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第4話 辺境の街へ

 翌朝、王都を出た。


 メルティアがくれた金貨一枚で馬車の乗合い代と旅路の食料を買い、残りはユイの薬代に回す。金貨は一万レド。薬代の三千レドを引いても七千レドは残る。しばらくは食いつなげる計算だ。


 門を抜けて街道に出た。朝の空気は冷たくて、吸い込むと肺の奥が痺れた。白い息が風に流れて、すぐに消える。


 王都の城壁が少しずつ遠くなる。三年間いた街だ。石畳の感触も、市場の喧噪も、ギルドのカウンターの刃物傷も。振り返りたくなったが、やめた。振り返ったところで、あの街に俺の席はもうない。


「あら、振り返らないのね。薄情な人」


 隣から声がした。


 メルティアだった。いつの間にか、すぐ横を歩いている。昨夜酒場で消えたはずなのに、朝露の匂いがする街道に、当然のような顔をして並んでいた。黒髪が朝の光を受けて、夜とは違う艶をしている。


「……お前、なんでいるんだ」


「言ったでしょ? 契約者の経過観察は悪魔の義務なの」


「観察って、ずっとついてくるのか」


「ええ、もちろん♪」


 にこりと笑う。赤い瞳が朝日に透けて、琥珀のような色をしていた。昨夜の妖艶さが嘘みたいに、今は妙に人間くさい表情をしている。


「嫌なら言ってくれていいけど。無視するから」


「…………」


 悪魔の自由意志は止められないらしい。


「目立つ。その格好」


 メルティアの服装は黒いドレス風の外套に、銀のアクセサリー。冒険者というより貴族の令嬢だ。街道で浮きまくる。


「大丈夫よ。認識阻害をかけてるから、他の人には地味な旅の女くらいにしか見えないわ」


「便利だな」


「悪魔をなめないでちょうだい」


 胸を張る。風で黒髪がなびいた。


 ……本当に悪魔なのか、こいつ。



 ◇



 行き先は辺境の街ラスティカ。王都から馬車で五日。王国の北端にある前線都市で、ユイの暮らすミルフィ村から一番近い街でもある。


 馬車を乗り継ぎながらの五日間で、メルティアは予想以上に面倒だった。


 街道の途中で野営をすれば、焚き火の前にしゃがみこんで炎に見入っている。「ねえ、この火って木を燃やしてるのよね。人間の発明って素敵」。知識としては知っているのに、実物に感動するらしい。宿場町で食事をすれば「このスープ! 何これ、おいしい。人間界の食文化は素晴らしいわ」と目を輝かせ、店主に作り方を聞いてメモまで取っていた。朝、俺が井戸水で顔を洗っていると「人間って毎日顔を洗うの? 律儀ね」と真顔で聞いてくる。


 上位悪魔とは思えない。


 だが、ぞっとする瞬間があった。


 三日目の夜、街道で追いはぎに遭いかけた。三人組の男たちが道を塞いだ。ナイフを抜いて、金を出せと凄んでいる。


 俺が身構える前に、メルティアが一歩、前に出た。


 何もしなかった。ただ、微笑んだだけだ。


 三人の男たちは、足を止めた。ナイフを持つ手が震えている。一番前の男の目が見開かれ、顔から血の気が引いていくのが、月明かりの下でもはっきり分かった。


 三秒後には、三人とも走って逃げていた。


「何をしたんだ」


「ちょっと本性を見せただけよ」


 振り返ったメルティアは、もういつもの笑顔に戻っていた。月光に照らされた赤い瞳に、追いはぎたちの恐怖の残滓みたいなものが、ちらりと映ったような気がした。


 この女は、普段がどうであれ、悪魔だ。忘れちゃいけない。



 ◇



 五日目の午後、ラスティカに着いた。


 王都とは真逆の街だった。城壁は低くて、ところどころ補修の跡がある。石畳じゃなくて土の道。建物は木造が多くて、屋根に雪除けの板がついていた。北の辺境だから、冬は雪が積もるのだろう。街を包む空気の匂いからして違う。王都は石と馬糞と香辛料の匂いだったが、ラスティカは土と松脂と鍛冶場の煤の匂いがする。


 すれ違う人間の目が、王都とは違った。身なりや肩書きじゃなく、こっちの顔をちゃんと見る。辺境は身元を気にしない文化だと聞いたことがある。訳ありの人間が流れ着く場所。


 追放者には、ちょうどいい。


 冒険者ギルド支部は、街の中央にあった。王都の本部と比べると小さい。受付は二つしかないし、掲示板も一枚だ。だが建物自体はしっかりしていて、壁には魔物の角や牙がトロフィーのように飾ってある。どれも古くて黄ばんでいるが、大きい。辺境で戦ってきた冒険者たちの歴史が、そこに並んでいた。


