36話 誘拐事件(1)
「おい!窓を閉めて鍵をかけろ!」
男の怒号が耳につんざく。
重力に負けそうな瞳をゆっくりと開け、寝ぼけ眼で辺りを見回したがそこには闇しかない。
感じるのは底冷えするような床、そして血と死の匂い。
レジーナはだんだん覚醒する意識の中で小さく混乱していた。
一体自分に何が起こったのか。一体ここはどこなのか。聞こえる声の主は誰なのか。
暗闇に慣れた目が一番最初に捕えたのは自分を取り囲む“檻”。
そして彼女は一気に自分の身に起きた出来事を思い出した。
話は2時間前まで遡る。
ディーンはレジーナを連れてなんとカーマルゲートを出てしまった。
というのも、城下町でデートしたいと言って聞かないディーンの我儘を、レジーナが拒みきれずに了承してしまったからである。
ディーンが事務員に申し出れば一瞬で許可が下りた。
なんだかんだ言われても、彼はやはり王子なのだ。
「どこに行こう!ねえ、どこに行きたい!?」
満面の笑みで訊ねるディーン。
レジーナは首を傾げて辺りを見回した。
「あまり下りても暗くなる前に帰れなくなるわ。
近場を回りましょう」
「大丈夫だよ!
心配しなくても宿を取って明日帰ればいいんだから!」
「そ・・・そう・・・」
わざわざ宿をとるまでしなくても、と内心で思いながらも口には出さなかった。
レジーナにとって城下町に来るのは初めての経験だ。
想像を遥かに超える人と店の多さに、道の狭さに、ついつい興奮してしまう。
商祭の賑わいを彷彿とさせるような城下町で、2人は店を見て回った。
服・雑貨・本・貴金属から何のお店か分からないものまであって、ここではお金さえあれば欲しいものが全て揃ってしまう。それほどに大小様々な店が並んでいた。
「いらない」と断っても無理やりディーンに大量の贈り物を押しつけられたレジーナ。
そろそろ日が沈み始める時間には、ディーンの手に紙袋がいくつも下げられていた。
無論全てレジーナのための買い物である。
「ディーン、重いでしょう?持つわよ?
私がもらったものなんだし」
「いいのいいの!
レディーに物を持たせるわけにはいかないよ。
甲斐性のない男だと思われちゃう」
「ディーンったら・・・」
レジーナは苦笑して彼の言葉に甘えることに。
大通りを歩いていると徐々に赤くなり傾いていく太陽が目についた。
時間を忘れるほど買い物に熱中するとあっという間に時間が過ぎてしまう。どうせなら放課後ではなく朝から来たかったな、とレジーナは心の中で独りごちた。
最も、短い時間でもこれだけディーンが自分のために買い付けたのだから、1日居ようものならどれだけの贈り物を買うのか想像できないけれども。
それはそれでありがた迷惑ね、と隣で歩く満面の笑みのディーンを見る。
「さ!そろそろ宿をとろうか!
この近くに貴族や王族相手に商売している宿屋があるんだ。
とても綺麗で清潔だし、警備も万全だし、食事もおいしいからお勧めだよ!」
ディーンはにっこにっこと笑顔で説明。
彼の言うお勧めはどれも高くてとても一般人には利用できない場所ばかりだ。こういう時ディーンはレジーナが平民であることを忘れてないか不安に思う。
そこで唐突に、レジーナはアダムに貰った鍵を思い出した。
今では当たり前のように身につけているネックレスには、小さな鍵と大きな鍵が2つ付いている。
一つは蠱惑女術のサンドラ・イーベルからもらった彼女の私室の鍵。
もう一つはアダムにもらった銀行の鍵である。
どこから資金調達したかは知らないが、彼曰く「百年は余裕で暮らせる」だけのお金が入っているらしい。
好きに使っていいとは言われたものの使う機会は全くなく放置している状態。
何かあった時の逃走資金として使えばいいとは思うのだが、現在進行形でどんどん振り込まれているので早く使ってしまわないとパンクしそうだ。
グルグルを思考を回しているレジーナに、ディーンは顔を下から覗き込む。
「どうしたんだい?」
「ん?
