべるようになめらかだ。


 距離が縮まるにつれてどうしようもない不安が襲いかかってくる。


 逃げなければ。


 けれど、どこへ?


 空気の密度が増す。


 青年の顔が、すぐそこにあった。


 魔性の証の、金色の瞳。


 そうして、それが、千春を間近から見下ろしている。


 非人間的な光を宿して。


 それが、ふと、揺れた。


「おや。君は……」


 どこか人間臭い響きを宿した声に、千春が我を取り戻す。


「な、なんだよっ」


「…君が、ですか」


 独り納得してつぶやくことばは、何を言っているのかわからないだけに腹が立つ。


「だから、なんなんだよっ」


「さすがにと言うべきでしょうか。いい性格をしているようですね」


 ついと流れるように流麗な軌跡を描き、白い手が千春の顎を捕らえた。


 ひんやりと冷たいその感触に、ぎくりと全身が強ばりつく。


 反対側の手の甲で頬を数度撫でられて、千春の瞳がこぼれ落ちんばかりに瞠らかれた。


「君のことは知っていますよ…千春」


 名を呼ばれ、千春の全身が爆ぜるように小さく震えた。


「そう、きよみ桜の養い子でしたね」


(あの忌々しい…ね)


 青年はちろりと、赤すぎる舌でくちびるを湿らせた。


 そのぞくりと背筋が痺れるような、異質な美。


 魅入られたものの悲しさで、千春はそこから視線を離せない。


 そんな千春の全身をじっくりと観察し、


(養い子を誘惑すれば、あの取り澄ましたきよみ桜はどうするでしょうね)


 青年は内心で独り語ちた。


 数千年の昔、自分の封印のために植えられたきよみ桜。もちろん自分に直接手を下した人間は、封印される直前に殺した。それは当然の結末というものだ。しかし、きよみ桜には手を下すことができない。封印した人間は、自分がきよみ桜に手を出せないように、巧妙な手を用いた。


 きよみ桜を自分の手で枯らせば、封印は解けるものの自分もまたただではすまない。消滅するだろう。封印を解いて自分が消滅するのでは、意味がない。きよみ桜に何かがあれば、その時は自分にも影響が現われる。すくなくとも、きよみ桜に寿命が訪れるまで、自分が解放されることは、ない。


 そう。ないのだ。


 忌々しい存在を、自分の手で守らなければならない屈辱。


 これ以上の屈辱など、そうはないだろう。


 きよみ桜がこの少年を大切に思っていることなど、知っている。それこそ、死に瀕していた赤子を夜気の厳しさから守ったくらいに。しかしまた、大切に思っているからこそ、自分のものにはできないでいるということもまた、知っていた。


 桜の精が人の子を自分のものにすると言うことは、人の子の命を奪うということに他ならない。桜の精にとっては、愛しいものを養分に美しい花を咲かせるということこそが恋の成就なのだ。


