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涙の泉

作者: ヒジキング
掲載日:2026/06/05

 とおい、とおい昔……まだ世界が、ほんとうに平和だったころのことです。

 森の中にある泉に、ひとりで泣いているおじいさんがいました。


 それはそれはきれいな泉でしたが、そのおじいさんがいつも泉のそばでさみしそうに涙を流しているので、泉を訪れるひとはほとんどいませんでした。


 ある日、近くの村に住んでいるちいさな女の子が、山菜を取りにきたおりに、たまたまおじいさんをみつけて言いました。

「ねえ、おじいさんはどうしていつも泣いているの?」

 おじいさんはかなしそうな声で言いました。

「みんなが、死んでしまうからさ」

「どうして? あなたの家族が死んでしまったの?」

「いいや」

「それじゃあ、誰のために泣いているの?」

「それはね、だれも泣いてはくれないで死んでいくひとのためさ」

「知らないひとでも泣くの?」

「ああ、泣くんだ。ぼくが泣いてあげないで、かわいそうじゃないか。だれにも泣かれないで死んでいくなんて……」

 女の子には、おじいさんの話していることがよくわかりませんでした。

「でも、泣いていると、かなしいわ」

「そうだね、かなしい。ぼくはかなしい」

 涙をまたひとつぶ、泉に落として、おじいさんはいいました。

「けれど、だれにもかなしまれずに死んでいくひとたちがいるほうが、ぼくはかなしいんだ」


 またあくる日、女の子はまたおじいさんのところに行きました。

「どうしていつもこの泉の近くにいるの?」

 こんこんと湧き出ている水は、ささやかな川となって、森の外へと流れていきます。その水が、少女が住んでいる村と、その周りの村を、いくつもうるおしているのです。

 水をひとすくい、おじいさんは飲みました。女の子もそれをまねて飲みました。おじいさんの涙が混ざっているからか、泉の水はすこししょっぱいものでした。


 それから女の子は、おとうさんのパン屋を手伝うようになり、泉に行くこともなくなりました。

 村はあいかわらず平和で、森から流れてくる水はたえず人々を潤していました。このところは水の量もますます増えたようで、より村は豊かになっていくようでした。


 女の子が、もう女の子とも呼べない年になったころ、急にあのおじいさんのことが気にかかってきました。あれからもう、ずいぶんと長い月日がたっていました。

 世界中のだれとも知らない、可哀想な人達のために涙をながしていたおじいさんは、いま、どうしているのでしょう……。

 朝の仕込みを終えたあと、ふた切れのパンとぶどう酒をかごに入れて、彼女は家を抜け出しました。


「やあ、きみか。大きくなったねえ」

 おじいさんの見た目は昔と何も変わっていませんでしたが、しかし、おじいさんの流す涙の量は、ずいぶんと増えているようでした。

「どうして、まだ、そんなにも泣いているの?」

「……それはね、きっと、ぼくが泣いてあげないといけないひとが、昔よりも増えたからだよ」

 うめき声のあいだになんとかおじいさんはことばをつむぎます。パン屋の娘は、おじいさんに、パンとぶどう酒をすすめました。

 しかし、おじいさんは何も受け取ろうとしません。

「ああ、だめだ、今にも、だれにも愛されないひとが死んでいく。そら、きみの村のイーサだ。彼女には親も、恋人も、友達もいない……」

 閉じたしわしわのまぶたのうちで、おじいさんにはなにかとおくのものが見えているようでした。その間にも、両目からは、とめどなく涙がつたいます。

「あなたはいったい、いつから泣いているの?」

「それは……覚えていないんだ。きっと、最初から――ほんとうの最初から泣いていたんだ。生まれたときから、ずっと……ぼくは、たぶん、そのためにここにいる気がする。ああ、ああ、まただ、また人が死んでいく……」

 娘は、おじいさんが泣いているのを見て、自分まで悲しくなってしまいました。

 娘がかなしそうな顔をするのをみて、おじいさんは言いました。

「きみが死ぬ時……もしだれにも愛されていなかったのなら、そのときは、ぼくがきみのために泣くよ」

「でも……でも、あなたは? あなたが死んだら、あなたは泣くの?」

「さあ、どうだろう。死んでしまったら、もう泣けないだろうな……なら、ぼくは、ひとりで死ぬのだろうか?」

 おじいさんはふと気がついたように顔を上げ、木立の隙間から見える空を見上げました。

「そのときは――わたしが泣いてあげるわ」

 娘は、おじいさんを抱きしめました。枯れ木のような腕を、切りかぶのような背中を、優しくなでてあげました。

「世界で愛されていないのは、きっと、あなただけなのね。あなたがいるから、すべての人が愛されているのね」

 娘は涙をながしていました。

「もういいでしょう? あなたはじゅうぶん愛したのよ」

 お母さんに聞いても、おばあさんに聞いても、おじいさんはこの場所でずっと泣いていたといいます。そしてずっとむかしから、おじいさんはずっとおじいさんだったのだと聞きました。

「そうか……ぼくは、ぼくはもう、じゅうぶんに愛したのか?」

「そうよ、もう、涙を流す必要はないのよ。もう、笑ってもいいのよ」

 彼女はぶどう酒の封を開けると、木のコップについで、おじいさんに差し出しました。

 おじいさんはふしぎそうな顔でコップをながめた後に、一口ふくみました。

 おおきく――おおきく息を吐いて、おじいさんは言いました。

「ああ、もうぼくは、笑ってもいいのだろうか?」

「そうよ、もう、笑ってもいいのよ」

 おじいさんは生まれてからはじめて悲しい顔をやめて、にっこりとほほえみました。


 次の日、娘が泉に向かうと、おじいさんは泉のほとりであお向けになり、笑顔のままで冷たくなっていました。

 娘は老人のためにひとしきり泣いたのち、りっぱなお墓を作ってあげました。


 ――それから、泉で泣くひとはいなくなりました。


 すると、小さな争いがそこらじゅうで起こるようになりました。泉から流れる水が少なくなり、村と村で水を取り合うようになったのです。いつまでも湧いてくると思われた泉は、おじいさんがいなくなってからというもの、水たまりほどにしか、水が湧いてこなくなりました。


 隣村とのあらそいで火のつけられた家の中に取り残されたとき、パン屋の娘ははじめて――あの泉から湧き出ていたのは、あのおじいさんの愛だったのだということに気づきました。

 おとうさんもおかあさんも、すでに争いに巻き込まれて死んでしまっていました。お得意さまも、友達も……だれも、もういませんでした。

 だから、とうとう彼女がいる部屋に火が放たれたとき、だれも彼女のために泣く人はいませんでした。


 世界はいつの間にか悲しみに、憎しみに溢れていました。

 だれにも愛されずに死んでいくひとが溢れていました。


 世界が争いのたえないようになってしまったのは、このころからであると言われています。

学生時代に書いた作品を手直ししたものです。

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