45話 グリンディネの聖女
「さあ、どうぞ寛いでね」
にっこりと愛想良く笑った赤毛の女性は紅茶を差し出す。
彼女こそがグリンディネの聖女と呼ばれるルーシー・ハンナバルその人であった。
本当はそう簡単に会える人ではないのだが、カーマルゲートの学生ということで特別に屋敷の中へ入れてもらうことができたレジーナ。
グリンディネの中で群を抜いて大きな存在感を示すハンナバル家の屋敷は、城と呼んでも差し支えのないようなものである。
王城に見慣れたレジーナが驚くことはないが、普通の平民であったらカーペットを踏むだけでも躊躇してしまうだろう。
「貴女、カーマルゲートから来たんですって?」
彼女は確かに美しかった。艶やかな赤い髪、緑がかった青い瞳。
なにより内にある自信が、彼女を一層美しく見せている。
レジーナのような気品でもなく、イーベルのような色気でもなく、ルーシーはどこか純朴とした自然の中にある美しさを持っていた。
「ええ。メーデン・コストナー、7学年です」
「じゃあメーデンって呼ばせてもらうわ。私のことはどうぞルーシー、と。
カーマルゲートならアダム・クラークを知ってるでしょう?
私たち幼馴染なのよ」
そういえばアダムの実家が隣の州にあったな、とレジーナは思いながら頷く。
「友人です。
よく勉強を見てもらってて」
「そう・・・・彼とても世話焼きだものね。
面倒見がいいし、教え方も上手だし。
でも、何かを説明させると彼、口が止まらなくなるのよね。
普段は無口なのに」
「ええ、そういう時はほとんど聞き流してます」
貴族であるのに平民相手でも嫌味な態度を取らず、フレンドリーに接してくる。
実はディーンたちもそうなのだが、貴族の中ではそういった人の方が珍しい。
「ところで、研究で私を訪ねてきたと聞いたのだけど」
「ええ、貴女の人柄が素晴らしいと耳に挟んだものだから、ぜひ勉強させてもらいたいのよ」
嘘をつき慣れているレジーナは、いけしゃあしゃあとそれらしい理由を述べる。
ルーシーは手を合わせて喜んだ。
「あらまあ、嬉しいわ。
もしメーデンさえよかったら、この家に泊まって?
部屋ならいくらでもあるわ」
「有難いけれど、もう宿を取ってあるので」
「じゃあ、私の方から言っておくわ。
荷物も持ってこさせるから」
ルーシーが手を上げると控えていた使用人が頭を下げて部屋から出て行く。
どうやらわざわざ宿まで荷物を取りに行くらしい。
何も言わないうちに何故かここに寝泊まりする流れになり、レジーナは苦笑してお礼を言った。
「ありがとう」
「いいのよ、せっかく知り合ったんだもの、仲良くしたいじゃない?
ここ田舎だし地元の友達が少ないから嬉しいわ。
よろしくね、メーデン」
「こちらこそ」
さすが貴族というべきか、彼女の仕草は完璧だった。
また、態度もどこか作り物めいた完璧さを有している。
可憐という言葉に相応しいルーシー。
魔力や邪な気配は感じなかったものの、レジーナは不信感を抱いていた。
もしかしたらそれは、彼女がグリンディネの聖女と呼ばれる胡散臭い輩という先入観があったからかもしれないが。
「私もカーマルゲートに入りたかったわ。
でもお父様がお許しにならなくって・・・」
「それは残念ね」
「ええ。
せっかく猛勉強したのに。
やっぱり学校は楽しいでしょう?」
「もちろんよ、友達と一緒に居る時間は特にね」
「でしょうね」
羨ましい、とため息を吐くルーシーに、近づいてきた使用人が耳打ちすると彼女は立ち上がった。
少しだけ頭を下げて申し訳なさそうに断る。
「ごめんなさい、私これから用事があるの。
少し抜けるわね」
「構わないわ」
「明後日、グリンディネの神殿で祈りの式典があるから参加するといいわ」
「ありがとう」
ルーシーは軽く頭を下げて部屋を去り、誰の目も無くなったレジーナは姿勢を崩して背凭れに寄り掛かる。
グリンディネの聖女、どんな病でも治せる聖水、貴族、そしてアダム。
なんだかロクでもなさそうだなぁと思いながら、レジーナは括った髪をほどいて掻き上げた。
町の神殿はあまり大きくはなかった。
それもそう、カーマルゲートが使用する王城にある神殿は、サイラスの中で最も規模の大きな神殿。
カーマルゲートに入ってから初めて神殿を訪れたレジーナは、王城の神殿以外どれを見ても小さく質素に感じてしまう。
