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第3話 悪魔の契約

 赤い瞳が、猫のように細くなっている。


 俺は椅子を蹴って立ち上がろうとした。だが体が動かない。恐怖で固まったんじゃない。赤い瞳に、縫いとめられていた。視線そのものに重さがある。空気が粘度を増して、体の自由を奪っていく。


「そんなに怖い顔しないで。別に、今すぐ食べたりしないわ」


 女が――いや、こいつは女じゃない。魂の取引を持ちかけてくる存在なんて、一つしかいない。


 悪魔だ。


 酒場は相変わらず騒がしい。隣のテーブルでは冒険者たちが大声で笑っている。肉の焦げる匂い。ジョッキがぶつかる音。こっちの異変に気づいている人間は、一人もいない。


「……周りの奴らは」


「見えていないわ。ちょっとした術をかけてるの。私たちの周りだけ、他人の意識から滑り落ちるようにね」


 さらりと恐ろしいことを言う。この混雑した酒場の中で、誰にも気づかれずに俺の前に座り、空間ごと隠蔽する。それが「ちょっとした術」。


 格が違う。俺が三年間パーティで見てきたどんな魔法使いとも、次元が違う。


「……名前は」


「メルティア。よろしくね、カイト」


 名前を呼ばれた。教えていないのに。ギルドカードを見せたわけでもない。


「何が目的だ」


「さっき言ったでしょ? あなたの魂の、死後の行き先がほしいの」


「それが目的だとして。なんで俺なんだ」


 メルティアの赤い瞳が、ほんの一瞬だけ見開かれた。それからすぐに細くなる。面白いものを見つけた子供みたいな表情だった。


「あら。自分に価値がないと思ってる?」


「Fランクの外れスキルだ。魂を取るなら、もっといい相手がいるだろ」


「鑑定士がバカなのよ」


 あまりにもあっさり言い切った。テーブルに頬杖をついたまま、爪先で木目をなぞっている。退屈そうに見える仕草なのに、目だけが獲物を離さない猛禽のそれだった。


「【魔力親和】。あらゆる属性の魔力と共鳴し、取り込み、制御する力。正しく覚醒すれば、全属性の魔法を操れる」


 全属性。


 火、水、風、土、雷、光、闇。七つの属性全てを使える魔法使いなど、歴史上の伝説にしか存在しない。三属性で天才と呼ばれる世界で、七つ全てなんてありえない。


「馬鹿言うな。全属性なんて、おとぎ話だ」


「おとぎ話の根拠になった人間が、過去に何人かいたとしたら?」


 冗談の色が消えた。赤い瞳が真っ直ぐに俺を射る。ランプの光が揺れているのに、あの瞳だけは微動だにしない。


「あなたのスキルは眠っているの。鑑定で測れないほど深い場所に。だから効果不明、分類不能。当たり前よ。既存の尺度で測れるような力じゃないもの」


 心臓が早くなっている。こめかみの血管が脈打つのが分かる。


 嘘か本当か、今の俺には判断できない。だけど、この悪魔の言葉には、腹の底に落ちる重さがあった。


 アリアが言っていた。俺の周りだけ、魔力の流れがおかしかったと。


 レクスが言っていた。俺がいると、聖剣が重くなると。


 あれが、全部本当だったとしたら。


「私が契約であなたに与えるのは、新しい力じゃないわ」


 メルティアが白い指を一本立てた。


「あなたの中に最初からある力を、目覚めさせるだけ。鍵を開けるの。あとは、あなた自身の才能よ」


「…………」


「代償の話をするわね」


 声のトーンが少しだけ変わった。甘さが薄れて、底に硬いものがのぞく。商人が契約書を広げる時の、あの空気。


「あなたの魂の『死後の帰属先』を私にちょうだい。生きている間は何も変わらない。自由に生きて、自由に戦って、自由に誰かを愛していい。ただ、死んだ後の魂の行き先が天界じゃなくて魔界になる。それだけ」


 それだけ、と言った。


 だが、その「それだけ」がどれほど重い意味を持つか、俺は知っている。


 悪魔との契約は、この世界で最大の禁忌だ。教会が最も厳しく禁じている行為。発覚すれば異端審問にかけられ、最悪の場合は火刑に処される。社会的にも人間扱いされなくなる。


