38話 白い聖書
まるで夢の中の出来事のように実感がわかない。
しかし一晩だけだったけれども、確かにレジーナはジーン聖教団の下っ端に捕えられ、フォールという男に助け出されたのだ。
引き出された情報は無いに等しく、アジトと思しきその場所を後で調べてみてももぬけの殻。
国を欺くほどの大きな力を持つ組織ということは、それ相応のブレーン(頭脳)が居るはずなのだ。
例えばこちらで言うアダムのような。
それに匹敵する人物と言えば、レジーナに思い当たる人物は一人しかいない。
静かな廊下で、彼女はヒールの音を立てながら独り歩いていた。
時折会う知り合いに挨拶を交わしながら、また、見知らぬ人に手を振られることもよくあることだ。
いつの間にかレジーナを取り巻く世界は完全に様相を変え、そしてレジーナの生活も完璧に変っている。
カーマルゲート内の有名人として、既にレジーナは名乗りを上げてしまっているのだから。
それでも相変わらず周囲の目が自分に向かうのを良しとしないレジーナは、できるだけ人目に触れるのを避けたかった。
早歩きで廊下を歩き、目的地を目指す。
しかし、途中で彼女の腰に何者かの腕が周り、レジーナの身体が物影へ引きずり込まれた。
すぐに扉が閉まり、空き教室のなか彼女は首を捻って自分を連れ去った正体を見る。
「何か用かしら」
すぐに目につく金の髪は間違いなくアダムのものであった。
アダムはレジーナの腰に回した腕の力を抜かないまま静かに口を開く。
「・・・久しぶりだな」
「ええ、そうね。
誰かさんが最近とっても忙しくていらっしゃるから」
「シュシュとはできるだけ交流を避けた方がいい。
あまり近寄るな」
レジーナは困ったようにクスリと笑う。
「そう言われてもね。
大丈夫よ、彼女が“灰色の鳥”を警戒していることは知ってるわ。ヘマはしない。
それに私だって雑魚を片づけるので精一杯なのよ。
大体・・・っ」
細いくびれを撫でる様に動く手に息を詰めて次の言葉を閉ざす。
耳元から聞こえるアダムの熱い吐息に、レジーナのそれにも熱が籠った。
何度も髪や耳に触れる唇に、彼女の眉間に皺が寄る。
「・・・それで?何の用?
わざわざここに連れ込んだのは理由があるんでしょう?」
「ああ。
ジーン聖教団の頭は錬金術を使える可能性が高い」
途端、レジーナの身体が強張り、アダムの腕の中から身を捩って抜け出そうとする。
「少なくともジーン聖教団がただのジーン崇拝者じゃないことがわかった。
以前の残党か、もしくはそれに準ずる者か、それとも本人か」
錬金術がそこらの素人に扱える代物でない以上、それを使える者となればジーンの関係者だと考えるのが自然。
レジーナは抵抗を諦めてアダムの腕の中に収まると、背を彼に預けて目を細めた。
「残党なんてどうでもいいわ。
でももし“彼”がいるなら、私が直接手をかける。
わかってるわよね?」
いつもよりトーンの低い声で念を押すと、アダムはレジーナの身体をひっくり返し、顎に手をかけた。
静かな、しかし熱を内に秘めた紫色の瞳がアダムを見上げる。
「あの時何があった」
「あの時?」
「ディーンと城外に出て連れて行かれた時だ」
「ああ、別に何もなかったわよ?
主犯はジーン聖教団の下っ端、何も知らないみたいだったし。
魔術を使うまでもなく抜け出せたし」
「そうか・・・」
アダムはディーンとレジーナが一緒に居ても妬かない。
まるで嫉妬という言葉を知らないかのように、彼女を咎めることをしない。
嫉妬も愛情表現の一種なら、アダムはそれを必要としていないかのようだった。
攫われた時のことを聞いたのも、情報が欲しいからに他ならない。嫉妬ではないだろう。
例えアダムが嫉妬をしなくとも、もうレジーナが気をかけることはなかった。
それは他の愛情表現が十分満たされているから。
そして自分の運命とアダムの運命が重なったことで、お互いに運命と言うレールの上に縛り付けている安心感から。
決して2人は離れず、自然と同じ結末へ向かう。それがどんな終わり方であろうとも。
レジーナは俯くアダムの顔を両手で包んで顔を近づけた。吐息が顔にかかるほど、近く。
「私たちは同じ運命にあるの。
だから、あまり離れないで頂戴?」
アダムの口は開かない。
そのかわりに力強い腕が再びレジーナに巻きついた。
汗ばむほどの熱気に包まれる夏。
今日から長期休暇が始まるため、自然と隠し部屋に集まったレジーナたち。
ユークは研究のため不在であるが、それ以外の皆は全員揃っている。
ある一つの紙を頭を寄せ合って覗く一同の表情は、強張りに強張っていた。
サムはハリスの肩を掴んで前後にガクガクと揺らす。
「ハリスーー!!
君は真面目でいい子だと信じていたのにーー!