 きよみ桜の嘆きを想像する。


 数千才になるというのに初々しいばかりに美しい桜花の精。愛しいものを奪われた後、どのような嘆きを見せるのか。


 クスクスと楽しそうな笑いをこぼし、千春の喰いしばったくちびるを掠め取る。


 驚愕に硬直した千春の背中に、青年の腕がするりと回された。


 きつい、抱擁。


 驚いた千春が青年の背中を叩く。


 数度繰り返すたびに、しかし、逆にきつく拘束され、口腔に舌の侵入を許すこととなった。






 ひんやりと冷たい、青年のすべて。


 気がつけば、輝く花々が褥だった。


 月も星もない、漆で塗り込めたような空。


 動いているのは、透明な、蝶だけ。

気怠いからだ。

心臓が一度脈打つたびに疼く、痛み。


 なにが起きたのか理解するまでに、あとしばらくの時間が必要だった。



 洗顔の後、浴室の鏡に映った自分の首筋を見て、千春は自分の目を疑った。


 赤いはなびらのような、くちづけの痕。


 まさかと思い、夜着の襟首をくつろげギョッと固まる。


 胸のいたるところに、おなじような痕がいくつも散っていた。


『私の名は白銀しろがねだよ千春。覚えておいで………』


 ぞわりと背筋をかけあがった悪寒に、襟を掻き合わせた。


 あわてて自分の部屋に駆け込む千春だった。


 昨夜の出来事。


 微妙な感触は残っていたが、夢だとばかり思っていた。しかし、もう夢だと片づけることはできない。


 白銀の感触が酷く生々しくよみがえる。


 くちびるに落とされた、白銀のくちびる。


 どうして抵抗しなかったのだろう。


 しようと思えば、できたはずなのに。


 ぬめる舌の感触さえ冷ややかで。なのに、確実に千春のからだに快感の種を植えつけた。


 そう。


 何もわからなくなるくらいに翻弄されるだけされて……。


 抗うことなど、できるはずがなかったのだ。


 千春は両手でくちびるを覆った。


 首筋に、裸の胸に、全身のいたるところに記された、白銀の刻印。


 冷ややかな白銀のくちびるに、全身が燃えるように熱くなった。


 よみがえった感触に、現実の千春のからだまでもが熱をはらんだ。


(あ…っ……)


 それだけで敏感になった全身がぞくりと震える。


 何もしないでおさめることなどできないほどの、壮絶な快感の波。


 何もしてはいないのに、ビクビクと全身が痙攣する。


(だれか…助け………あっ…しろが・ねっ……………)


 その時だった、


「千春くん。ちょっといいかな」


 障子の外から伊集院の声がかかったのは。


 冷水を頭からかけられたように、全身が大きく跳ねる。


「ま・まって…」


 一瞬にして現実に立ち返った千春は、わたわたと周囲を見渡す。


 とりあえず息が荒いのを何とかしようと、深呼吸を繰り返した。


「ごめん。で、何の用?」


 部屋の隅の万年床に目をやりながら、


「いつまでも寝てると、目玉が融けてしまいますよ」


「わざわざイヤミを言いにきたのか」


 そう言って伊集院を見上げた千春の目元は桜色に染まっている。そうして、潤んだ瞳に、ドキリと伊集院の心臓が跳ねる。


「…そういうわけでは。さすがに退屈なものですからね。森の桜は神主さんよりも君のほうが詳しいとか。散歩ついでに教えていただけませんか」


「じいさまがそう言うんならしょうがない。特別に解説してあげるよ。仕事着に着替えるから、ちょっと待ってて」


 襖一枚を隔てた奥の部屋から出てきた千春の姿に、刹那伊集院は見惚れた。


 白い着物に、水色の袴。


 そうした姿で立っている千春からは、いつものぬぼーとしたようすが拭われて二割り増し格好よく見える。


 おもわず伊集院が見惚れるくらいには………だ。


「どしたの伊集院さん。ぼんやりして。傷が痛む?」


「いえ。そう言うわけではありません」


「そう? 変なの。じゃあさ、とっとと行こう」


 そう言うと、千春は縁下駄をつっかけた。


「ほら、支えたげるよ」


 縁側から下りようとする伊集院に両手を差し出す。


「これは、助かります」


 噂では、腹を仕込み杖で薙ぎ払われたということである。


 まだどことなく青白い伊集院の顔は、端正な容貌であることもあって、弱々しい。


 これで本当に警官なんて激務を勤めていたのだろうかと思うくらいである。


(ま、大きなお世話ってとこだよな)


 ゆっくりとした歩調で、ふたりは桜の森を進んだ。


 さわさわと、枝垂れた枝が微風に揺れる。


「ほら。これが、きよみ桜。姫神さまの宿る、霊木だよ。その昔、この辺の村は龍神さんに支配されてたんだってさ。悪い龍神さん。たくさんのひとが死んだんだ。で、ね、誰か、なんてひとなのかわからないんだけど、龍神さんを封印したんだ。このきよみ桜を植えてね。それからず~っと後になって、この神社ができたんだって」


