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第83話 第三段階

 パンの匂いが、橙色に光った。

 朝。宿の食堂。二度目の封印修復から戻った翌朝だった。北西の冥渦。マルクスが予測した地点。蝕を一回使用して封印した。魔印は37%から38%に進行した。回復に五日。前回より更に一日長い。

 六日目の朝。ようやく食堂に降りられた。テーブルに座って、リタが焼いたパンを手に取った。齧った。

 その瞬間——パンの匂いが、色になった。

 視界の右端に、橙色の光が浮かんだ。小さな光の粒。パンの匂いと同時に生まれて、パンの匂いと同時に揺れている。噛むたびに、橙色の光が微かに明滅する。目を凝らすと消える。力を抜くと、また現れる。

 匂いが、色として見えている。

 目の前のパンを見た。パンは普通の色をしている。焼き色のついた表面。白い断面。普通のパン。だが、パンの匂いが鼻を通るたびに、視界の端で橙色がちらつく。匂いと光が、同じリズムで揺れている。

 手が止まった。

 何が起きている。蝕を使っていない。戦闘もしていない。宿の食堂で、朝食のパンを齧っているだけだ。日常の中で。穏やかな朝の中で。

「カイト? どうした。食べないのか」

 ドルクの声が聞こえた——のと同時に、ドルクの声が体に「触れた」。

 低い振動。腹の底に響く振動。ドルクの声は低い。その低さが、音としてではなく、物理的な振動として腹壁に触れた。声が耳に届くのと、振動が腹に届くのが、同時だった。

「……何でもない。食べる」

 自分の声が聞こえた。自分の声は——何の色にも、何の振動にもならなかった。自分の声だけが、普通に聞こえた。他人の声は混線する。自分の声はしない。分からない。法則が分からない。

 パンを齧り続けた。鉄の味の膜を通して、小麦の味がかすかに届く。だが、齧るたびに視界の端で橙色がちらつく。匂いが色に変わり続けている。

 焼いた卵の匂いが、黄色の小さな光になった。

 隣のテーブルの冒険者の革鎧の匂いが、茶色の影として床の上に揺れた。

 暖炉の薪の匂いが、赤い波紋として壁に広がった。

 全ての匂いが、色を持ち始めている。

 ◇

 食堂を出た。階段を上がった。部屋に戻った。

 ドアを閉めた。一人になった。壁に背を預けて、息を吐いた。

 リーゼの声が廊下から聞こえた。「カイト、大丈夫? 顔色が悪いけれど」。リーゼの声が——「青い振動」として体に触れた。腕の表面を、微かな風のような振動が撫でた。碧い瞳の持ち主の声が、青い振動になっている。声の色と、瞳の色が一致している。偶然か。法則か。

「……大丈夫だ」

 嘘。いつもの嘘。だが今回の嘘は、ユイに対する嘘とは質が違った。ユイに対しては「心配させたくない」嘘。リーゼに対しては「まだ理解できていない」嘘。何が起きているのか、自分でも分からない。分からないものを説明できない。

 部屋の窓が開いていた。春の風。花の匂い——が、黄色い粒子として窓から流れ込んできた。目に見える匂い。花の匂いが黄色い粒子になって、部屋の中に漂っている。手を伸ばしても掴めない。目を閉じると消える。鼻で匂いを嗅いでいる間だけ、黄色い粒子が見える。

 目を閉じた。暗闇。匂いの色が消えた。だが、今度は暗闇の中で別のものが見えた。魔素の流れ。部屋の空気の中に含まれる微量の魔素が、暗闇の中で薄く光っている。紫と黒の中間色。目を開けている時には見えない。閉じた時だけ見える。

 何が起きている。

 メルティアの足音が階段を上がってきた。コツ、コツ、コツ。規則的な足音。だがその足音が——赤い波紋として、視覚の中に映った。メルティアの足音が赤い。なぜ赤い。メルティアの瞳が赤いから? メルティアの悪魔の属性が赤だから? 関係があるのか、ないのか。

 ドアが開いた。メルティアが入ってきた。赤い瞳が、俺を見た。壁に凭れかかっている俺を。紅茶を二つ持っていた。湯気が立っている。紅茶の匂いが——琥珀色の薄い光として、カップの上に浮かんでいた。メルティアの手の中で揺れる匂いの色。