・・・ううん、なんでもない」
「ごめんね、引っ張り回して。
疲れたでしょ」
「平気よ、これくらい」
「宿に着いたらゆっくりできるからね」
「ええ」
もうすぐ日が沈むからだろう、いつの間にか通りの人々はほとんど居なくなっていた。
「あれだよ!あれ!
行こう!」
大通りから少し離れた所で、ディーンは大きめの白い建物を指さす。
不意にガサッと草の根を分けるような音が聞こえ、そこでレジーナは人に囲まれていることを悟った。
気配に敏くないディーンはもちろん気づいていない。
しかし突然何か鋭利な物が飛んでくると、さすがにディーンも気づいて剣を抜いた。彼の手から離れた紙袋がドサッと音を立てて地面に落ちる。
彼はこれでもかと目を見開いてびっくりしているようだ。
「え!?何!?誰!?」
「ディーン、落ち着いて」
レジーナはプチパニック気味のディーンにため息を吐きながら辺りを見回す。
すぐにローブを深く被って顔の見えない人達が周りをぐるりと囲むようにして現れた。
背の高さから間違いなく男だろう。
ディーンは事の重大さをすぐさま理解して、キッと視線を鋭くする。
「メーデン、僕の後ろに下がってて」
人の少ない路地裏で不穏な空気が張り詰める。
ディーンは敵の多さからすぐにでも逃げ出したかったが、逃げ道がない上に女性であるレジーナを連れて逃げ切れることはできないと判断し、剣を構えて敵の動きを待った。
しかしやはりと言うべきか、剣を交え始めるとあっという間にディーン側の劣勢となり、レジーナの右腕が敵の手に掴まれた。
「メーデン!!」
そのまま布を口元に覆われて、彼女は気を失ったままどこかへ連れて行かれてしまう。
「メーデン!!うっ・・・」
重い一太刀を受け止めて呻く。
敵の数は約18。攻撃を防ぐだけで精いっぱいのディーンであるが、しかし時間が経っても彼に膝を着かせることができず、敵側の方が焦り始めた。
一応は英才教育を受けた身。
ディーンの剣の腕は確かなのだ。
「王子は諦める、撤退」
リーダーであろうか、一番離れたところに居た男が命令すると、あっという間に散り散りに逃げて行った謎の男たち。その速さといったらゴキブリ並みだ。
敵の攻撃から解放されたディーンは顔を真っ青にし、すぐにレジーナが連れ去られた方へ走った。
しかし探せども探せども、手がかりは全くなく・・・・。
日が沈んでしまった街には人の気配ひとつない。男たちの姿ももちろん見えない。
「メーデン!メーデン!!
――――――くそぉっ!!」
怒りと焦りからディーンは道端のドラム缶を派手に蹴り飛ばした。
そして―――――
檻に閉じ込められているのは、松明一つとランプ2つのみの暗い部屋。
見張りは3人のみ。
レジーナは横たわっていた身体を起こすと、彼らが気づいて彼女の方を向いた。
「もう起きたのか?」
「早くないか?」
「薬をあまり吸いこんでなかったんだろう」
それは不正解。
ジュナー自体が毒を持つため、レジーナに毒は効かないのだ。
薬も効きにくい体質のため、多量に眠り薬を吸い込んでもすぐに目を覚ましたらしい。
レジーナは視線のみをさりげなく動かして自分を攫った男たちを見た。
扉の近くに2人、そして簡素なテーブルの傍に1人。3人とも武器を所持しており、身体の大きさからそれなりの実力があるのだろうと推測できる。
彼女は何もしなかった。
叫んで助けを呼ぶことも、男に理由を聞くことも。
その代りに物に染みついた記憶を“透視”することで、ここが一体どこなのか知ることができた。
レジーナの頭に入り込んで来たのは武器を持って出入りする人たちの姿や、檻に閉じ込められて拷問を受ける人々の姿。そして決定的だったのは黒髪にメガネをかけた男性、レジーナの父親であるジーン・ベルンハルトの姿であった。
どうやらここは以前の内戦で使われていたジーンのアジトの1つらしい。
つまりだ、この男たちはジーン聖教団の可能性が高い。