「昨日、君はぺちぺちと叩いてたみたいですが」


「ちぇっ。見てたのかよ。じいさまには内緒。でもさ、あれくらい、挨拶のうちだよ。な、きよみちゃん」


 抱きついて見上げる千春に答えるように、きよみ桜の枝がさわりと揺れた。


「君はきよみ桜に愛されているようですね」


「そう思う?」


「ええ」


「オレも大好きだよ」


 そのことばに、きよみ桜が身を捩じらせたような錯覚が起きる。


「うわっ」


と、ほぼ同時に、突風が吹いた。


 きよみ桜の枝がもぎ取られそうになるほどの、強い風だった。


 風はしばらくの間荒れ狂い、そうしてぴたりと止んだ。


「青嵐でしょうか」


 乱れた髪を手櫛で直しながら、伊集院が独り語ちる。


 春先に吹く強い風。


 ふと見やれば、咲き初める花に霞む遠い山々の上空が、黒々とした雲におおわれている。


「千春くん。もどらなければ。雨がきそうですよ」


 ほら、と、伊集院が指し示す。


「ほんとだ」


 じゃあなと、きよみ桜に手を振って、千春は伊集院とともに踵を返した。








 障子越しのやわらかな春の陽射し。


 しかし、陽光も千春が眠っている部屋の隅までは届かない。


「千春。起きなさい」


 九時になろうとしていた。


 いつまで経っても起きてこない孫に、いつもは甘い祖父である神主も、さすがに業を煮やしたらしい。


「いくら春だからといって、ちょっとたるみすぎだ」


 そう言うと八十過ぎとは思えない膂力で、エイヤとばかりに布団を引き剥いだ。


 花冷えの空気の中にさらされたのは、枕を抱え込みほぼうつ伏せという、あいかわらずの寝相の悪さである。


 思わず弛みかけた頬を引き締め、


「起きないと朝食は抜きだぞ。いいのか」


 それでも目覚めない孫に、さすがに不安を覚え、しゃがみこむ。


「千春?」


 そっと手を伸ばし、首に頬に貼りついている髪を掻きあげてやる。


 汗ばんでいる。


 意識してわかるくらいの、呼気の荒さ。


 そういえば、と、思い当たるフシのある神主だった。


 ここ何日か、だるそうにしている孫の姿を見かけた。


 声をかけようとして、桜祭りの準備に多忙な神主は、掛けそびれていたのだ。


 それに、食事時に顔を合わせる千春は、元気そうにいつもと変わらない量の食事をたいらげていた。


 だから、さして大事ではないのだと、見過ごしていたのだ。


(じいが悪かった。すまない)


 そうして布団を千春にかけなおして踵を返した時、


「じいさま…」


 かすれた声。


 のそりと上半身を起こした。


 その気怠そうなようすに、ドキリと心臓が跳ねる。それに名を与えるなら、不安。血の繋がりがないとはいえ、これまで大切に慈しみ育ててきた孫。千春のどんな姿も、知っていると思っていた。そう。それは、内面にまでおよんでいると。それが、一瞬にして覆されたような、そんな、不安だった。