「登録をしたい。王都から移ってきた」


 受付の男――四十がらみの、日に焼けた顔に無愛想な目をした男が書類を受け取った。指が太い。元冒険者だろう。


「灰原カイト。スキル【魔力親和】、F。ランクF。……ソロか」


「ああ」


「Fランクのソロは辺境じゃ珍しくねぇ。依頼は掲示板から好きなのを取れ。Fランクの枠は右端だ」


 王都の受付嬢と違って、気を遣う様子もない。淡々としている。それがかえって楽だった。同情も軽蔑も、今の俺には重すぎる。ただ事務的に処理してくれるのが一番ありがたい。


 掲示板を見た。Fランクの依頼は王都と大差ない。薬草採取。害獣駆除。荷運び。


 ただ、その隣――Eランクの欄に、一枚の紙が赤い枠で囲まれていた。


 『緊急依頼:ゴブリン討伐 報酬:銀貨五枚 街道北のクルミ林にゴブリンの群れが出没。商人の被害あり。至急対処を求む。ランク制限:E以上(ただし志願者不足のため、F冒険者の受注も応相談)』


 銀貨五枚。五百レド。Fランク依頼の十倍以上だ。


「あの緊急依頼、Fでも受けられるのか」


 受付の男が眉を上げた。


「受けられるが、勧めはしねぇ。ゴブリンの群れは十匹前後いる。Fランクのソロで突っ込むのは自殺行為だ」


「受ける」


「……聞こえなかったか? 自殺行為だと言ったんだ」


「聞こえてる」


 受付の男が数秒、俺の目を見た。太い指がカウンターを叩く。それから、ふんと鼻を鳴らした。


「死んでも文句は言うなよ」


「ああ」


 依頼書を受け取って、ギルドを出た。



 ◆



「聞いたか? 勇者パーティ、オーク討伐に丸一日かかったらしいぜ」


「マジかよ。前は半日で片付けてたのに」


 王都の酒場の片隅で交わされる噂話を、レクスは聞こえないふりをした。


 ジョッキを握る手に力が入る。指の関節が白くなるほど。


 今日の依頼も手間取った。本来なら余裕のはずの中級魔物に、二時間近くかかった。聖剣の切れ味が鈍い。あの澄んだ光が日に日に薄くなっている。


 荷物持ちが一人いなくなっただけだ。こんなことがあるはずがない。


 あるはずがないのに。



 ◇



 クルミ林は、ラスティカの北門から歩いて一時間ほどの場所にあった。


 秋の終わりの林は葉が半分落ちて、木々の間から灰色の空が覗いている。地面には枯れ葉が厚く積もっていて、歩くたびにかさかさと乾いた音がした。湿った土と腐葉土の匂い。どこかで小鳥が鳴いている。


「ゴブリンってどんな魔物なの?」


 後ろを歩くメルティアが聞いてくる。外套の裾が枯れ葉を踏んで、さくさくと軽い音を立てていた。


「知らないのか」


「悪魔と人間の魔物は管轄が違うのよ。地上の小物には興味がなかったの」


「……小さくて緑色で、群れで襲ってくる。一体一体は弱いが、数が多いと厄介だ」


「ふぅん。つまり、あなたの腕試しにはちょうどいいわけね」


 腕試し。確かにそうだ。契約してから、まだ一度もまともに魔法を使っていない。酒場で指先に灯した炎は遊びだ。実戦で七つの属性が通用するのか、正直分からない。


 だが、不安に浸っている余裕はない。薬代を稼ぐには、依頼をこなすしかない。


 林の奥に進むと、異臭がした。生ゴミと獣が混ざったような匂い。甘ったるい腐敗臭が混じっている。ゴブリンの巣が近い証拠だ。


 木の陰に身を隠して覗くと、少し開けた場所にゴブリンがいた。


 十二匹。


 緑色の肌。膝ぐらいの背丈。手には粗末な棍棒や錆びたナイフ。黄色い目がぎょろぎょろと動いている。奪ってきたらしい荷物を漁っていて、中身を巡って二匹が噛み合いの喧嘩を始めた。キキキ、と甲高い鳴き声が林に響く。


 十二匹。Fランクのソロなら、確かに自殺行為だ。


 だが。


 右手を前に出した。


 意識を集中する。体の奥にある魔力の渦に、そっと手を伸ばす感覚。昨夜からずっとそこにある、七つの属性の流れ。その中から、一つだけ選ぶ。


 火。


 呼んだ瞬間、胸の奥で何かが燃えた。怒りに似た熱。だけど怒りじゃない。もっと純粋な、原初的なエネルギー。血液が沸騰するような感覚が指先に集中していく。


 掌の上に炎が生まれた。酒場で灯した小さな火とは比べものにならない。拳二つ分の赤い火球が回転しながら浮かんでいる。熱風が顔を撫でた。眉毛が焦げそうだ。だけど、火傷はしない。俺の魔力が、炎を制御している。


