第20話 布石
穏やかな日々が続いていた。
噂は相変わらず街に漂っているが、渓谷での救援以来、少しだけ空気が変わった。石を投げた冒険者の一人がギルドの酒場で「あいつに助けられた」と周囲に話したらしく、態度を軟化させる者が出てきた。まだ視線は残るが、空席の半径が一テーブル分に縮まった。
リタは相変わらず「はいはい、書類はちゃんと書いてね」と言いながら依頼を受理してくれる。ドルクは俺の顔を見るたびに「まだ生きてるか」と言って豪快に笑う。
依頼をこなし、報酬を得て、ユイの薬を送る。四人での生活が、日常の形を成していく。
毎晩、シアが俺の左腕に聖属性の治療を施していた。
宿の部屋。俺が袖をまくり、シアが両手を魔印の上に置く。白銀の光が流れ込む。魔印の脈動が穏やかになる。進行は止められないが、速度を抑えることはできる。
「……今日も、少しだけ広がってるわね」
シアの声が小さかった。紫の瞳が、肩の付け根まで達した魔印を見ている。
「鎖骨の手前で止まってるだろ。大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです。このペースだと……」
「シア」
「……はい」
「お前の聖属性がなかったら、もっと広がってた。感謝してる」
シアは何か言いたそうだったが、唇を結んで頷いた。白銀の光を少しだけ強めて、魔印の縁を丁寧に撫でるように鎮めていく。
リーゼが部屋の入口に寄りかかって、その光景を見ていた。碧い瞳に複雑な色が浮かんでいる。自分にはできないことをシアがやっている。それが嬉しくもあり、歯がゆくもある、という顔。
「リーゼ」
「何」
「お前にしかできないこともある」
「……言われなくても分かってるわよ」
ぶっきらぼうだが、口元が微かに緩んだ。
メルティアが廊下から顔を覗かせた。
「治療終わった? 夜食に焼きリンゴを作ったのだけど」
「お前、料理できたのか」
「焼いただけよ♪」
「それは料理とは言わない」
「リンゴを火にかけるのは立派な料理よ」
四人で焼きリンゴを食べた。甘くて温かい。シアが「おいしいです」と笑って、リーゼが「悪くないわね」と認めて、メルティアが「でしょう?」と胸を張った。
これが日常だ。追放者たちの、小さな楽園の夜。
この時間がいつまで続くか分からないことだけが、胸の奥に刺さっている。
◆
王都レグナシオン。
ギルド本部の応接室。窓から差し込む夕陽が、磨かれた机の上に赤い光を落としている。
レクス・グランディアは、一枚の紙を見つめていた。
正式通知。パーティ「聖剣の導き」。ランク評価をBに降格。
暫定ではない。正式な降格。Aランクパーティの称号が剥がれた。三年間背負ってきた看板が、紙一枚で消えた。
紙を置いた。手が震えていた。
応接室には三人がいる。ガルド。アリア。セレナはいなかった。
セレナは、二日前に去った。
荷物をまとめて、宿の部屋の鍵を受付に返して、一言だけ言い残した。
「悪いけど、沈む船に最後まで付き合う趣味はないの」
猫のように鋭い目で、レクスを一瞥した。そこに憎悪はなかった。侮蔑もなかった。ただ計算の結果が出た、という顔だった。利害で結びついた関係は、利害が消えれば解ける。それだけのことだった。
セレナが去り、三人になった。
ガルドが椅子に座っている。大きな体を縮めて、両手を膝の上で握りしめている。坊主頭の額に汗が浮いている。何か言いたそうだが、言葉が出てこない。いつも通りだ。この男は自分で考える力が弱い。レクスが指示を出さなければ動けない。
「レクス様……俺たち、これからどうすれば……」
「黙ってろ」
レクスの声が鋭かった。ガルドがびくりとして口を閉じた。
レクスは窓の外を見ていた。王都の街並み。夕陽に染まった屋根が連なっている。三年前、勇者に選ばれた日に見た景色と同じだ。あの日は世界が自分のものだった。今は、窓の外の景色だけが残って、中身が全部抜け落ちた。