 悪魔契約者。その烙印は、一生消えない。


「……契約した証は残るのか」


「魔印が体に刻まれるわ。左腕にね。普段は服で隠せるけど、高位の聖職者が注意して見れば気づく可能性がある」


「つまり、バレる」


「ゼロじゃないわね」


 メルティアが微笑む。歯を見せない、薄い笑み。


「でも私は上位悪魔よ。隠蔽はそれなりに得意。普通の聖職者程度なら気づかない。教会の異端審問官クラスが、意識的に調べなければね」


 沈黙が落ちた。


 酒場の喧噪は続いている。だが俺の耳にはもう、届いていなかった。周囲が隠蔽されているのか、俺の聴覚がおかしくなっているのか。どちらでもよかった。


 全属性魔法。


 もしそれが本当なら。Dランク、Cランク、いやそれ以上の依頼をこなせるようになる。ユイの薬代なんて、すぐに稼げる。


 そのために差し出すのは、死後の魂の行き先。


 テーブルの上に、視線が落ちた。ジョッキの隣に、ユイの手紙がある。さっき懐から出したまま、しまい忘れていた。折り目がよれた紙。丸い字。「大丈夫」と書いてあるのに、行の端が震えている手紙。


 あと九日。


 Fランクの依頼をこなし続けても、薬代には永遠に届かない。計算はもう何度もした。答えはとっくに出ている。


 Fランクの俺にユイを救う手段は、ない。ないはずだった。


 目の前に、一つだけ道が開かれている。


 その道の先にいるのは悪魔で、代償は魂で、選んだ瞬間に俺は人間社会の最大の禁忌を犯すことになる。


 手紙を取り上げた。指先にユイの丸い字が触れる。紙は何度も折られたせいで柔らかくなっていて、指の熱を吸い取るように冷たかった。


「……一つ、確認させてくれ」


「なに?」


「俺がこの力で金を稼いで、妹の薬を買う。それを邪魔しないか」


 メルティアが、少しだけ目を丸くした。


 それから、笑った。さっきまでの妖艶な笑みとは違う。何と呼べばいいのか分からない、不思議な表情。口元は柔らかいのに、目の奥にちらりと硬い光がよぎった。


「しないわ。あなたの生き方には一切干渉しない。契約条項よ」


「……分かった」


 手紙を懐にしまった。


 深く息を吸う。酒場の油と酒と汗が混じった空気が、肺の奥まで染みた。重くて、泥臭い、人間の匂いだった。


「契約する」


「本当に? もう少し考えなくていいの?」


「俺の死後のことなんて、どうでもいい」


 メルティアを見た。赤い瞳を、まっすぐに。


「今、妹を救える力をくれ。それだけだ」


 一拍の沈黙。


 メルティアの目が、すっと細くなった。


「――気に入ったわ」


 白い手が伸びてきた。


「左腕を出して」


 俺は左腕をテーブルの上に乗せた。袖をまくる。下水道で汚れた腕。爪の間にまだスライムの粘液が残っている。


 メルティアの指が、俺の腕に触れた。


 冷たかった。氷に触れたような、人間の体温とは明らかに違う冷たさ。指先から腕の骨を通って、肩まで冷気が伝わっていく。


「少し、痛いわよ」


 その瞬間――左腕が、燃えた。


 比喩じゃない。腕の内側から焼かれるような、骨の髄まで届く激痛。歯を食いしばった。奥歯がきしむ。声が漏れそうになるのを、喉の奥で殺した。


 腕を見下ろす。


 皮膚の上に、黒い紋様が浮かび上がっていた。手首から肘にかけて、墨を流したような複雑な模様。蔦のように枝分かれし、脈打つように明滅している。浮かび上がるたびに皮膚の下が熱くなり、引っ込むたびに冷える。呼吸するように、明滅している。