最前列の一番右。そこにレジーナは座っていた。
田舎であるというのに席は埋め尽くされ、狭い神殿内に詰めかける溢れんばかりの人々。
彼らの表情は一様で、期待に胸が膨らんでいる様子だった。
レジーナの知る祈りの式典とは、それはもう退屈な儀式である。
しかし観衆を見る限り、この式典はカーマルゲートの式典とは違うのかもしれない。
地味な服を選び気配をできるだけ押し殺して、レジーナは目立たないよう気を使いながら始まるのを待った。
そして開始時刻から10分ほど経過しまだかとイライラし始めた頃、神官らしき男が奥から出てきて観衆は静まり返る。
ゆったりとした白い布を纏う神官は前に出て静かに語りかける。
「皆さま、お待たせしました。
聖女様のお越しでございます、頭を下げてください」
まるで訓練に慣れた軍隊のように一斉に揃って頭を下げる観衆。
慌ててレジーナも上半身を45度ほど前へ倒し、視線をめいいっぱいに上げて盗み見た。
白い布を上から纏った見たこともな格好をして現れたルーシーは、空から降り注いだかのように純真で穢れのない女性に見える。
神殿の独特の雰囲気も相まり神秘的であった。
「皆さまのためにお言葉をくださいます。
聖女様の仰る通りにすれば、必ずや神がお救いくださいます」
神官が下がり、ルーシーが前に出る。
「本日は・・・」
じんわりと心に染み渡るような柔らかな声。
そこで区切ると、にこっと笑ってゆっくりと話し始めた。
「本日は、皆さまの愛する人のために祈りましょう。
中心に住まう神は今日集まった皆さまをとても深く慈愛していらっしゃいます。
その中でも特に、信仰心の深い方を・・・・」
神殿中に不思議な空気が漂うが、レジーナは特に魔力らしきものを感じない。
この空気の源は、おそらくルーシーに魅せられた人の放つもの。
レジーナにとっては、すごく居心地が悪い。
「神を愛すれば慈悲深い神は愛を返して下さいます。
愛は姿形を変え、人々に降りかかる災難を払ってくださいます。
それは人の幸福というものなのです。
愛してください、神を」
後ろの方から「聖女様」と囁くような声が聞こえた。
心の底から入り込んでしまっている観衆は、俗に言う恍惚状態。
ルーシーの言っていることも聖書の解釈からすればかなり異端の方に入る。
「神に皆さまの愛が届きますよう、私が神へお祈り致します」
ステンドグラスから差し込んだ陽が、ルーシーの赤毛をキラキラと輝かせた。
「祈りましょう、愛する人が神を愛することができるように。
愛する人に、神の慈愛が下るように。
そして与えましょう、愛する人に、聖なる力を・・・」
一語一語がとてもゆっくりでトロい。
ひとつの文を言うだけでかなりの時間を要し、まだ終わらないのかと退屈し始めた頃。
気づけばルーシーの姿がそこにはなかった。
人々もパラパラと立ち上がり始め、そこでレジーナはいつの間にか式典が終わっていたことに気づく。
レジーナはため息を吐き足を組んで肘をつくと、先ほどまでルーシーが居た場所を意味もなくじいっと見つめた。
今聞いた中でわかったのは、聖女とは中心の神への信仰のアイコンとして祭り上げられている、一種の偶像崇拝の対象だということ。
そもそも信仰心の強いサイラスでは中心の神を崇拝するが、その神は唯一神とされ偶像や人間を崇拝することはしない。
例外である神官は神の使者として、国の中でもかなり高い地位を約束されている。平民にとって敬うべき対象とされ、たとえ貴族や王族であろうとぞんざいに扱うことは許されないと聞く。
しかしグリンディネで崇拝されているのは聖女。元を辿ればただの一般人。
神官でも魔女でもないただの女性である。
どんな病でも治せる聖水が彼女の手によって作り出されるとしたら、それはまた神の信仰とは別のお話で、最悪の場合は錬金術の可能性もなくはない。
誰も居なくなり静かになった神殿で、レジーナは立ち上がってヒールの音を鳴らしながらその場所を後にした。
式典を終え普段着に着替えたルーシーは、レジーナに与えた部屋を訪ねてきた。
レジーナは慌ててレポートを書くのを中断し、ルーシーを愛想笑いと共に出迎える。
「お疲れ様、ルーシー。
素晴らしかったわ」
「まあ、ありがとう」
控え目な野に咲く花のように可憐に笑むルーシー。
美しくとも決定的なレジーナとの容姿違いは、親しみやすいか否かにある。