「……レクス」
アリアの声が、静かに響いた。
亜麻色のセミロング。眼鏡の奥の瞳が、レクスを見ている。いつもは俯きがちなアリアが、まっすぐにレクスを見ていた。
「話がある。……大事な話」
「何だ」
「辺境で。カイトに会った時のこと」
レクスの金色の瞳が、アリアに向いた。
「カイトの力の正体。……私には分かった。あの時、風読みのスキルで感知していた」
アリアの手が震えていた。膝の上で、指が絡み合っている。言葉を選んでいる。何ヶ月も飲み込んできた言葉を、今ようやく吐き出そうとしている。
「カイトは――悪魔と契約している」
応接室の空気が止まった。
「カイトの左腕に、悪魔の契約印がある。あの異常な魔力。全属性を使える力。全部、悪魔から得たもの」
アリアの声が震えていた。だが、言葉は止まらなかった。
「私はあの日、感知した。カイトの左腕の周りに渦巻く黒い魔力。あれは人間のものじゃない。教会の資料と一致する。悪魔契約者の特徴と完全に一致する」
レクスは動かなかった。金色の瞳がアリアを見つめている。表情が読めなかった。怒りでも驚きでもない。何かを待っていた顔。パズルの最後のピースが嵌まるのを待っていた顔。
「……なぜ今まで黙ってた」
「言えなかった。カイトは……悪い人じゃない。追放された後も、私を恨んでいなかった。あの人を売るようなことは、したくなかった」
アリアの声が、途切れた。目の奥が光っている。泣きそうだ。だが、泣かなかった。
「でも、レクス。あなたがこのまま没落していくのを黙って見ているのも、できない。あなたは私の幼馴染だから。勇者になる前の、あの頃のあなたを知っているから」
レクスの金色の瞳が、微かに揺れた。一瞬だけ。
だが、すぐに消えた。揺らぎが消えて、代わりに別のものが灯った。
冷たい光。計算の光。追い詰められた人間が、最後に残された手札を見つけた時の光。
「……悪魔契約者か」
レクスの声が、低く変わった。
「悪魔に魂を売って力を得た。それがカイトの正体」
「レクス……私はカイトを攻撃してほしくて言ったんじゃ——」
「アリア」
レクスがアリアを見た。金色の瞳が、夕陽を受けて赤く光っていた。
「悪魔契約者は、教会法で討伐対象だ。知ってるな?」
アリアの顔色が変わった。
「……レクス、まさか」
「辺境で悪魔契約者が活動している。その情報を教会に提供する。教会は審問局を動かす。俺たちは教会の後ろ盾を得て、討伐の先鋒に立つ」
レクスが立ち上がった。椅子が後ろに倒れた。
「悪魔契約者の討伐。それなら、Bランクでも大義名分がある。教会が認めた正義の任務だ。成功すれば、ランクの回復どころか、勇者としての名声も取り戻せる」
「レクス! それは違う! カイトは——」
「カイトは悪魔に魂を売った。それは事実だろう? お前がそう言った」
アリアの言葉が詰まった。事実だ。自分が報告した事実だ。否定できない。
「レクス様!」
ガルドが立ち上がった。大きな体を震わせて、だが目は輝いていた。
「俺もやります! レクス様についていきます!」
ガルドの顔に迷いはなかった。考えていない。レクスが言ったから従う。いつも通りの構図だ。
アリアだけが、座ったまま動けなかった。
眼鏡の奥の瞳に、後悔が溢れていた。自分の言葉が、取り返しのつかない方向に転がっていくのを、目の前で見ている。
止められなかった。あの夜、カイトの追放を。
止められなかった。今、レクスの暴走を。
二度目だ。
二度目の後悔が、アリアの胸の中に、重い石のように沈んでいった。
レクスは既に部屋を出ていた。教会に向かうために。大義名分を手に入れるために。
窓の外で、夕陽が沈んでいく。王都の屋根が、赤から黒に変わっていく。
アリアは、暗くなる窓を見つめたまま、動けなかった。
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