表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/15

第8話 妹の見舞い

 遺跡探索の翌日、ミルフィ村に向かった。


 薬は先週、馬車便で送っていた。リーゼと出会った日の翌朝、薬屋に頼んで急便を出してもらった。だが、金だけ送って顔を見せないのは、兄として据わりが悪い。


 ラスティカから馬車で半日。街道を外れて山間の細い道に入ると、空気が変わった。松脂と土の匂いが薄れて、代わりに枯れ草と水の匂いが混じってくる。どこかで鶏が鳴いている。山の斜面に張りつくように、小さな家々が並んでいた。


 ミルフィ村。人口二百人の農村。ユイが一人で暮らしている場所。


「ちっちゃい村ね。……かわいい」


 メルティアが隣で呟いた。リーゼは今日は街に残っている。ギルドの依頼整理を手伝うと言っていた。気を遣ってくれたのだろう。妹の見舞いに他人が付いてくるのは、普通は気が引ける。


 ……悪魔が付いてきているのは、また別の問題だが。


「お前、村の中では術を使うな。小さい村だから、よそ者は目立つ」


「分かってるわよ。ただの旅のお姉さんとして振る舞うわ♪」


 不安しかない。


 村の入口で馬車を降りた。細い坂道を登る。石垣の上に菜園が広がっていて、大根の葉が風に揺れていた。すれ違った老人が俺を見て、ああ、と顔をほころばせた。


「カイトの兄ちゃんか。ユイちゃん喜ぶよ。薬届いて、だいぶ楽になったって」


「……そうか。よかった」


 胸の奥が緩んだ。間に合った。その事実が、足の裏から全身に伝わっていくような安堵だった。



 ◇



 診療所は村の中心にあった。木造の平屋。壁の白漆喰がところどころ剥がれていて、屋根の端に苔が生えている。古いが、掃除が行き届いていた。入口に干してある白い布が、秋の風にはためいている。