レジーナは面立ちの上品さから孤高な雰囲気を漂わせているが、ルーシーは誰でもどこでも馴染める愛嬌がそこにあった。
服も彼女の魅力を最大限に引き出すような自然に溶け込む色や形を使用しており、レジーナの好む服装とは異なっている。
特にやたらヒラヒラしたスカートの部分は、シュシュが履いていたものを彷彿とさせ、幼い子のがよく履くものと似ていた。
「どうだったかしら、あまり初めての人には馴染めないのだと思ったのだけれど・・・」
「そんなことないわ。
サイラス人は信心深いもの。
誰であっても抵抗はないと思うわよ?」
「本当?嬉しい」
ふふ、とよく笑うルーシーは確かに人に好かれやすいのかもしれない。
しかし、実はレジーナは訳の分からないイライラと戦いながら、必死に愛想笑いを作っての会話であった。
まさか嫌われているだとうとは思ってもみないルーシーは、控え目にじっと瞳を見つめながら顔を覗き込む。
「それで、メーデンの研究のことなんだけど、何かお役に立ててるかしら?」
「もちろんよ、とっても順調なの」
「良かったわ。
ところで何の研究をしているか聞いても?」
「私が学んでいるのは人の心よ、心理学というのだけど」
「心理学?へえ・・・面白そうね」
興味があるのか、ルーシーは学問の話に食いついてきた。
もしかしたら学問ではなくカーマルゲートに興味があるのかもしれないと、レジーナはそれらしい話題を見つけて話し始める。
「カーマルゲートはとても変わったところよ。
外出はほとんどできないけれど規則さえ守れば監視はないし、雑務は全部使用人がやってるしね。
勉強する環境が整っているのよ。
そしてチャンスは身分に関係なく平等だわ」
「勉強・・・・ね。
私あんまり自信無いのよね」
「私もよ」
クスクス笑いが部屋に響く。
自然が豊かな場所だからか、とても空気が柔らかい。
「でも・・・、うう、私も行きたかった・・・」
シュン、と項垂れるルーシーの未練はタラタラで、それはカーマルゲートに対するものなのかアダムに対するものなのかよく分からない。
そこで唐突に気づいてしまった。
何故自分がルーシーを好きになれないのかを。
思わずレジーナはため息を吐いてしまい、ルーシーが心配そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「あ、ううん、なんでもないの。
ただ、あんまり体調が思わしくなくて」
「疲れてるのかもね。
王都からミラロザまでは長い道のりだったでしょう」
「そうかもしれないわ」
「そうだ、良かったらこれ使ってちょうだい」
そう言ってルーシーがスカートのポケットから取り出したのは小さな小瓶。
ルーシーの小さな手の平にある小瓶は、中で水らしきものがユラユラと揺れている。
「本当はとても高価なものなのだけれど、メーデンにだけ特別に差し上げるわ」
「これが・・・聖水?」
「そうよ」
ルーシーは誇らしげな口調で頷いた。
「これが私が聖女だと讃えられる所以、聖水よ。
飲むだけで大抵の病気は治るわ、疲れにも効くのよ」
「凄いものなのね。
本当はとても値が張るものなんでしょう?
貰ってもいいの?」
差し出されたが受け取るのを躊躇するレジーナ。
その仕草は控えめで金額を気にする平民らしい態度で、本当は小瓶を地面に叩きつけて壊したかったとは思えない完璧な演技であった。
レジーナの内心を知る由もないルーシーは悪戯っぽく笑む。
「うふふ、だから特別なの。
タダで貰ったことは誰にも内緒よ?」
念を押すように言ってから無理やりレジーナの手に小瓶を押しつけた。
「じゃあ、それを飲んでゆっくり休んでね。
明日には元気になってるわ」
気を使って部屋から出て行ったルーシー。
煩わしい赤毛の居なくなった部屋で、レジーナは一気に表情を崩し、訝しげな目で聖水を睨んだ。
聖なる水、ならば悪しき存在である魔物の自分にとっては毒になるのだろうか。
身体が溶けたり、もしくは魔物が浄化してしまったりと、嫌な想像は尽きない。
しかしいつまでも聖水を眺めても事の真偽はわからないと腹を括り、蓋を開け一気に飲み干した。
味や匂いは全くなく、いつまで経っても身体が変調を訴えることはない。
あえて言うなら、咽の乾きを潤しただけである。
「ただの水じゃない」
レジーナは毒づいて、興味を無くしたその瓶をベットの上にポイッと放り投げた。