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第78話 大渦

 風が悲鳴を上げた。

 朝。前線基地のテント。下級悪魔を追い払った翌日。疲労が残る体で干し肉を齧っていた。塩辛い。口の中の鉄の味と混ざって、不快な後味が喉を通っていく。テントの中に焚き火の煙と朝露の匂いが漂っている。穏やかな朝のはずだった。

 アリアの風読み通信が届いた瞬間、空気が裂けた。

 甘い風属性の残滓ではなかった。風そのものが悲鳴のような音を立てた。アリアの通信が通常の中継ではなく、全力の叫びだった。風読みの出力を限界まで上げている。二百キロの距離を、声ではなく感情ごと飛ばしてきている。

「カイト!」

 アリアの声が、テントの帆布を震わせた。声ではない。風圧。風読みの力が、声に物理的な圧力を載せている。

「ラスティカの南東——嘆きの地下墓地の跡地に——巨大な冥渦が開こうとしている」

 嘆きの地下墓地。嘆きの将軍を倒した場所。封印の完全崩壊を確認した場所。あの亀裂が——。

「規模が今までと桁違い。直径五十メートル以上。……あの場所の封印が、完全に砕けた。封印じゃない。地面そのものが裂けてる。空の色が変わってる。ラスティカからでも見える。南東の空が——赤黒くなってる」

 アリアの声が震えていた。風読みのAランクスキルを持つ女が、声を震わせている。魔素の風を読むのが仕事の女が、その風に恐怖している。

「……あの場所からラスティカまで、徒歩で半日。大渦が完全に開けば——ラスティカが飲まれる。ミルフィ村も。全部」

 干し肉が手から落ちた。石の地面に当たる小さな音。その音だけが、テントの中の沈黙に響いた。

 ラスティカ。ミルフィ村。ユイ。全部が、射程圏内。

 ◇

 立ち上がった。テントを出た。装備を背負う間もなく。テントの外は朝の冷気。針葉樹の匂いと、焚き火の灰の匂い。だがその匂いの向こうに、微かに金属の匂いが混じっていた。南西の方角から。ラスティカの方角から。大渦の瘴気が、ここまで流れてきている。

 リーゼが後ろから呼んだ。「カイト、待って! 装備を——作戦を——」

 止まらなかった。足が勝手に動いていた。頭が考える前に体が走り出していた。ユイがいる。ラスティカがいる。守らなければ。守らなければ。その二文字だけが、頭の中で反復していた。鉄の味が口の中に広がった。走っているだけで魔印が反応している。大渦の魔素との共振が、距離を超えて体に影響している。

 メルティアがテントから飛び出してきた。赤い瞳が俺の背中を見て、一瞬で判断した。

「行くわよ」

 短い声。♪がない。千年の存在が、緊急事態に余計な装飾を剥ぎ取った声。振り返って全員を促した。千二百年前にも同じことがあったのだろう。封印が砕ける時の空気の変化を、メルティアは体で覚えている。あの時は翼があったから、空を飛んで駆けつけられた。今は、地上を走るしかない。

 リーゼが碧い瞳を鋭くして、剣と最小限の装備だけを掴んでテントを出た。走りながらでも碧い瞳は情報を集めている。地形。風向き。太陽の位置。頭の中で、地図を描いている。

 シアが紫の瞳を見開いたまま、水晶球を懐に入れて駆け出した。走りながら水晶球を握りしめていた。ユイとの通信回路を維持するために。銀色の髪がフードから溢れている。フードを被り直す暇もない。

 マルクスが走った。銀縁の眼鏡を片手で押さえながら。灰色の外套が風に翻っている。走りながら言った。

「データ的に言えば、この大渦を封じなければ大陸の封印ネットワーク全体が連鎖崩壊します。嘆きの地下墓地の封印は、大陸中央の封印ネットワークのハブです。ここが完全に開けば、連鎖的に周辺の封印が崩壊する。前線で封じた冥渦も、再び開く可能性があります」

 走りながらデータを口にする。マルクスらしい。だがその声は、いつもの冷徹な報告ではなかった。息が荒い。眼鏡がずれている。

「走りましょう」

 マルクスの最後の一言に、データの冷徹さはなかった。ただの、人間の声だった。

 レクスが付いてきた。何も言わなかった。何も聞かなかった。赤い瞳で前を見て。灰色に変色した右手で赤黒い聖剣を握って。肩に担いで。引きずっていなかった。昨日見つけた「答え」がある。誰かの役に立つために走っている。

