48話 怒りと悲しみ
アダムが遺跡の調査を終えてルーシーの屋敷へ戻って来たとき、そこにレジーナの姿や気配はなかった。
しかし彼女にあてがわれていた部屋には、大きなケースや荷物が置いてあり、どこかに出かけている様子は見られない。
アダムはベットサイドの台の上にある、鍵の2つ付いたネックレスを無言で手に取った。
そのままベットに座って鍵を眺めていると、足音と共に部屋の扉が開く。
ひょっこり現れた赤毛の彼女は、アダムを見るなり満面の笑みを浮かべた。
「おかえりなさい、アダム。
調査はどうだったの?」
「もう終わった」
「そう、お疲れ様」
目の前へやって来てにっこりと笑うルーシー。
アダムはすぐに鍵を仕舞ってから、少し間を置いて尋ねる。
「メーデンはどこへ行った」
「それが・・・2日前くらいに散歩に行くって言ったきり帰ってこないの」
「2日、前・・・」
アダムの眉間に深い皺が刻まれる。
心配そうな表情のルーシーは、すぐに明るい笑顔に戻って言う。
「でもね、裏の森を調べたいって言ってたからすぐに戻ってくると思うわ。
きっと大丈夫よ」
「そうか」
「それよりもアダム、後どれくらいこっちに居られるの?」
ルーシーは膝をつくとアダムの手を取って顔を遠慮気味に覗き込む。
じいっと瞳を見つめたまま、懇願するような声色で訊ねた。
「そうだな・・・、特に決めてない」
「本当!?」
ぱぁっと顔を華やかにして微笑むルーシー。
アダムの口調もどこか柔らかくて優しい。
「私ね、アダムと一緒に行きたいところがあるの!
お食事も一緒にしましょうね!
アダムの好きな食べ物、たくさん用意してあげる!
ね?付き合ってくれるでしょう?」
「ああ」
ルーシーはうるうると瞳を涙で一杯にしてアダムに抱きついた。
こんな風に一緒にいられるのは何年ぶりだろうか。
しかも、この間のようにアダムは視線を反らしたりしない。抱き締めても嫌そうな素振りを見せない。
優しいアダム、賢いアダム、大好きなアダム。
後はあの女のことさえ忘れてくれたらと、ルーシーは考えずにはいられなかった。
忘れさせてみせる。
意気込んだルーシーは抱き締めたアダムの体温を感じながらゆっくりと口を開いた。
「私・・・寂しかったのよ?
たくさんお手紙書いて、ずっとずっと帰ってきてくれるのを待ってたのに・・・」
「カーマルゲートは外部との手紙のやり取りは禁止だ。
もちろん外出もできない」
え、とルーシーは顔を上げて目を丸くする。
ずっとアダムは帰って来てくれないのだと思っていた。
しかし本当は帰って来れなかっただけなのかもしれないと、ルーシーの心の中に小さな希望が生まれる。
「・・・もし、外に出られる機会があったら、アダムは私に会いに来てくれた?」
「来てるじゃないか。
今、お前に」
「アダム・・・!」
「カーマルゲートに戻るまでまだ時間がある。
好きにすればいい」
「うん・・・うんっ」
ルーシーはぎゅうぎゅうとアダムを抱きしめて、嬉し泣きをしながら何度も何度も頷いた。
「ねえ、アダム。
今日はお外で一緒に・・・」
朝食を食べた後、窓から春の暖かい風と日差しを受けた部屋で、ルーシーはアダムの腕に抱きついて顔を覗き込む。
しかしやんわりとアダムがルーシーを引き剥がし、彼女は困惑して口を噤んだ。
「アダム・・・?
どうしたの?」
「・・・メーデンが、戻らない」
ルーシーは焦る本心を押し隠し、心配そうな表情を作った。
「ええ、もう1週間になるわね・・。
どこかで魔物にでも襲われてなければいいけど・・・」
「・・・そうだな」
ルーシーはどこか遠くを見て物思いに耽るアダムを見て眉間にしわを作る。
腕ではなく正面からアダムに抱きついたルーシー。
アダムの手が優しく彼女の細い肩の上に置かれた。
「・・・ねえ、アダム。
今は私と貴方の2人きりなのよ?
メーデンのことじゃなくて、私のことだけを考えてて?」
甘ったるい声でお願いするルーシーだが、やはりアダムの態度はどこか心ここに在らず。
それが悔しくなってアダムの腰に回した腕に力を込めた。
「・・・ルーシー。
本当にメーデンの居場所を知らないのか?」
「当たり前でしょう?
どうしてそんなにあの人のことを気遣うの?