アビーを失ったのが辛いからって麻薬に手を染めるなんてー!!!」
「違う違う、本当に違うって」
ハリスもいまいち事態を理解できず、困惑気味の表情で手を横に振った。
しかし皆の疑いの視線が尽きることはなく・・・。
原因はたった一枚の紙。
これは先日アダムの主導で行った麻薬の中毒検査の結果である。
ハリスの結果は見事に陽性、そしてそれ以外の皆は陰性だった。
まさかハリスが中毒者だとは思わず、一同は驚いてハリスに詰め寄る。
しかし一方でハリスには全く身に覚えがない。
麻薬を使用するのはもちろんのこと、麻薬と接した記憶すらないのだ。
「何かの間違いだって!
再検査しよう!!
ね!アダム!」
アダムだけが頼みの綱だと、ハリスは助けを求めて彼の方を向いた。
しかし。
「いや、間違いない」
即座に否定。
真白になってしまったハリスに、シュシュは肘でつんつんとつつく。
「観念しなさいヨ。
さあ、さっさと情報を提供するのヨ」
「だから違うんだって!
何がなんだか・・・」
「でもー、立派に陽性じゃないのヨ。
白状するのヨ」
「シュシュ、そのあたりで勘弁してあげなよ」
詰め寄るシュシュの首の根っこを掴んだマリウスは笑いながら持ち上げた。
猫のようにぶら下がるシュシュは未だ納得のいかない顔。
「本当の本当に分かんないよ・・・・何で・・・」
ガクリと肩を落としたハリスは影を背負っている。
そこへ資料から目を離さないアダムが、やっと顔を上げて話し始めた。
「心配しなくていい。
カーマルゲートの生徒は7割陽性だ」
「はあ?」
「え・・・」
「なんですとおおおお!?」
呆れた表情のマリウス、目を見開くシュシュ、そして叫ぶディーン。
クレアとレジーナは静かに顔を見合わせた。当の本人、ハリスは口を開けたまま固まっている。
アダムは資料をポンッとテーブルの上に置きため息を吐く。
「ひと口に検査と言ってもいろいろな種類がある。
今回の検査はここ1か月の間にカルモナを摂取したことのある者だけ――――摂取と言ってもごく微量なんだが・・・・」
「つまり、どういうこと!?」
興奮して身を乗り出すディーンに、アダムは視線すら寄こさず静かに自分の見解を話し始める。
「つまりカーマルゲートで陽性反応が出た生徒は、おそらく検査に引っかかる程度以上、中毒症状が出ない程度の摂取をしていることになる」
「じゃあハリスは知らぬ間に微量のカルモナを摂取したってことヨ」
「そうだ。
そして陽性反応が出た生徒は全て平民階級の生徒ばかり」
シュシュの眉間に見たこともないような深い皺ができる。
平民のみ、ということは平民を狙った何者かが意図的にカルモナを摂取させているとしか考えられない。
しかし、そのような器用な真似が果たしてできるであろうか。
ここはカーマルゲート。選ばれた優秀な者のみが門をくぐることの許される土地。そう簡単に侵入できるような場所ではない。
例えカーマルゲートの職員を買収したとしても、上流階級の人間を避けて麻薬を摂取させることは容易ではないはずだ。
「あっ・・・」
突然思い出したように声を出したクレアに、皆の注目が集まる。
「どうしたの?クレア」
「いや・・・ほら、もしカルモナが物に付着させることができるなら、平民だけ狙う方法はあるわ」
「なんだい!?」
ディーンは立ち上がってクレアに続きを促す。
クレアは言いにくそうに口を開いた。
「当たって欲しくはないんだけど・・・・聖書でしょう?」
クレアの視線はアダムに向かう。
「今検査中だ」
肯定も否定も口にしなかったが、その言葉は暗に肯定を示していた。
「どういうこと?なんで聖書?」
サムは頭の上にハテナマークを浮かべて説明を求める。
どうやらディーンもハリスも同じく理解できていなかったようだ。
シュシュは呆れたようなため息を吐いた。
「だーかーらー、聖書は身分によって色が違うのヨ。
緑は王族、紫は貴族のみが持つことを許されてるのヨ。
つまり、平民の持つ白い聖書にカルモナを仕込んでおけば平民のみを狙って中毒者にできるわネ。
生徒ならほとんど肌身離さず聖書を持ち歩いてるし、カルモナは気化しやすいから知らず知らずのうちに摂取している可能性は大。
ちなみに聖書は今年新しく変わったばっかり・・・・ってことヨ」
「それなら辻褄が合うわ。
生徒から中毒者が出てきた時期が集中してたのは、聖書を手にした時期が同じだったからよ。
でも中毒が深刻にならない生徒は、ハリスのように何事もなかったんだわ。
そして気化した微量のカルモナは無意識の内に吸っちゃったから、中毒になっていない生徒も検査じゃ陽性の反応が出た・・・」
シュシュとクレアの頭良い組がペラペラと話すのを聞きながら、他のメンバーは違う所に思考を持って行っていた。
聖書にカルモナを仕込まれていたということは、少なからず神官庁が関わっている可能性が高いのだ。
神官庁と言えば、神官長であるユークの父親がいる。
「・・・クレアの勘が外れることを祈るしかないわね」
レジーナは静かにそう言った。