 聖騎士団の隊長が基地の外で立っていた。走り出す俺たちを見ていた。「……行くのか」。止めなかった。代わりに言った。「前線は聖騎士団が持つ。……行け」。白い法衣に泥と血がついた隊長が、追放者の集団を見送っている。

 ◇

 山を降りた。丘陵を越えた。

 メルティアの千二百年前の軍道を逆に辿った。来た時は三日かかった。帰りは——走った。全速力で。道中の風景が流れていく。針葉樹の林が広葉樹に変わり、岩場が草地に変わり、山の空気が丘陵の空気に変わった。

 走るにつれて、空気が変わっていく。針葉樹の匂いが薄まり、広葉樹の若草の匂いに変わっていく。春の匂い。だが、その匂いの上に重い層が被さっていた。金属の焦臭。冥渦の瘴気。ラスティカの方角から、風に乗って流れてくる。山岳地帯の冥渦よりも、はるかに濃い。肺に入ると重い。息が苦しい。走るたびに、喉の奥で鉄の味が濃くなっていく。

 空を見た。西の空——ラスティカの方角の空が、赤黒く染まっていた。夕焼けではない。朝なのに。大渦の魔素が大気に拡散して、空の色を変えている。離れた場所からでも見える規模。夏の入道雲のように、赤黒い闇が空の一角を占めている。それが、刻一刻と広がっていくのが分かった。走っている間にも。

 走りながら、アリアの風読み通信を受け続けた。断続的に。アリアの声が疲弊していく。全力の通信を何度も続けている。風読みの回数制限は一日五〜六回のはずだ。もう超えているかもしれない。

「ドルクさんがラスティカの冒険者を率いて防衛線を張ってる。大渦の周囲で魔物を押さえてる。Bランク以下の冒険者も総出で。リタさんが後方で負傷者の搬送を仕切ってる。……でも魔物の数が多すぎる。Aランクの魔物が複数同時に出てきてる。ドルクさんの顔に初めて——初めて焦りが見えた」

 ドルクが焦っている。二十年間辺境を守ってきた男が焦っている。あの樽のような体の、豪快な笑いの男が。「心配するな」とだけ言ってきた男が。それだけで、事態の深刻さが分かった。

 丘陵の最後の丘を越えた。ラスティカの街壁が見えてきた。赤い瓦の屋根。灰色の石壁。半年前に初めてここに来た時の風景。だが——南東の空が赤黒い。大聖堂の尖塔ではなく、冥渦の闇が空にかかっている。ラスティカの上空に、暗い影が覆い被さっている。街壁の向こうの丘が、赤黒い光に照らされていた。

 ユイの声が届いた。アリア経由。シアの水晶球を通して。

 声が——震えていた。

「お兄ちゃん」

 ユイの声が震えている。初めてだった。

 花を活けている時も。魔印のことを聞いた時も。村の外で戦闘が起きた時も。戦場の光が視えた時も。ユイは震えなかった。「怖くないよ。綺麗だもん」と笑っていた少女が。封印陣の光を「星みたい」と言っていた少女が。

「……黒い穴が、すごく大きくなってる」

 ユイの声が小さかった。だが、震えは止まらなかった。

「地面の青い線が全部切れていく。一本ずつ。見えるの。切れていくのが。さっきまで光ってたのに、一本ずつ消えていく。……星が消えるみたいに」

 星が消えるみたい。ユイが「星みたい」と言った封印陣の光が、今、一つずつ消えていく。ユイの目の前で。窓辺の花瓶の隣で。

「……怖い」

 ユイが「怖い」と言った。

 十四歳の少女が。初めて。

 足が速くなった。体の限界を超えて。左腕の魔印が脈打っている。大渦の魔素と共振している。大地の傷と、俺の体の中の傷が、同じリズムで脈打っている。口の中の鉄の味が血の味に変わっていた。走りすぎて唇を噛んでいたのか。それとも、体の内側から出ている味か。分からなかった。

 リーゼが隣を走っていた。碧い瞳が前を向いている。シアが走りながら白銀の光を放っていた。俺の体への魔素の侵入を軽減している。走りながらの浄化。メルティアが赤い瞳で赤黒く染まった空を見ていた。千二百年前にも同じ色を見たのだろうか。あの時は空を飛んで駆けつけた。今は地面を蹴って走っている。翼はない。だが足がある。

 レクスが何も言わず走っていた。灰色の右手が聖剣を握っている。赤い瞳が前を向いている。

 マルクスが銀縁の眼鏡を押さえながら走っていた。データでは測れない何かに突き動かされて。

 全員が走っていた。

 辺境へ。ラスティカへ。

 守るべきものがある場所へ。


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