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第81話 回復と代償

 三日間、動けなかった。

 大渦を封じた翌日から、ラスティカの宿のベッドに沈んでいた。沈んでいた、という表現が正しい。横になっているのではなく、体がベッドの中に沈み込んでいる感覚。全身が鉛になっている。指を動かすだけで、腕の中を熱い液体が流れるような痛みが走った。

 口の中に鉄の味。消えない。起きている間も、眠っている間も。水を飲んでも消えない。パンを齧っても消えない。味覚の上に薄い金属の膜が張り付いていて、全ての味がその膜を通して届く。紅茶を啜っても、最初に感じるのは鉄で、紅茶の味はその奥に微かに残る程度だった。

 視界の端が滲んでいた。天井の木目が揺れて見える。壁と天井の境界線がぼやけている。目を凝らせば戻る。だが力を抜くと滲む。蝕の残滓。七回分の蝕が、感覚器官に焼き跡を残している。

 窓から春の光が差し込んでいた。暖炉に火が入っている。薪の匂い。古い木の壁の匂い。宿の匂い。ラスティカの日常の匂い。戦場の鉄と瘴気の匂いではない。日常が、ここにある。

 だが、日常の中に俺の体が戻りきっていない。

 ◇

 四日目の朝。ようやく体が起き上がった。

 シアが毎日治療に来てくれていた。白銀——ではなく、白銀と金色の中間の光。調和の光。シアが旅で習得した新しい聖属性。温かくて、柔らかくて、排除しない光。魔印を刺激しないから、治療の効果が以前より穏やかだった。劇的に回復するのではなく、少しずつ、体の中の炎症を鎮めていく。

 だが完全には戻らなかった。口の中の鉄の味は薄まったが消えない。視界の滲みは軽くなったが、完全にはなくならない。三日間の治療で「日常生活に支障がない程度」まで回復した。それが限界だった。

 ベッドから起きて、服を着た。鏡がなかった。この宿の部屋には鏡がない。だが、服を着る時に分かった。首の表面に、黒い紋様の感触がある。冷たくて、微かに脈打っている。襟を立てても隠しきれない。顎の下から首の側面に沿って、紋様が走っている。

 食堂に降りた。

 階段を降りて、食堂の入口に立った瞬間、空気が変わった。

 食堂にはラスティカの住人たちがいた。冒険者。商人。旅人。朝食を取っている。パンの匂い。焼いた卵の匂い。麦粥の匂い。日常の匂い。だが、俺が入口に立った瞬間、その日常が一秒だけ止まった。

 視線。

 複数の視線が、俺の首元に向いた。黒い紋様。服の襟から覗いている。隠せない。首の側面を這う黒い線。悪魔契約の証。

 囁き声が聞こえた。小さな声。聞こえないように話しているつもりだろうが、静まった食堂では聞こえる。「あの冒険者、首に黒い紋様が……」「悪魔契約者って本当だったのか」「でもあの人が大渦を——」「大渦を封じたのはあの人だろ?」「だからって、あの紋様は——」

 足が止まりかけた。

 一瞬だけ。一瞬だけ、食堂に入るのを躊躇った。紋様を見られている。判断されている。「救った」と「穢れている」が、同じ目の中で混ざっている。住人たちの目に浮かんでいるのは、感謝でも恐怖でもなく、どちらにも振り切れない曖昧な色。

 椅子が引かれる音がした。

 ドルクだった。

 禿頭。顎髭。腕を組まずに、食堂の中央のテーブルの椅子を引いて、座った。そして、向かいの椅子も引いた。俺のために。何も言わなかった。紋様を見ていなかった——いや、見えていた。ドルクの目は全てを見ている。見えていても言わない。言わずに、椅子を引く。

 座った。ドルクの向かいに。

 ドルクが手を上げて、女将のリタに声をかけた。「いつものを二つ」。いつもの。パンと麦粥と焼いた卵。カイトがラスティカに来た最初の日から、ドルクが注文してくれた「いつもの」朝食。

 リタが持ってきた。小さな女性。ドルクの妻。盆を置く手が一瞬だけ止まったが、すぐに動いた。「おはよう、カイト。……よく寝られた?」。声が普通だった。普通に聞こえるように、意識して普通にしていた。リタなりの気遣い。

 ドルクが何も言わずにパンを齧った。俺もパンを齧った。麦の味——の前に、鉄の味。だが、パンの温かさは伝わった。焼きたて。リタが焼いたパン。

 食堂の空気が、少しずつ動き始めた。ドルクが普通に食べているのを見て、住人たちも普通に戻っていく。囁き声が減っていく。日常が戻る。ドルクが座っているだけで、日常が戻る。二十年間この街を守ってきた男の存在が、空気を鎮めている。