 ゴブリンの一匹がこちらに気づいた。キィッ、と甲高い声を上げる。十二の黄色い目が一斉にこっちを向いた。


 遅い。


「――燃えろ」


 火球を放った。掌から離れた瞬間、炎が一回り膨れ上がった。空気を引き裂く音。火球が弧を描いて飛び、ゴブリンの群れの中心に落ちた。


 轟音。


 熱風が髪を薙いだ。地面の枯れ葉が巻き上げられ、一瞬で灰になる。煙の中に火の粉が舞って、焼けた土と焦げた肉の匂いが鼻を突いた。


 煙が晴れると、ゴブリンの群れは跡形もなかった。


 十二匹。一撃。


 自分でも呆然とした。威力の加減が分からなかった。もう少し弱くていい場面だった。掌を見る。火傷はない。指先がほんの少し熱を持っているだけだ。


 口の中に、鉄の味が広がっていた。前にもあった。契約直後の覚醒の時と同じ味だ。


「お見事」


 メルティアが拍手した。ぱちぱちと、のんびりした手拍子。焼け跡の煙の中に立っていて、煤の一つも付いていない。


「制御は雑だけど、威力は申し分ないわ。やっぱり素質があるのね」


「……出すぎた。もう少し抑えたかった」


「練習あるのみよ」


 ゴブリンの巣の跡を確認した。討伐の証拠として耳を集める必要があるが、燃え尽きていて原形がほとんどない。焼け焦げた地面に、棍棒の柄の残骸が転がっているだけだ。


「討伐証明、どうしよう」


「巣の残骸と焼け跡で十分よ。ギルドに現場検証を頼めばいいわ」


 帰り道、左腕の魔印が少しだけ疼いた。袖をまくって確認する。黒い紋様は契約時と変わっていない。広がってはいない。火属性だけなら、魔印は反応しないらしい。


 ……確認しないで済むなら、それに越したことはない。袖を下ろした。



 ◇



 ギルドに戻って報告した。


 受付の男は、報告書を読んで眉をひそめた。太い指が紙の上を二度、三度なぞる。


「……ゴブリン十二匹を単独で殲滅。焼却痕あり。所要時間、一撃」


「ああ」


「お前、本当にFランクか」


「スキル鑑定の結果がFだ。文句はギルドの鑑定士に言ってくれ」


 受付の男が腕を組んだ。何か言いたそうに口を開きかけて、結局閉じた。銀貨五枚を並べただけだ。無骨な指でカウンターに一枚ずつ置く、その金属の音が、やけに心地よかった。


「……次も緊急依頼があれば、声をかける。お前みたいなのは辺境じゃ助かる」


「頼む」


 銀貨五枚を受け取って、ギルドの酒場に向かった。


 席について、今日は少しだけいい食事を頼んだ。温かいシチューとパン。皿から立ち上る湯気に、じゃがいもと塩漬け肉の匂いが混じっている。スプーンで掬ったひと口目が、舌の上でじんわりと広がった。温かい。こんな温かい飯は、いつ以来だろう。


 メルティアは向かいの席で、エールを嬉しそうに飲んでいた。ジョッキを両手で包んで、リスみたいに一口ずつ飲んでいる。


「人間界のお酒って最高。魔界にはこういうのないのよねぇ」


「……お前、本当に上位悪魔なのか」


「失礼ね。上位悪魔だからこそ、質の良いものが分かるの」


 意味が分からなかった。


 シチューを食べながら、計算する。今日の報酬は銀貨五枚。五百レド。同じペースで依頼をこなせば、六日で薬代の三千レドに届く。メルティアの金貨と合わせれば、もう手元に十分ある。


 間に合う。初めて、間に合うという確信が胸の中に落ちた。掌の中のスプーンが、ほんの少し震えた。安堵なのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からなかった。


 隣のテーブルで、冒険者たちがこちらを見ていた。ちらちらと、遠慮のない視線。


「おい、あの新入り見たか? ゴブリン十二匹を一撃でやったって」


「嘘だろ。Fランクだぜ?」


「受付のおっさんが言ってたんだから本当だよ。上級の火属性魔法らしい」


「Fランクスキルで上級魔法? そんなことあり得んのか」


 噂が広がるのは早い。小さな街だから、なおさらだ。


 目立ちたくはない。だが、力を隠して薬草を摘んでいる余裕は、もうない。


 シチューを食べ終えて、スプーンを皿に置いた。陶器がかちりと鳴った。


 明日もゴブリンか、あるいはもっと上の依頼が来るかもしれない。どちらにしろ、やることは変わらない。稼ぐ。ユイを守る。それだけだ。


 左腕の魔印が、袖の下でかすかに熱を持っていた。


 ――だが、その力の出所を知る者がいたら。


 この街の温かいシチューの味は、一瞬で灰になるだろう。


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