もしかして・・・」
嫌な思考が脳内を過り、緑色の瞳いっぱいに水を溜めてアダムの目を見つめる。
「もしかして、あの女のため?
私とずっと一緒に居てくれたのも、我儘に付き合ってくれたのも、優しくしてくれたのも、あの女のためなの?
私がメーデンの居場所を知ってると思って?」
「違う」
アダムはきっぱりと否定した。
レジーナよりも身長の低いルーシーを見下ろして、涙がボロボロ零れる頬にそっと手を伸ばす。
そしてアダムは言い辛そうに口を開いた。
「実は・・・」
「・・・なあに?アダム」
「実は、メーデンに大切な物を奪われていたんだが、その大切な物があの荷物の中に無かったんだ。
後は本人が持っているとしか考えられない」
ルーシーは考えた。
アダムがあの女のことを気にするのは大切な物を取り返したいからならば、脅されてあの女の相手をしていたのかもしれない。
アダムの言う大切な物を使って、彼を言いなりにさせていたのかも・・・・、と。
「可哀そうなアダム・・・。
ずっと、辛かったのね」
「・・・だから、どうしても取り返したい。
協力してくれるな、ルーシー」
「ええ、もちろんよ」
貴方のためならなんでもするわ、とルーシーは微笑む。
「だったら、メーデンを探して欲しい」
「・・・・それは本当に、自分のため?
あの女のためじゃなくて・・・大切な物を取り返すためなの?」
「当然だ」
「あの女より私の方が大事?」
「当たり前だろう。
何年一緒に居ると思ってるんだ。
好きでもない人と一緒に居るわけがないだろう?」
ルーシーは期待と喜びに胸を躍らせ、頬を赤くして俯いた。
うるさい心臓の上に自分の手を置きながら、上目遣いでアダムを見る。
「じゃ、じゃあ、証拠を頂戴。
証拠をくれたら―――――何処に居るのか教えてあげるから」
「証拠?」
ルーシーがレジーナの居場所を知っているという事実よりも、証拠という言葉を気にするアダムにルーシーは胸を撫で下ろして頷いた。
「そうよ。
私のことが好きだという証拠に・・・・私を抱いて欲しいの」
ルーシーは勢いで言ってみたものの、恥ずかしさのあまり真っ赤になって目を瞑った。
アダムの眉間に僅かな皺が生まれる。
「ルーシー、一刻を争うんだ」
「じゃあキスでもいい。
お願いっ」
アダムの服を裾を掴んで懇願するルーシー。
アダムは彼女に分からない程度にため息を吐き、自分を見上げてくるルーシーの唇に自分のそれを押し当てた。
既に日は傾き始めている。
個人所有の庭にはなかなか見られないほど大きな泉を、アダムとルーシーは手を繋いだまま眺めた。
「落ちたのか?」
「ええ。
でもこの泉には人魚が居るから、もう助からないと思う」
人肉を何よりも好物とする人魚は、水に誘われてやってくる人間を食らう。
よって人魚の存在するこの泉に落ちたレジーナは、当然食べられてしまっていると考えるのが妥当であった。
「・・・ごめんなさい。
私、メーデンがこの泉に落ちるのを見たの。
だけど怖くて、言いだせなくて・・・」
ルーシーはアダムの顔色をちらりと窺う。
「大切な物も、きっとこの泉を調べたらわかると思うわ。
大丈夫、ちゃんとした業者の人たちを呼んで、水を抜けば・・・アダム?」
手を振り払い泉に無言で近づいて行くアダムに、ルーシーは真っ青になって大声を出した。
「待って、アダム!
近づいたら危ないわ!」
しかしアダムは制止の声を無視してとうとう泉の中へ飛び込んだ。
大きな水音を立てて水面下へ消えて行ったアダムに、ルーシーは唖然としてその場に座り込んでしまう。
助けを求めて辺りを見回したが誰もおらず、ショックのあまり言葉が出ない。
―――――何故アダムは泉の中へ?
―――――そんなに大切な物だった?
―――――それともあの女のために?