 ドルクが麦粥を啜って、一言だけ言った。

「空が青いな」

 それだけ。窓の外を見ていた。昨日まで赤黒く染まっていた空が、今は青い。大渦を封じたから。カイトが七回の蝕で封じたから。ドルクはそれを知っている。だが「ありがとう」とは言わなかった。「空が青いな」とだけ言った。それで十分だった。

 ◇

 午後。ユイが見舞いに来た。

 アリアに連れられて、ミルフィ村から。アリアの亜麻色の髪が風に乱れていた。馬車で来たのだろう。ユイが診療所からではなく、直接ラスティカの宿に来ている。シアが「体が動けるようになりましたから」と許可したのだろう。

 ユイが部屋に入ってきた。紫がかった灰色の瞳。痩せた体。だが足取りがしっかりしている。半年前には歩くのもやっとだった少女が、今は一人で部屋に入ってくる。

 ユイの瞳が、俺の首元を見た。

 黒い紋様。首全体を覆いかけている。服の襟から覗いている。ユイの目には、表面の紋様だけでなく、その奥の構造も視えているのだろう。結び目。糸。黒い紋様の下にある、もっと深い構造。

 ユイは何も言わなかった。

 いつもの「大丈夫だよ、お兄ちゃん」を言わなかった。「怖くないよ」も言わなかった。何も言わなかった。

 黙って、俺の手を握った。

 小さな手。温かい。子供の手。力が弱い。だが離さなかった。握ったまま、ベッドの横の椅子に座って、黙っていた。紫がかった灰色の瞳が、俺の手の上の魔印を見ていた。左手首から始まる黒い紋様。ユイの手と、魔印の紋様が並んでいる。小さな手と、黒い線と。

 ユイの手が温かかった。魔印の紋様が冷たかった。温かさと冷たさが、手の上で隣り合っている。

 何も言わなかった。俺も。ユイも。言葉はなくても、手の温度が全部を伝えていた。

 ユイの診療所で活けた花の匂いが、ユイの服に残っていた。野花の甘い匂い。ミルフィ村の匂い。ユイが持ってきた、戦場ではない場所の匂い。

 ◇

 夕方。暖炉の前。

 メルティアが紅茶を淹れた。二つ。いつもの陶器のカップ。暖炉の炎が紅茶の水面に映って、小さな橙色の光が揺れている。

 一口啜った。

 砂糖が入っていなかった。いつもの味。千年のこだわりの、普通の紅茶。昨日——いや、三日前の大渦封印の後に淹れてくれた紅茶には、砂糖が一匙入っていた。今日は入っていない。

「昨日のは特別よ♪」

 メルティアが赤い瞳で俺を見て、言った。♪がついていた。♪が戻っている。大渦の前線にいた時には消えかけていた♪。ラスティカに戻って、♪が戻った。

 だが、♪の奥に——何かが砕けかけている音が聞こえた。聞こえるはずがない。♪は音だ。音の奥に音は聞こえない。だが、メルティアの赤い瞳が♪と矛盾していた。♪は軽い。赤い瞳は重い。千二百年前に同じ光景を見た瞳の重さが、♪の軽さを裏切っている。

 砂糖を入れなかったのは、日常に戻すためだ。特別な日は終わった。紅茶は普通の味に戻る。日常が戻る。メルティアの♪が戻る。全部が、元に戻ろうとしている。

 だが——。

 紅茶を啜った。鉄の味の膜を通して、紅茶の味が届いた。温かい。普通の味。だが、三日前に飲んだ砂糖一匙の甘さが、舌の記憶に残っていた。普通の味と、特別な味の差が。

 リーゼが碧い瞳で窓の外を見ていた。エリシアの資料が膝の上にある。法律書と、王立裁判所の記録。戦場から帰ってきても、リーゼは「その後」を信じている。

 マルクスが暖炉の前でノートに何かを書いていた。データ。カイトの回復速度。治療の効果。魔印の進行率。全部記録している。銀縁の眼鏡に暖炉の光が映っている。灰色の外套が、暖炉の光で少しだけ温かい色に見えた。

 シアがユイと一緒に隣の部屋にいる。ユイの治療。聖属性の調整。シアの調和の光で、ユイの体を整えている。壁越しに、白銀と金色の中間の光が微かに漏れている。

 窓の外を見た。ラスティカの夕暮れ。赤い瓦に夕日が映っている。丘陵の向こうに夕焼けが広がっている。春の空。穏やかな空。

 体は回復していく。三日かかったが、起き上がれるようになった。食事が取れるようになった。歩けるようになった。日常に戻っていく。

 だが、魔印は回復しない。首に刻まれた黒い紋様は、三日経っても薄まらない。シアの調和の光でも消えない。進行は止まっていないが、速度は落ちている。35%。ノアが最後に測った数字。

 体が回復するスピードと、魔印が進行するスピード。二つの時計が、同じ体の中で違う速度で動いている。

 回復するもの。回復しないもの。その差が、一日ごとに広がっていく。


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