 戸を開けると、薬草の匂いがした。乾燥した葉と根の、苦くて温かい匂い。三年前に初めてユイをここに預けた日と同じ匂いだ。


 奥の部屋。障子を開ける。


 小さなベッドに、少女が座っていた。


 銀色がかった薄い茶色の髪。俺に似た灰色の瞳。だが、俺よりずっと穏やかで、光の加減で金色にも見える。頬は白い。白すぎる。病人の白さだ。だが、目だけは輝いていた。


「お兄ちゃん!」


 ユイが布団を跳ね除けて飛び起きた。


「こら、急に動くな」


「だってお兄ちゃん来たんだもん! お薬届いたよ、ありがとう!」


 小さな体が飛びついてきた。細い腕が俺の胴に巻きつく。軽い。恐ろしいほど軽い。十五歳の少女がこんなに軽くていいはずがない。骨と皮の感触が、外套越しに伝わってきた。


 頭を撫でた。髪は柔らかい。シャンプーなんて贅沢品はないはずだが、よく手入れされている。村のおばあちゃんが面倒を見てくれているのだろう。


「……元気そうだな」


「元気だよ! お薬のおかげで夜の咳も減ったし。えっと……あっ、お兄ちゃん痩せた?」


 ユイが俺の顔を見上げた。灰色の瞳が、兄の顔を隅々まで確認するように動く。


「食べてるよ。辺境のシチューがうまくてな」


「ほんと? 嘘じゃない?」


「嘘じゃない」


 半分は嘘だ。ここ数日はちゃんと食べているが、追放された直後は黒パンと水だけで凌いでいた。だが、そんなことをユイに言う必要はない。


「座って座って。おばあちゃんがお茶入れてくれるって」


 ユイがベッドの横の椅子を引いた。俺が座ると、ユイはベッドに戻って布団を膝にかけた。手足が冷えやすいのだろう。指先が青白い。


 診療所のおばあちゃんが茶を運んでくれた。粗末な陶器の湯呑みに、薬草茶。ほのかに甘い。


「お兄ちゃん、最近どうしてるの? お手紙にはあんまり書いてくれないんだもん」


「忙しかったんだ。辺境の街でギルドに登録して、依頼をこなしてる」


「一人で?」


「いや、パーティを組んだ。二人の仲間ができた」


「ほんと!?」


 ユイの顔がぱっと明るくなった。灰色の瞳が輝いて、頬にうっすら赤みが差す。病人の顔から、一瞬だけ、年相応の少女の顔になった。


「どんな人? 女の人? 男の人?」


「二人とも女だ」


「えっ! お兄ちゃんハーレム!?」


「違う」


「絶対ハーレムじゃん」


「違うから」


 ユイがけらけら笑った。咳が混じる。小さな咳。だが、前の手紙に書いてあった「夜に出る咳」よりはずっと軽い。薬が効いている。


「一人は剣士のリーゼっていう子で、もう一人はメルティアっていう魔法使い。リーゼは真面目で腕が立つ。メルティアは……まあ、自由な奴だ」


「メルティアさん、気になる。どんな人?」


「……説明が難しい。会えば分かる」


 メルティアは今、診療所の外にいるはずだ。「中には入らないわ。兄妹の時間を邪魔するのは野暮よ」と言って、村を散策している。人間の村を見るのが楽しいらしい。


 ユイと話した。


 村のこと。診療所のおばあちゃんのこと。隣の家の犬が子犬を産んだこと。畑の大根が今年は豊作なこと。小さな、何でもない話。


 ユイが一つ話すたびに、俺の中の何かがほどけていく。追放されてからずっと張りつめていた糸が、一本ずつ緩んでいく感覚。


 これだ。


 この子のために、俺は戦っている。この笑顔を守るために、悪魔に魂を売った。


 後悔はない。この瞬間だけで、十分すぎる報酬だ。


「お兄ちゃん」


 ユイの声が少し変わった。笑顔のまま。だが、声の奥に別の色が混じっている。


「無理、してない?」


 心臓が跳ねた。


「してないよ。仲間もできたし、依頼の報酬も安定してる」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 ユイが俺の顔をじっと見ていた。灰色の瞳が、笑顔の奥にある何かを探っている。


 ――この子は、昔から勘が鋭い。


「お兄ちゃん、左手」


「ん?」


「左手、ずっと袖の中に入ってる。寒いの?」


 呼吸が止まりかけた。


 俺は無意識に、左腕を袖の中に隠していた。魔印のある腕を。診療所に入った時からずっと、左手を外套の内側にしまっていた。


「……癖だ。気にするな」


「ふぅん」


 ユイは微笑んだ。それ以上は聞かなかった。


 だが俺は見た。一瞬だけ。ユイの灰色の瞳が俺の左腕に向けられた時、瞳の奥で何かが揺れたのを。驚きでも恐怖でもない。もっと静かな、何かを確かめるような色。


 気のせいだと思いたかった。



 ◇



 ユイの灰色の瞳には、他の人間に視えないものが視えている。


 魔素病の副作用。体内に過剰な魔素が蓄積した結果、魔力の流れが肉眼で視えるようになった。ユイ本人は、それが普通だと思っている。生まれた時からそうだったから。


 人には色がある。ユイにはそう視えていた。


 村のおばあちゃんは薄い緑色。温かくて、ゆっくり回っている。隣の家のおじさんは茶色。土みたいに穏やかな色。


 お兄ちゃんは、前に会った時、淡い銀色だった。澄んでいて、静かで、深い。綺麗な色だとユイは思っていた。


 今日のお兄ちゃんは、違った。


 銀色はまだある。だけど、左腕に――墨を流したような黒い靄が巻きついていた。前に会った時にはなかったもの。渦を巻いて、脈打っている。生きているみたいに。


 ユイは笑った。いつも通りの、兄を安心させるための笑顔で。


「お兄ちゃん、最近ちゃんとご飯食べてる? 痩せたんじゃない?」


 カイトが「食べてるよ」と笑い返す。


 ユイはその笑顔の奥に、自分と同じ種類の嘘を見つけた。


 この兄妹は、互いを守るために嘘をつく。それが二人の、不器用な優しさだった。


 ユイは布団の下で拳を握った。小さな、白い拳。


 ――お兄ちゃん。あの黒いの、なに?