 愛しい孫が、まるで見知らぬ他人に見えたのだ。


「熱があるじゃないか。今日のおつとめは休みなさい。じいが先生を呼んでこよう」


 そう言って部屋から出ようとした神主は、もう一度孫を見下ろした。


 千春が袴のすそを握っていたのだ。


「いい。じいさま。医者は要らない。寝てればこんなのすぐに治るから」


 そう言う孫のようすは、ただごとではない。


 医者を呼んでこようと決意を新たにせずにはいられなくなるくらいには。


 孫の頼みとはいえ、これは、聞けないたぐいの頼みだった。しかし、そんな祖父の心のうちを読んだように、


「じいさま特製のたまご酒が飲みたいな。あれを飲んで寝てれば大丈夫だってば。お願い」


 そう、両手を合わせて拝み倒す。


「そうか。よしよしそれくらいおやすい御用だ。待っておいで、すぐに作ってきてやろうから」


 部屋から出てゆく祖父の背中を見送り、千春は「ほぅ」と、安堵の溜息をついた。


 医者にからだを見られてはたまらない。


 からだのあちこちには、それと一目でわかるだろう痣が散っているのだ。


 最初の夜から二週間。すでにそれだけの夜を、白銀との逢瀬に費やしている。


 夜になれば、白銀の眷族が訪れる。初老の男性の姿に化身した、白銀に仕える存在が。


 彼に導かれ、気がつけば白銀のいる空間に迎え入れられている。


 色のない花が白銀に輝き、半ば透けた蝶が舞う、しじまの闇に鎖された空間に。


 そうして。


 抗いきれない。


 白銀の毒は蠱惑をはらんで、苦く甘い。


 細くしなやかなからだつきからは想像もできない力強さで、抱き込まれ、抱かれる。


 その、不思議な、安心感。


 もう、きよみ桜からは、得られない。


 なぜだろう。


 白銀は、人を見下しているようすを隠しもしない異形の存在なのに。


 『愛していますよ』とささやくそのことばには、裏があるのだとわかっていたのに。


 行き着く先には、成就などありえないのだと知っていたというのに。


 なのに………………。


 魅せられ惑わされ、そうして愛してしまったのだ。


 人ではない、存在を。


「しろがね……」


 こみあげてくる熱が、涙へと変わる。


 たった二週間で変えられてしまった、からだ。そうして、心。


 どんなに酷い仕打ちを受けても、白銀を求めてしまう。


 どうすればいいのかわからないくらい。


 千春は、もう気づいている。


 白銀が、かつて封印された龍神なのだと。


 白銀が自分を抱く理由も、彼が龍神なのだと気づいた時わかってしまった。


 白銀の思惑は、成功している。


 彼を封印しているきよみ桜への意趣返し。


 成功しているのだ。


 自分は、もう、きよみ桜ではダメなのだ。


 あのやさしくあたたかい存在では………。


 だから………。


「馬鹿みたいだ…オレ」


 昨夜、


『君には楽しませてもらいましたよ。千春。でも、もう充分です。もう、来る必要はありません』


 残酷なやさしい口調で、逢瀬の終わりを告げられた。


 一方的に、このうえなくやさしい響きの声で。


 捨てられたのだ。


 あの、きれいで冷たくて残酷な存在ならば、自分の痛みなど気にもかけずに捨てることも容易だろう。


 事実、捨てられたのだ。


 捨てられた。


 たった二週間の、夜の逢瀬。たったそれだけの時を共に過ごしただけ。なのに、喪失感は恐ろしいくらいだった。


 まるで、からだの半分をなくしてしまったような、そんな………。


 もう、逢うこともできない。


 彼の世界、闇に鎖されたしじまの空間に、もう、受け入れられることはないのだ。


 涙はとまらない。


 泣き腫らして真っ赤な瞳。


 ヒリヒリとする目で、ぼんやりと千春は伊集院を見上げた。


「本当にもういいんですか?」


 心配そうな伊集院の表情に、


「昨日一日寝たんだし。だいじょーぶだって。これは、じいさまの命令なんだ。医者を呼ぶのがイヤなんだったら今日一日おとなしく布団にもぐってろって。熱はもうひいてんだよ。意外と心配性なんだな伊集院さんって」


「意外とは何です。意外とは」


「だってさ、伊集院さんってば人のこと心配するようには見えなかったんだもん」


 クスクスと笑いながら、千春が返す。


「失礼な少年ですね」


 そう言う伊集院の口調ほど怒ってはいないのが、やわらかなまなざしから感じられる。


「ごめんなさい、失言でした」


 伊集院自身、怪我人だというのにわざわざ見舞いにきてくれたのだ。たとえ、退屈でしようがないというのがその理由だとしても。


 見た目の冷ややかさとは違う伊集院のやさしい思いやりに触れることができて。だから、素直に謝ることができた。けれど同時に、涙がこみあげてくる。


(うわっ。醜態だ………)


 泣き顔を人前に晒したいはずがない。真っ赤になり焦るが、涙はとまらない。気づかれないようにと必死で目を大きく瞠ら気、乾かそうとするが、そんなことでとまる程度の涙ではなかった。


(昨日あんなに泣いたのに)


「千春くん? きつく言い過ぎましたか」


(気づかれた……)


 努力が水泡に帰したことで、一気に脱力した千春の耳に、狼狽した伊集院のことばがやさしい。


「ちがう。ごめん。伊集院さん。変なんだオレ」


 思い出すのは、白銀だった。


『少しきつかったみたいですね』


 クスクスと楽しげに笑いながら、それでも、泣き疲れるくらい涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭ってくれた。気性の激しさを物語るような行為でさんざん泣かされた後の、なんでもないようなことが強く印象に残っている。






 水鏡の中、千春がほほえむ。


 七分咲きの桜の森の中。


 きよみ桜の根方に背もたれて。


 千春が笑みを向ける相手は、遠方からの滞在客だとかいう男だった。


 自分以外にあの顔を見せるだなどと。


 白銀の心が、ささくれだつ。


 知らず握りしめていた手が、自らの爪で傷ついた。掌ににじむ青い血は人ならざるものの証である。


 どんなに酷くあつかっても、千春のまなざしは自分の行為を許していた。


 それが苛立たしくて、なおも酷くあつかった。


 そうして、いつしか、最初の思惑を忘れている自分がいた。


 きよみ桜の愛し子を奪い、あの忌々しい存在の嘆きを見ること。それが、目的だったはずだ。


 なのに気がつけば、あの外界の匂いのする少年を、愛している自分がいた。


 だから、捨てたのだ。


 最初の目的は、果たしたのだから。


 もう充分だ。


 自分にそう言い聞かせて。


 人の子を捕らえたつもりでいて、その実、自分が囚われていた。


 本末転倒である。


(そんなほほえみを私以外に見せるだなんて、許せませんね)


 捨てたのは自分なのに。


(しかも、きよみ桜の根元で………)


(君は、私のもの。違いますか?)