「どうした、フォール」
「別に・・・」
「なんだ、この女に興味があるのかぁ?」
「気持ちはわからないでもないけどなぁ、お前が女に興味を持つなんて珍しいじゃねぇか」
ニヤニヤと厭らしい笑いをしながらフォールと呼ばれた男をからかう扉の傍に鎮座した2人組。
「やめろよ」
一方フォールは嫌そうに顔を歪めている。
彼の嫌がり様がますます2人を助長させた。
「そう言わずさ、好きにしたらいいじゃねーの。
どうせ王子誘拐は失敗したんだし、こんな美人なら実験台にするよりは有効活用だろ?」
「確かに殺すのは勿体ねーなー」
「止めておけ。
上からも手を出すなと言われてるだろう。
この女が王子の恋人なら十分に利用価値がある」
「でもさー、ちょっとくらいならバレないって」
ゲラゲラと笑う下劣な男のセリフに気分が悪くなったのはレジーナだけでなくフォールも同じらしい。
彼はさらに眉間の皺を増やし、2人から顔を逸らした。
「遠慮するなよ」
「そそ。
下っ端も何か恩恵あってしかるべき・・・ってね」
「・・・・・」
完全に無視状態のフォールに、男たちは顔を見合わせると2人揃って立ち上がる。
そしてそのうちの1人がレジーナに向かって口を開いた。
「おい、お前。
立てよ」
「見れば見るほど綺麗じゃん?
どこのお嬢様だ?」
厭らしい笑みで近づいてくるものだから、レジーナは不快そうな顔をし、ピンヒールで乱暴にガン!ガン!ガン!と何度も檻を蹴った。
「寒い、臭い、汚い、気持ち悪い」
ガンガン!と蹴りながら我儘を並びたてるレジーナ。
囚われの身だというのに注文をつけるそのふてぶてしさに、2人の動きが一瞬だけ止まった。
「自分の立場がわかってねぇようだな。
お前は監禁された身、頭を下げなきゃ飯も食えねえんだぞ」
レジーナが紫の瞳を彼に向けると、うっと言葉に詰まって口を閉ざしてしまう。
口では相手を不安にさせるようなセリフを言えても、無言の威圧で黙ってしまう程肝っ玉が小さい男らしい。
情けないなぁと内心で思いつつ、レジーナは思いきりため息を吐く。
魔術でどうにかしたいところだが、どこに人目があるかわからない。
彼らが組織の一員である以上、彼らを殺しても下手に自分が疑われるだけ。
かといって彼らに従うなどあり得ない。
さて、どうしようか。
レジーナが吟味しているうちにも、2人の男は檻の手前までやって来て彼女の身体を舐めるように見回す。
柔らかそうな白い肌・形の良い華奢な身体だけでも十分に欲をそそるが、加えてつい手助けしてあげたくなる、逆に蹂躙してみたくもなる不思議な雰囲気をレジーナは持っている。
「ほー」
「こりゃ上物上物」
鼻の下を伸ばし舌舐めずりする男が檻の鍵に手をかけたところで、ドスッと音が聞こえ2人はズルズルと地面へと沈んで行った。
急に気を失った2人にレジーナが顔を上げると、そこには“フォール”と呼ばれた男の姿。
「出ろ」
「何のつもり?」
鍵を開け解放する彼にレジーナは警戒しつつ後ずさって距離を取る。
「何もしない、出ろ」
レジーナは首を傾げて彼の顔を見つめた。
容姿はどこにでもいるようなありふれたもの。しかし強い瞳から芯のしっかりした男だとわかる。
少なくとも倒れた2人のように下劣な思考は働いていないようだった。
「貴方、上から怒られるんじゃない?」
「上手く誤魔化しておくさ、さあ」
レジーナは彼の導くままに檻を出た。
それだけでも精神的に解放された気分になるから不思議だ。
「こちらへ」
「ええ・・・」
フォールは手に松明を取り、2人は暗く細い廊下をひたすら歩く。
このアジトはとても大きく入り組んだ造りになっているらしく、もう既にレジーナが1人で檻のある部屋に戻ることはできない。
もし彼の先導がなければ確実に迷っていただろう。
チラチラと燃える火の先端と松明の映し出す影。不気味な闇の匂いと気配にレジーナは黙り込んでただ足を動かした。