 魔印。悪魔との契約の証。


「契約成立」


 メルティアの声が聞こえた。だが、もう俺の意識はそこにはなかった。


 体の奥で、何かが弾けた。


 鍵が開く音がした。聞こえるはずのない音。だけど確かに、体の一番深いところで、かちり、と。


 そこから先は、嵐だった。


 胸の奥で炎が燃えた。怒りに似た熱。内臓が焼かれるような錯覚と同時に、全身の血が沸騰する。


 直後に、思考が水のように澄んでいく。冷たく、深く、透明に。さっきまで燃えていたはずの体が、今度は川底に沈んだように冷えていく。


 風が全身を駆け抜ける。体が羽のように軽くなる。重力が消えた。椅子に座っているはずなのに、宙に浮いている感覚。


 足元から、大地の重みが伝わってくる。どっしりとした安心感。地面に根を下ろしたような、揺るがない何か。帰る場所がある感覚。


 指先に雷が走る。世界が一瞬だけ止まった。酒場の喧噪が凍りつき、ランプの炎が固まり、空気の粒子一つ一つが見えるような錯覚。


 光が、体の内側から溢れ出す。


 そして闇が、その光を包み込む。


 七つの属性が、同時に、俺の中で目覚めていた。


 火。水。風。土。雷。光。闇。


 それぞれが違う感覚で、違う温度で、違う色で、俺の中に流れ込んでくる。制御なんてできない。洪水だ。情報の洪水が、脳を灼いている。


「……っ、は――」


 テーブルに手をついた。息が荒い。視界が明滅する。木目の一本一本が妙にくっきり見えたかと思うと、次の瞬間には酒場全体がぐにゃりと歪む。


 口の中に鉄の味が広がっていた。舌の上に金属を置いたような、あの味。


「大丈夫?」


 メルティアの声が、やけに遠い。


「な、に……これ」


「あなたの力よ。最初からあなたの中にあった力。私はただ、蓋を開けただけ」


 息を整える。少しずつ、嵐が収まっていく。七つの属性が暴れるのをやめて、体の中で静かに渦を巻き始める。波が引くように。ただし、波が残した痕跡が全身の隅々に沁みている。


 右手を見た。開いて、閉じる。指先に意識を集中すると、ぼっ、と小さな炎が灯った。掌の上で揺れる赤い火。熱い。だけど、火傷はしない。俺の魔力が、炎を包んでいる。


 消す。次は水。掌の上に、拳大の水球が浮かんだ。冷たい。指先の感覚が一瞬で研ぎ澄まされる。


 消す。風。髪が揺れた。土。足元が重くなる。雷。指先に稲光が弾けて、ぱちん、と空気が焦げた。


 全部、使える。本当に、全部。


「ふふ。いい顔してるわ」


 メルティアがテーブルの向こうで頬杖をついている。赤い瞳が三日月に弧を描いていた。


「思った以上に素質があるじゃない。全属性が一度に目覚めるなんて、私も初めて見たわ」


 俺は左腕を見た。黒い魔印が、手首から肘まで刻まれている。さっきの明滅はおさまって、今は静かに皮膚の上に沈んでいる。触れると、周囲の皮膚よりほんの少しだけ温かかった。


 これが、代償の印。俺はもう、悪魔契約者だ。


 袖を下ろして魔印を隠した。


 不思議と、後悔はなかった。恐怖はある。教会に見つかったらどうなるか、想像するだけで胃の底が冷える。だけど、その冷たさよりも、指先にまだ残る七つの属性の熱の方が、はるかに強かった。


 ユイの薬を、買える。それだけで、十分だった。


「メルティア」


「なぁに?」


「……これからどうなる」


「どうもしないわよ。あなたの好きに生きなさい。ただ、一つだけ」


 メルティアが立ち上がった。黒髪が揺れる。ランプの光が髪の表面を滑って、一瞬だけ青く光った。


「契約者の経過観察は悪魔の義務なの。だから、しばらく一緒にいるわね」


「……は?」


「よろしく、カイト。私のかわいい契約者マスター♪」


 返事をする前に、メルティアは酒場の雑踏に紛れて消えた。まばたき一つの間に。さっきまで確かにあった甘い香りだけが、鼻の奥にかすかに残っていた。


 残されたのは、俺と、左腕の魔印と、指先にまだ残る七つの属性の余韻だけ。


 テーブルの上に、コインが一枚置かれていた。俺のものじゃない。メルティアが消える直前に置いたのか。


 金貨だった。平民の一ヶ月分の生活費。


 ……悪魔のくせに、気が利く。


 俺は金貨を握りしめて、小さく笑った。笑ったのは、追放されてから初めてだった。口の端が引きつっているのが自分でも分かる。でも、これは笑いだ。間違いなく。



 ◆



 同時刻、王都近郊の街道。


 聖剣を振り下ろした。いつもなら甲殻甲虫の胴を両断するはずの一撃が、硬い殻に弾かれる。手首に痺れが走った。


「……っ」


「レクス、どうした? 今日キレ悪くない?」


 セレナの声が後方から飛ぶ。弦を弾く音。矢が甲殻甲虫の脚を貫いた。


「うるせぇ、ただの不調だ」


 レクスは聖剣を見つめた。白銀のはずの刃が、どこか曇って見える。あの澄んだ輝きが薄い。まるで何かが抜け落ちたような。


 まさか、あいつを切ったせいか。


 ――いや、あり得ない。荷物持ちを一人減らしただけだ。


 レクスは首を振り、もう一度剣を構えた。柄を握る手に汗がにじんでいた。


 だが聖剣は、以前のようには応えてくれなかった。


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