(たとえ、私が君を捨てても、君が私から離れることを許した覚えはありませんよ)


 身勝手な自分を充分に意識しながら、白銀は水鏡に自分の血を落とした。


 青い血が、ゆるゆると水面に模様を描いてゆく。


 空が翳った。


 吹き荒ぶ風に花びらが散らされてゆく。


 きよみ桜が、あまたある桜の木々が、悲鳴をあげて身を捩る。


 突然の暴風に、千春はからだを飛ばされかけ、伊集院は地面に伏せた。


「千春くん。伏せなさい」


「わ、わかってる」


 きよみ桜に抱きついて伊集院に向かって答える声も、頼りない。

風は、まるで意志を持っているかのように千春に向かって吹き荒れる。


「い、いたっ」


 砂の粒が、鞭のように絶え間なく千春を、きよみ桜を、打ちすえる。


 伊集院は千春に近寄ることも人を呼ぶこともできず、信じられない光景を見ているよりなかった。


 千春が気を失い、地面に頽おれる。そうしてようやく、千春ときよみ桜を中心に吹き荒れていた風は、ぴたりと止んだ。


「千春くん」


 伊集院が駆け寄り抱き上げようとして、傷の痛みに、かすかにうめいた。


 千春は細かな砂にまみれていた。着物から剥き出している肌のあちこちには、砂粒がぶつかった痕が痛々しく腫れている。砂を払い落としながら、他に大きな傷はないかとあらためていた伊集院は、薄らいではいるもののそれと知れる痣が千春の皮膚のあちこちに散っているのに気づいた。


 思わず、動きがとまる。


 信じられなかったのだ。


 田舎の村だから、まだ、夜這いの風習は残っているだろう。それでも、千春とその風習とは重ならない。それに、こんなにからだのあちこちに痣をつけるなど、女性にできることでは、ない。他人の趣味嗜好にケチをつけるつもりは微塵もない。しかし、信じられないと思うよりもより強く、信じたくないと思っている自分がいることを伊集院は強く感じていた。


「千春くん」


 おかしな気分にならないうちにと、千春の頬を軽くペチペチと叩く伊集院だった。




 深夜である。


 眠れない。


 布団の中で右に左にと、向きを変えては溜息をつく。


 欠けはじめた月は、障子越しでも晧々と明るい。


 青白い輝きは、あの庭を思い出させるのに充分で。


 思い出さないようにと思いながらも、逆に思い出してしまうのだ。


(白銀……)


 思い出してしまった面影を打ち消すように、頭から布団をかぶる千春である。


 そうしていると、ヒリヒリとした痛みがよみがえる。痛みは、昼間の風の暴行の名残りだった。


 もしかして…と、思わないではなかったが、


(まさか………な)


と、打ち消す。


(寝とかないと、じいさまがまた心配する)


 この間のように心配をかけるのは、辛くて。


(羊を数えれば眠れるって伊集院さんが言ってたっけ。…ひつじが一匹ひつじが二匹………)


 とりあえず、数えてみる。


(……ひつじが三千九百ととんで二…………ひつじが三千九百ととんで三ひつじが三千)


 瞼越しの月光が、ふっと翳った。


(風が出てきた? もうじき桜祭りなのに散ったりしたらみんながっかりするよな)