 聞けなかった。聞いたら、お兄ちゃんが困る顔をするのが分かっていたから。



 ◇



 日が傾く前に村を出た。


 ユイは玄関先まで見送りに出てきた。細い足に草履を履いて、門の柱に手をついて立っている。風が吹くと体が揺れるほど華奢だったが、笑顔だけは揺るがなかった。


「また来てね、お兄ちゃん。今度はリーゼさんとメルティアさんも連れてきて」


「ああ。……体、大事にしろよ」


「お兄ちゃんこそ」


 手を振った。ユイが小さく手を振り返す。坂道を下りながら振り返ると、まだ立っていた。門の柱に手をついたまま、秋の夕日の中で、ずっと。


 坂の下で、メルティアが待っていた。


 村の石垣に腰かけて、空を見上げている。赤い瞳に夕焼けが映って、いつもより柔らかい色をしていた。


「終わった?」


「ああ」


「……泣きそうな顔してるわよ」


「泣いてない」


「泣きそう、って言ったの」


 言い返せなかった。


 街道に出て、ラスティカへの道を歩き始めた。夕日が長い影を作っている。二人分の影が、秋の枯れ草の上に並んで伸びていた。


 しばらく、どちらも黙っていた。


 メルティアが先に口を開いた。


「ねえ、カイト」


「なんだ」


「人間って、他人のために自分を犠牲にするのね」


 唐突な言葉だった。だが、声の調子がいつもと違う。軽さが消えている。


「犠牲?」


「あなたは妹のために悪魔に魂を売った。死後の行き先を差し出して、教会に追われるリスクを負って、左腕に消えない印まで刻んで。それを全部隠して、妹の前では笑ってる」


「…………」


「魔界にそういう生き物はいないの。悪魔は自分のために契約する。他者のために魂を差し出す存在なんて、いない」


 メルティアの声が、夕暮れの空気に溶けていく。風がなくて、声がどこまでも真っ直ぐ届く。


「だから、不思議なのよ。あなたが」


 俺はメルティアを見た。赤い瞳が、こちらを見ていた。夕日の逆光で表情が読みにくい。だが、瞳の中にある光は、からかいでも分析でもなかった。


 もっと純粋な何かだった。名前をつけるなら、好奇心か。あるいは、それに似た別の感情か。


「……不思議か。お前から見たら、そうかもな」


「ええ」


「俺はユイを守りたい。それだけだ。犠牲なんて大げさなもんじゃない。当たり前のことをしてるだけだ」


「その『当たり前』が、魔界にはないのよ」


 メルティアが微笑んだ。いつもの妖艶な笑みではなかった。もっと静かで、小さな笑み。月明かりの下で見つけた花みたいな、ひっそりとした表情。


 すぐに消えた。次の瞬間には、いつものメルティアに戻っていた。


「さ、帰りましょ。明日も依頼があるんでしょう?」


「ああ」


 歩き出した。


 背中にまだ、ユイの視線が残っている気がした。門に手をつきながら、兄の背中を見送っていた、あの目。


 左腕の魔印が、袖の下でかすかに熱を持っていた。


 ――いつか、この印のことをユイに話す日が来るのだろうか。


 来ないことを、祈った。



 ◆



 王都レグナシオン、冒険者ギルド本部。


「『聖剣の導き』様。先日の護衛依頼ですが、依頼主から報酬三割減額の申し入れが」


「……は?」


「到着の二日遅延と、護衛対象への損害を理由に――」


 レクスがカウンターを拳で叩いた。受付嬢が肩をすくめる。Aランクパーティが護衛で遅延するなんて、以前はなかった。


 ギルドを出る背中に、誰かの囁きが追いかけてきた。


「最近、あのパーティやばくねぇ?」


 聖剣の柄を握る手が、白くなるほど力んでいた。


読んで下さりありがとうございました!

★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!

Youtubeにて作品公開中!

http://www.youtube.com/@mizukara-h2z

ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