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第2話 妹のために

 王都レグナシオンの冒険者ギルド。


 朝一番で飛び込んだ俺を、受付嬢が怪訝な目で見た。


「ソロへの登録変更と、受注可能な依頼の確認をお願いしたい」


「……お名前は?」


「灰原カイト。『聖剣の導き』所属の――」


 言いかけて、止まった。


 所属、じゃない。もう昨日の話だ。


「……元所属の、灰原カイトです」


 受付嬢の目が一瞬だけ見開かれた。Aランクパーティ「聖剣の導き」。その名前は王都の冒険者なら誰でも知っている。知っているからこそ、受付嬢はすぐに察したのだろう。こいつは切られた側だ、と。


「少々お待ちください」


 事務的な声。同情もあざけりもない、きれいに感情を消した声だった。


 ギルドカードが処理されて戻ってくるまでの数分間、カウンターの木目をじっと見ていた。誰かが付けた刃物の傷跡が何本も走っている。冒険者ギルドの受付は、いつの時代も荒っぽい人間に削られてきたのだろう。俺の三年間もきっと、この傷の一本みたいなものだ。あったことすら気づかれない程度の。



 ◇



「灰原カイト様。登録変更完了です。現在のランクはF。ソロでの受注に制限はありませんが――」


 受付嬢が一瞬ためらった。指先が書類の端を撫でている。気を遣っているのが分かった。


「Fランクで受けられる依頼は、薬草採取や荷運びなどの非戦闘系が中心になります」


「報酬は?」


「一件あたり銅貨二十枚から五十枚ほどです」


 銅貨五十枚。大銅貨に換算して五枚。ユイの薬代は月に大銀貨三枚。三千レド。銅貨五十枚の依頼だと――六十件。一日に二件こなせたとしても、一ヶ月かかる。


 十日じゃ足りない。全然、足りない。


 胃の底が冷えていく。昨夜からずっとそこにある冷たさが、数字を突きつけられて一段深くなった。


「……戦闘系の依頼は?」


「Fランクですと、スライム討伐が銅貨三十枚。ゴブリン討伐がE以上の推奨になりますので――」


「報酬は?」


「銀貨一枚です」


 銀貨一枚。百レド。それでも三十件。十日で三件ペース。ゴブリンの巣を一日一つずつ潰しても間に合わない。しかもFランクのソロで突っ込めば、怪我もする。治療費で報酬が消える未来が、簡単に見えた。


「……掲示板、見てもいいですか」


 ギルドのロビーに出された依頼板の前に立つ。朝の掲示板は色とりどりの羊皮紙で埋まっていた。白い紙がFランク。青がE。緑がD。俺の目に入るのは白い紙ばかりだ。


『薬草採取(東の丘)――報酬:銅貨20枚』

『農場の柵修理――報酬:銅貨30枚+昼食付き』

『倉庫の荷物整理――報酬:銅貨15枚』


 紙が古びている。角が丸くなって、画鋲の穴が二つも三つもあいている。何度も掲示されては、誰にも取られずに戻ってきた依頼たち。


 右隣の青い紙に目が移る。Eランク。その隣は緑。Dランク。報酬の桁が一つ違う。手を伸ばしかけて、自分で手を引っ込めた。指先が青い紙の端をかすっただけで、まるで火に触れたような気がした。資格がない。Fランクの冒険者が、Eの紙に触れる権利すらない。


 掲示板の前で、俺は動けなくなっていた。


 どう計算しても足りない。何をどう組み合わせても、十日で大銀貨三枚は届かない。Fランクの外れスキルという壁が、あらゆる道をふさいでいる。


 頭の中でユイの手紙がよみがえる。


 ――お兄ちゃん、最近お薬が少し足りなくて、夜に咳が出ます。


 足りなくて。薬が、足りなくて。


 ……俺が足りないから、だ。


 掲示板の文字がにじんだ。拳を握った。爪が手のひらに食い込む。痛い。でも、この痛みの方がまだましだった。何もできない自分を突きつけられるよりは。


 ふと、左腕がずくりと疼いた。昨夜と同じ。脈を打つような、短い熱。


「おい、邪魔だぞ」


 後ろから声をかけられて我に返った。がたいのいい冒険者が、依頼板に手を伸ばそうとして俺をにらんでいる。革鎧の胸当てに、Dランクの徽章が光っていた。


「すみません」


 横にどいた。冒険者は青い紙を何枚かはがして、受付に向かっていった。迷いのない足取り。依頼を選ぶのに三十秒もかけていない。


 あれが、実力のある冒険者の当たり前だ。俺には、その「当たり前」がない。


 出口のない迷路の中で、時間だけが過ぎていく。あと十日。あと十日しかない。



 ◇



 結局、その日はスライム駆除と薬草採取を一件ずつ受けた。


 下水道のスライムは臭かった。石壁にこびりついた苔と汚水と、甘ったるい腐敗臭が混ざった空気の中を、膝までぬかるみに浸かりながら進む。粘液まみれになりながらナイフで核を砕く。ぐちゃりと潰れる感触が手のひらに伝わるたび、胃がせり上がった。戦闘というより掃除に近い。でも、核一つにつき銅貨十枚の追加報酬がつくと聞いて、一体も逃さず潰した。