 ぼんやりと考えながら、それでもようやく訪れた睡魔を手放したくなくて、眉間に皺を寄せる。


 ふっと、冷ややかなものを眉間に感じた気がした。


 数度。


 蝶がとまったような軽い感触が度重なると煩わしくて、手で払おうとした。


 そうして。


 ぎょっと、千春は飛び起きた。


 手を掴まれたのだ。


 ひんやりとした乾いた感触。


 目と鼻の先に、あるもの。


 それを信じることができず、千春は数度しばたいた。


「しろがね………?」


 刹那、パンッと、頬が鳴った。


 軽い痛みが頬に弾けた。


 灼熱に融けた、黄金色のまなざし。


「他の誰だと思ったのです?」


 白銀のことばには、紛れもない苛立ちがあった。


「あの男、ですか?」


「そ、そんな、ことっ」


 ふるふると頭を振る。が、ふと思い返す。


「オ、オレの勝手じゃないかっ! オレのこと捨てたくせに、今更っ」


 プイッと顔を背ける千春に、白銀の秀麗な眉間に深い皺が刻まれる。しかしそのくちびるから出たのは、いっそやさしいまでに甘やかな響きだった。


「今更? 君はなにか勘違いしているようですね。君は今も、私のものなのですよ」


 白銀の顔が近づいて来る。


 なにを言っているのかわからなかった。


 白銀の胸に手を突っ張って、


「何でだよっ。あんた、あんたが言ったんじゃないか。もういいって。もう来なくてもいいって!!」


「それで? それを信じたのですか。君は」


 クスクスと笑う。


「いい子ですね。君は。……そう。私が来なくてもいいと言ったから、ですか」


「だって。だって、あんた、オレのこと呼ばなかったじゃないかっ! いつもだったら、コオさんが来るのに。コオさんが来てくれないと、オレわかんないよ。どうやってあんたのとこに行けるんだよ」


「来たいと、逢いたいと思ってくれればよかったのに。そうすれば、君は私のところへ来ることができましたよ」


「うそだっ。そんなこと。そんなこと、ずっと思ってた。思ってたのに、行けなかったじゃないかっ! 嘘つき。白銀の嘘つきっ」


「だまりなさい………」


 耳元でささやく白銀の声がねっとりと甘く、千春を呪縛する。


 近づいて来る、顔。


 限界だった。


 白銀がいる。


 それだけで、からだが甘く痺れるのだ。


 千春は吐息すら絡め取られて、身じろぎすることもできなかった。


 うっとりと、瞼を閉じ白銀のくちびるをうけとめる。


「あ…っ」


 離れてゆく白銀に、甘い鳴き声をあげて抱きついたのは千春だった。


「焦らないで」


 笑いのにじむ口調に、かっと全身が赤く染まる。


「私の庭に行きましょう」


(ここでは、ちょっと不都合がありますからね)


 もちろん、この白銀は現実ではない。白銀の本体は、しじまの空間にある。


「来ますね?」


 うるむ千春の褐色のまなざしを覗き込み、白銀が返事を迫る。


 祖父の老いた顔が、満開のきよみ桜が、脳裏を過ぎる。


 快感にとろけかけた千春の脳はそれでも正常な機能を果たし、白銀のことばの奥にある真意を正確に読み取っていた。


 ここで、白銀の言葉を受け入れれば、自分はもはやもどって来ることはないのだと。


「来ないのですか?」


「だ、って、じいさまを、独りに、できない………」


 かすれる声で、千春はどうにかことばをつむいだ。


「私より、あの老人のほうを選ぶ、と、言うのですね」


 金の瞳が、遠く近く揺れる。


「だって………」


 そう。最後の最後で白銀を選ぶことができないのは、白銀が自分を愛しているのかどうなのか確信がもてないからだ。


 千春の瞳の中、躊躇する原因を読み解いた白銀は、


「言っていませんでしたね。千春、私は、君のことを、愛していますよ。心の底から………………」


 千春のひとみが爆ぜる。


 嘘だと思った。


 いつだって、白銀は余裕で自分を翻弄した。


 自分をおもちゃのように扱って、そうして。


「嘘だと思いますか?」


 迫る白銀のまなざし。


 その奥に、白銀の真実を見た気がした。


 だから千春は、すべてを捨てる決意をした。


 千春は、白銀の言葉にうなづいたのだ。



刹那


きよみ桜が悲鳴をあげた。


 きよみ桜に応えるように、桜の森全体がざわりと揺れる。






 翌朝、いつまでも起きてこない孫に業を煮やした神主が勢いよく障子を引き開けた。


 しかし、部屋に千春の姿はない。


 しんと冷えた布団が、射しこむ朝日の中で妙に白々と浮かんで見えるだけだった。






 村人総出で千春の捜索が行われた。しかし、誰一人として千春を見つけることはできなかった。







 深い桜の森の奥から、独りの少年が姿を消した。


 桜の闇の奥深くへと。


 その真相を知るのは、きよみ桜と桜の森だけだった。



 10年ほど前に書いた話に手を入れてみました。

 体言止めが多めで、“……”の使用も多め。あまつさえ句点も多めというていたらくです。

 時代物ではありますが、平易な文を心がけるということで現代風の台詞と一般的に使用されているだろうカタカナはそのまま使用しております。

 少しでも楽しんで頂けると嬉しいです。

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