30話 新たな年
アビーが亡くなってからの1週間の間、目に見えて一番辛そうなのはハリスだった。
クレアも毎日のように目を赤く腫らし、一緒に居ても気まずく重たい空気が流れる。
しかしどんなに悲しくても時間はあっと言う間に過ぎるもので、気がつけばアビーがいなくて当たり前の日々。
レジーナたちはすっかり元通りになっていた。アビーがいないことを除いては。
新しい学年がやって来た。
レジーナとハリス、クレアとサムの双子は6学年になり、アダムら3人組は7学年に。
新しく選択した授業がある他には、特に目ぼしく変化があるわけではなかったけれど。
一番変わったのはカフェテラスの時間だろうか。
アビーの件で気を使っているのか、必ずレジーナの昼食にはクレアが一緒に居るようになった。
「メーデン、去年の単位全部落とさなかったんですって?」
「ええ、奇跡よね」
可愛らしく微笑むクレアにレジーナは頷く。
レジーナの破滅的な成績の噂はすっかり無くなり、単位も全て貰うことができた。
周囲はアダムの指導のおかげだと思っているだろうが、実際には去年と同じくディーンの影響が大きいとレジーナは思っている。
王族の恋人の単位を奪える教師は、おそらくこの学校にはいない。
白身魚のソテーを細かく切り刻んだレジーナは独りほくそ笑んだ。
一方クレアは遠い目で今は居ないディーンたちを想う。
「それにしても羨ましいわ、7学年」
「どうして?」
クレアは手に持ったフォークを上へ向けると、真剣な眼差しで熱く語り始めた。
「カリキュラムが大きく変わるのよ。
1年から4年までは基礎科目で必修。
5年と6年は選択科目で好きな科目を選べるわ。
そして7年から卒業するまで、生徒は1人の教師に付いて特定の研究に加わるの。
いわば先生の雑用ね。研究を手伝ったり、外へ出て調査したりもするのよ?
詳しい説明は夏頃あると思うけど」
堂々と外へ出られるなんて羨ましいとクレアは頬を膨らませる。
レジーナはへぇと興味深そうに質問を重ねた。
「授業がないなんていいわね。
クレアはどの先生の研究に携わりたいの?」
「うーん、やっぱり政治学関係かしら。でもまだどの先生にするかは決めてないの。
慎重に選ばないと当たり外れが大きいもの」
「ディーンたちはどの先生に?」
「えっとー、確かディーンは帝王学で、先生の名前は忘れたけど他国の政治について研究してると思うわ。
ユークは神学ね、言うまでもなく。ユークのお父様は神官長だもの。
それからアダムは歴史考古学のオルガ先生ね。
ディーンの研究は暇、ユークは神殿に籠ることが多いし、アダムは遺跡に出向くことが多いわね」
クレアは必死に思い出しながら丁寧に説明した。
レジーナは自分がどの科目を選ぶか考えながら呟く。
「私は何がいいかしら?」
「興味のある学問はないの?」
「そうね・・・ないわね。
単位がもらえればそれでいいわ」
「まあ、メーデンったら現金ね」
クスクス笑うクレアにつられてレジーナも口角を上げて笑った。
しかし突然、キャアキャアと悲鳴に近い声が聞こえてきてレジーナとクレアは辺りを見回す。
アダム達が来たときのような黄色い声ではなく、何かに怯えるような恐怖の悲鳴だ。
「まあ、新年早々何事?」
「アレじゃない?」
悲鳴のする方向――――カフェテラスの入口に目を向ければ、フラフラしながらカフェテラスへ入って来た背の低く幼い男の子。
彼は手を宙に彷徨わせたり、唸りながら自分の髪の毛をむしったりしている。
まるで何かがとり憑いたかの様。
誰が見ても奇怪なその行動に、クレアは戦慄を覚えて顔をしかめた。
「どうしたのかしら?」
「さあ、1年生みたいだけど・・・」
彼はぐるぐると辺りを徘徊しながら、とうとう地面に寝転がり、奇声を上げながらジタバタと両手足を激しく動かし始める。
その後すぐに教師らしい大人たちに連れて行かれたが、彼が居なくなってもカフェテラスの気まずい雰囲気が変わることはない。
レジーナとクレアは思わず無言のまま顔を見合わせ、頭の上にハテナマークを作った。
ガシャーンと派手な音を立てて割れた花瓶を見て、私は肩の力を一気に抜いた。
続いて音を聞いて地下室に降り来たアダムが、割れた花瓶と私を交互に見て眉をしかめる。
「何事だ」
「ちょっと魔術の練習をしてただけよ」
粉々に飛び散った花瓶を見てがっくりと項垂れる。
本当はテーブルに置いたカップを割ろうと思っていたのに、全く関係のない花瓶を壊してしまい、私は小さな声でアダムに謝った。
この花瓶はアダムの私物。壊したのは私の責任だ。
破片を拾おうと近寄って屈んだけれど、地面に向かって伸ばした手はアダムに捕えられる。