 薬草採取は東の丘まで往復三時間。ひざ丈の草をかき分け、小さな白い花を探す。秋の風が冷たくて、かじかんだ指で茎を折るたびに青い汁がにじんだ。日が傾く頃には腰が痛くなっていて、帰り道は足を引きずった。


 夕方、ギルドに戻って報告を済ませる。


 手元に残ったのは、銅貨百五十枚。大銅貨に直して十五枚。宿代を引くと、百枚しか残らない。


 九日で大銀貨三枚。あと二千九百レド。


 数字にされると、腹の底がまた冷える。


 ギルド一階の酒場に腰を下ろした。一番安いエールを頼む。大銅貨一枚。こんな出費すら惜しいのに、何かのどを通さないと明日動けない。


 木のジョッキを両手で包んだ。ぬるいエールをひと口飲む。苦い。けど、空っぽの胃にしみた。液体が食道を落ちていく感覚だけが、今の俺に「生きている」と教えてくれる。


 酒場はそこそこ混んでいた。冒険者たちが大声で笑い、杯をぶつけ合い、今日の戦果を自慢し合っている。焼いた肉の匂いが流れてくる。誰かが頼んだシチューの湯気が、薄暗い天井に消えていく。


 昨日まで、俺もあっち側にいた。パーティの輪の中に――いや、輪の外だったか。でも、少なくとも席はあった。今は、それすらない。


 ジョッキの中のエールが揺れた。自分の手が震えていることに気づいて、慌てて膝の上に置いた。


 ――ユイ。ごめん。お兄ちゃん、なんとかするから。


 なんとかする。なんとかするって、どうやって。外れスキルで、Fランクで、所持金は銅貨数百枚。なんとかなる要素がどこにある。


 ……それでも。あきらめたらユイが死ぬ。それだけは、絶対に――


「ねえ」


 声がした。すぐ隣から。甘くて、どこか冷たい声。


「隣、いいかしら」


 顔を上げた。


 女が立っていた。


 長い黒髪が腰まで流れている。肌は白い。切れ長の赤い瞳が、酒場の安っぽいランプの光を受けてあやしく輝いていた。


 綺麗だ、と思った。場違いなほどに。


 冒険者の酒場に似合わない、黒い外套をまとった女。だれも声をかけないのは、この女の周りだけ空気が違うからだろう。近寄りがたいとか、そういうレベルじゃない。皮膚の裏側で、本能が警鐘を鳴らしている。


 なのに、目が離せなかった。


「……どうぞ」


 女は俺の向かいに座った。椅子を引く音すらしなかった。まるで最初からそこにいたかのように、自然に。


 酒場の喧噪がふっと遠くなった。


「ずいぶんと疲れた顔をしているわね」


「……はぁ、まあ」


「依頼板の前で三十分も固まっていたのは、お金が足りないから?」


 見られていた。いつから。気配なんて一切なかったのに。


「……人のことジロジロ見るのは趣味ですか」


「趣味よ」


 悪びれもしない。


 女は自分の分のエールも頼まず、頬杖をついて俺を見ている。赤い瞳が、値踏みするように細められた。白い指が、とん、とテーブルを叩く。一定のリズム。まるで何かの鼓動を刻むような。


「単刀直入に聞くわ」


 女が微笑んだ。綺麗な笑顔だった。だけど、目の奥が笑っていない。笑顔の形をした、別の何かだ。


「力が欲しくない?」


 心臓が跳ねた。


「……は?」


「あなた、おもしろいものを持っているのよ。自分では気づいていないみたいだけど」


 左腕が、ずくりと疼いた。今日一番強い疼き。脈打つような熱が、肘から指先まで一気に走った。


「っ……」


 思わず左腕を押さえた。


 女はそれを見て、笑った。さっきまでとは違う。心の底から楽しそうな笑み。口元が三日月のように弧を描いている。


「ふぅん。やっぱり」


「あんた……何者だ」


「秘密。でも、あなたに教えてあげられることがあるの」


 女が身を乗り出した。甘い香りがした。花のような、だけどどこか焦げたような、不思議な匂い。人間の女から、こんな匂いはしない。


「あなたのスキル、【魔力親和】だっけ? あれね――」


 声がひそめられる。赤い瞳が、ランプの炎を映して揺れた。


「外れスキルなんかじゃないわ。むしろ逆」


 酒場の喧噪が、遠い世界の音みたいに聞こえた。


 俺はジョッキを握ったまま、赤い瞳を見つめていた。動けなかった。逃げろ、と本能が叫んでいる。なのに体が椅子に縫いつけられたように動かない。


「ただし」


 女は人差し指を立てた。白く細い指。爪の先まで作りものみたいに整っている。


「タダじゃないの。あなたの魂の――死後の行き先を、私にちょうだい?」


 魂。


 その一言で、背筋に冷たいものが走った。首筋から腰まで、氷の指でなぞられたような悪寒。


 酒場の空気が変わった。さっきまでうるさかった周りの声が、一瞬だけ止まったように感じた。


「……あんた、まさか」


 女は微笑んだまま、何も答えなかった。

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