 メルティアの赤い瞳の色が——「低い音」として耳に届いた。

 低い、静かな音。弦楽器の最低音に似た振動。赤い瞳を見ている間だけ、その音が聞こえ続ける。メルティアが瞬きをすると、音が一瞬途切れて、瞳が開くと戻った。

 色が音に聞こえている。

「……カイト。何か、変わったことはある?」

 メルティアが聞いた。赤い瞳で。その声は♪がなかった。真剣な声。だが声の色は——赤い波紋。足音と同じ色。メルティアから発せられる全ての音が、赤い。

「……変わったことなら、いくつか」

 ◇

 シアの治療中にも発生した。

 ベッドに横になった。シアが隣に座って、調和の光を放った。白銀と金色の中間の光。温かい光。体を包む浄化の力。

 その光が——「甘い味」として舌に広がった。

 口の中に、砂糖に似た甘さ。食べてはいない。口には何も入っていない。だが、シアの調和の光が体に触れるたびに、舌の上に甘い味が広がる。光が、味覚を刺激している。

 聖属性の匂い——シアの治療の匂い。花に似た清浄な匂い。その匂いが、淡い紫色の光として視界に映った。シアの紫の瞳と同じ色。リーゼの声が碧い瞳と同じ色の振動だったように、シアの聖属性の匂いもシアの瞳の色と一致している。

 五感の配線が混ざっている。

 匂いが色に。音が触感に。色が音に。光が味に。五つの感覚の境界が溶けて、互いに流れ込んでいる。共感覚に似ている。だが、生まれつきの共感覚ではない。後天的に——魔印の浸食によって、感覚神経が侵され始めている。

 シアの紫の瞳が、俺の顔を覗き込んでいた。「カイトさん。……何か感じますか? 普通と違う何かを」

「……シアの光が、甘い」

「甘い?」

「味がする。甘い味が。光に触れるたびに、舌の上で」

 シアの紫の瞳が見開かれた。それから、シアの目にも見えない何かが起きていることを理解した。「……感覚の混線。魔印が感覚神経に影響し始めている」

 ノアの声が外套の中から低く響いた。

「感覚侵食の第三段階だ」

 ノアの声に、珍しく重さがあった。千年の魔導書が、この症状を知っている。

「第一段階は蝕使用時のみ。属性に応じた感覚変化。お前が光を呼んだ時に嘘がつけなくなる、あの感覚だ。第二段階は戦闘時に発生。色が音に変わり、匂いが映像で見える。大渦の封印で起きたものだ」

 ノアの声が一段低くなった。

「第三段階は——日常に浸食している。蝕を使っていない。戦闘もしていない。それでも感覚が混ざる。魔印の進行が38%を超えたことで、感覚神経への浸食が常態化した」

 常態化。一時的ではない。戦闘の後遺症ではない。これが、これからの日常になる。

「治るのか」

「魔印の進行が止まれば、悪化はしない。だが、既に浸食された回路は戻らない。……慣れるしかない」

 慣れる。パンの匂いが橙色に光ることに。リーゼの声が体に触れることに。メルティアの赤い瞳が音を立てることに。世界の見え方が変わったことに。慣れるしかない。

 ◇

 夕方。暖炉の前。

 メルティアが紅茶を淹れた。温かいカップを受け取った。紅茶の匂いが——琥珀色の薄い光として、カップの上に浮かんだ。匂いの色。紅茶の匂いは琥珀色。暖炉の薪の匂いは赤い波紋。窓から入る春の風の匂いは透明に近い白。

 全部見えている。全部の匂いが、色を持っている。

 紅茶を啜った。鉄の味の膜の下に、紅茶の味がある。砂糖なし。いつもの味。だが——味が正しいか、自信がない。鉄の味が常駐している舌で、紅茶の「本当の味」が分からなくなっている。温かいことだけは分かる。温度は正しく伝わる。味覚だけが歪んでいる。

 リーゼが碧い瞳で俺を見ていた。「……症状について、詳しく聞いてもいい?」。碧い瞳の声が、青い振動として腕に触れた。だが、リーゼの声に慣れ始めている。青い振動。リーゼの声はいつも青い。それが分かった。

「匂いが色に見える。声が体に触る。色が音に聞こえる。それだけだ。……戦えなくなるほどじゃない」

 平静を装った。だが、装いの下で——怖かった。世界の認識が揺らいでいる。信じてきた五感が、正しく機能しなくなっている。目で見ている色が正しいのか。耳で聞いている音が正しいのか。舌で感じている味が正しいのか。五感の信頼が揺らぐということは、世界そのものへの信頼が揺らぐということだ。

 だが、一つだけ確かなことがあった。

 メルティアの紅茶は温かい。温度は嘘をつかない。鉄の味の膜があっても、匂いが色に化けても、温度だけは正しく伝わる。掌の中の陶器の温度。それだけが、今の俺にとっての確かな世界だった。

 世界が壊れ始めている。

 世界ではない。俺の世界の見え方が。


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