「片付けなくていい、怪我をする」
「でも・・・」
地下室に使用人を呼ぶわけにはいかない。
ましてや、アダムに片づけをさせるわけにもいかないので、必然的に片付けるのは私。
「こんな硝子で怪我するわけないでしょう?」
魔物なのだからと付け加えて手を伸ばすと、アダムは再び私の手を払った。
「いい、俺がやるから」
彼が描いたのは大きな円。
飛び散った花瓶を囲むように、人さし指だけで大きく空間を囲むようにぐるりと一周させた。
すると、一瞬で壊れた花瓶が消え去る。
欠片1つ残さずに。
初めて見た錬金術に、私は眉間に皺を寄せて彼を見つめた。
「・・・ずるい」
文句の言葉もクスリと笑われて、アダムは何事もなかったかのように私の顎に手をかけた。
執着心のない人だと思っていた。
理性と知性の塊、アダムを一言で言い表すとこの言葉しかない、と。
淡泊で何に対しても心を砕かない、何事も全て一人で処理して、誰かに頼ることは絶対にしない完璧な人間。
しかし、だ。それは大きな間違いである。
初めて交わってからというものの、彼の欲望は底尽きることがない。
少しでも時間があればベットに引きずり込まれる。ベットだけじゃない、空き教室で襲われた時は人に見つからないかヒヤヒヤしたものだ。
頑丈な身体を持つお陰で体力も睡眠不足も問題はないが、普通の人間だったら確実に腹上死する。
魔物で良かったとほんの少しでも思ってしまったのは生まれて初めてだった。
いつの夜か、まるで狼だと文句を言った私に、彼は「その通りだ」とあっさり認めた。
彼は狼の魔物を宿しているらしい。ジュナーのように毒は持たないが、世界で最も早い足を持つという狼の魔物。
姿を見せてはくれなかったが、妙に納得してしまったのも記憶に新しい。
アダム以外に望まないと誓った私。
しかし逆を言えば、アダムさえ手に入れば欲しいものは全て与えてくれるから必要なかった。
アダムは私の欲望を全て叶えてくれる存在。
彼は私が何をすれば喜び、何をすれば嫌がるのか知り尽くしている。
だから彼の存在そのものが酷く中毒的なのだ。手放すのが恐ろしい。私がアダムを失った瞬間に、私は手にした全てを失うのだと分かってしまったから。
「眠れないのか?」
アダムの低い声で、浮き沈みを繰り返していた意識が完全に戻った。
暗闇に目が慣れず、手探りだけでアダムを引き寄せる。
服の上からでは分からない逞しい腕に、頭を預けてすり寄った。
だんだん目が慣れてくると、真白のままの私の肌が目につく。
私はこれが気に入らないのだ。
「どうして痕をつけないの?」
ぼそっと小さく呟いた言葉も、アダムの耳にはしっかりと届いたようだ。
彼は少し不思議そうに、さも当然と言わんばかりに言い放った。
「ディーンに見られたら困るだろう?」
「え?」
まさかアダム、私とディーンが関係を持ってるとでも思ってる?
今までアダムからディーンと別れろと言われたことは全くなかった。
ディーンと付き合っていることに対して言及されたことすらなかった。
つまりだ、彼には独占欲がない。
それともただ単に私の存在がその程度なのか、はたまた貞操観念が薄く他に愛人でもいるのか。
いっそのこと閉じ込められてしまいたい。アダム以外の、何もない世界へ。
そこにはアダムと私しかいなくて、他の何者にも邪魔されることはない。
私はアダムにだけ心を預ければいい。
アダムには私しか見えない。
2人きりの世界。
他はいらない、欲しくない。
暗く甘美な思考が広がっていく。じわり、じわりと、まるで麻薬のように。
アダムの肩を持って首筋に思いきり噛みついた。
くっきり残った歯型から赤い鮮血が流れだし、それを何度も舌で拭う。
アダムは、ちょっとびっくりしたような顔をしていた。
私は満足して傷口を優しく撫でる。
「今度はどんな噂が立つかしら。
楽しみよね」
以前にも歯型で様々な憶測が飛び交ったこともあった。
思い出したのかアダムは呆れ気味。最も表情はほとんど変わっていないが、なんとなく彼の感情の機微が読めるようになってきた。
傷口からタラリと血が流れ、私はそれを舌ですくうように舐め上げる。
「・・・誘ってるのか?」
「そんなつもりはないんだけど・・・・」
抗議させてもらえるはずもなく、アダムは半刻前と同じように私に覆いかぶさった。
「盛りのついた犬・・・ね」
悔し紛れに呟いた言葉。
アダムは片眉を吊り上げて鼻と鼻が触れそうなほど顔を近づける。
「犬ではない、狼だ」
そう、確かに犬なんて可愛らしいものじゃない。
今夜は徹夜を覚悟して、アダムの首に腕を回した。