パニック状態のルーシーは頭の中を混乱させ、どんどん嫌な方へと思考が及んでゆく。
―――――もしアダムが人魚に食われてしまったら、私の所為だ
―――――アダムが死んでしまったらどうしよう
助けに行かなければと思うのに、身体が震えて動かない。
―――――嫌だ、死にたくない、死にたくない
―――――ごめんなさい、アダム
ルーシーはただ泣き崩れた。
何もできない自分を、そばに居ないアダムを思って泣いた。
しかしアダムが泉へ入ってから間もなく、再び大きな水音を立ててアダムが現れる。
目を丸くして驚くルーシーに構うことなく、アダムは地面へ這い上がると脇に抱えていたレジーナも乾いた地面へと上げた。
全身水濡れのアダムとレジーナの身体や髪からポタポタと落ちる水滴。
アダムはレジーナを横抱きにすると、閉じられたままの彼女の瞳を見つめて頬を軽く叩いた。
「レジーナ・・・レジーナ」
名前を呼ぶアダムの声はどこか甘い響きを孕んで。
1週間も泉の底に沈んでいたレジーナが生きているとは到底考えら得ないのに、アダムの声色に切迫感はなく、またレジーナの顔色も決して悪くはない。
そして何度も名を呼び続けるアダムの祈りが通じたのか、ゆっくりとレジーナの紫色の瞳が現れた。
レジーナの目はぼんやりとした景色から焦点が合い始めて、徐々にアダムの姿をくっきりと捉える。
「いやあああああああああ!!化け物!!化け物ーー!!」
ルーシーは金切り声をあげた。
死んだはずのレジーナが生き返った。死人が生き返るなどあり得ないのに。
水中でも生きていたのか、それとも死んだのに今生き返ったのかはわからないが、どちらにしろ普通の人間じゃない。
―――――おぞましい“化け物”なのだ。
半狂乱になるルーシー。
しかしアダムとレジーナの世界にルーシーは存在しなかった。
久しく会えた喜びに、無事だったという歓喜に、ただお互いを求めて本能のままに動いた。
きつく抱き合って唇を合わせ、身体を弄る。
舌も、胸も、腰も、腕も、足も、絡みあうように交わって、一部の隙間もないほどに重なり合って。
そして首筋にアダムが頭を埋める中、レジーナの黄色く変色した瞳がギョロリとルーシーの姿を映した。
「ひいいいいいいいっ!!」
蛇に睨まれた蛙のように、レジーナに睨まれたルーシーは恐怖におののき身体が動かない。
レジーナはそっとアダムの腕から抜け出すと、立ち上がってゆっくりとルーシーの方へ歩き始めた。
アダムがじっと見守る中、レジーナは妖しくにっこりと笑う。
「久しぶりね、ルーシー」
「メ、メ、メーデ・・・っ」
口は三日月を描いているに目は怒りを露わにしている。
「よくも私を・・・」
レジーナの振りかざした腕は一瞬のうちにルーシーの柔肌を貫き、周辺に赤黒い血や肉片が飛び散った。
目を見開いたまま事切れた彼女の口からも血が滴り、レジーナは死体を掴むと再び腕を振りかぶる。
何度も何度も何度も何度も胸や腹を素手で貫き、四肢をもぎ、引っ掻き、殺衝動の赴くままに無抵抗のルーシーを抉る。
まるでその絵は人が鬼に喰われる地獄海図。
レジーナの瞳は狂気に染まり、口角を上げたまま脳内で何度もルーシーを殺した。
やっと落ち着いたのか、ただの肉片と化したソレを投げ捨て、口元から笑みが消えていく。
「レジーナ」
「触らないでよっ!」
血だらけのレジーナに差し出されたアダムの手を、彼女は乱暴に振り払った。
レジーナがアダムを見る目は、今までにないほど冷たく鋭い。
「レジーナ?」
「どうして・・・」
視線を反らし、唇を噛みしめるレジーナ。
アダムと触れ合って視えたものは、アダムとルーシーの唇が重なった、あの場面。
自分がずっと泉の底でアダムを待っている間に、アダムはルーシーと・・・―――――。
「・・・アダム、あの女とキスしたんでしょう?」
「・・・・」
それは無言の肯定。
頭が真っ白になって、怒りで体中の血が煮えたぎって、魔物の本能に従ってルーシーを殺したけれど。
いざ彼女を殺し終えて、レジーナの中に残ったものは怒りと悲しみだった。
愛してくれるのは私だけだと勝手に思い込んでいた。だけど、違った。
裏切られた、悲しい、悔しい、辛い、苦しい。
色々な感情がレジーナの胸の中に渦巻く。
「レジーナ」
「来ないで!!」
近寄ってくるアダムに牙をむき出しにして威嚇するレジーナ。
アダムが歩み寄るのを躊躇すると、レジーナは森の中へ走ってその場を去った。
独り泉のほとりで取り残されたアダム。
ルーシーの悲鳴を聞きつけたのか、ガサガサと草をかき分けてやって来た使用人は、血と肉の飛び散った惨状に悲鳴を上げる。
「ひっ!!な、何事ですか!!」
「うわああ!!死体だ!!」
「アダム様!?これは一体!?」
「・・・・ルーシーが人魚に襲われた」
水に濡れたままアダムはそう言い残し、レジーナが去って行った反対方向へと踵を返した。