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第18話 悪魔に魂を売った男

 噂が広まるのに、三日もかからなかった。


 マルクスとの戦闘は街の外で行われたが、目撃者はいた。ラスティカの冒険者が何人か、丘の上から一部始終を見ていた。聖鎖に拘束されるカイト。聖と魔の同時攻撃。審問官の撤退。


 それだけなら、まだ良かった。


 だが、マルクスがギルドの酒場で俺の悪魔契約を口にした日、あの場には五十人近い冒険者がいた。五十人の口を塞ぐことはできない。


 「悪魔に魂を売った全属性魔法使い」。


 その言葉が、ラスティカの街を駆け巡った。酒場で。市場で。路地裏で。冒険者の間で。街の住人の間で。やがて辺境を越えて、街道を行き来する商人の口に乗って、近隣の街にまで広がっていった。


 変化は、最初は小さなものだった。


 ギルドの酒場で、俺の近くのテーブルが空くようになった。以前は声をかけてきた冒険者が、目を合わせなくなった。話しかけても、返事がぎこちない。笑顔の裏に、薄い壁がある。


「……気のせいじゃないわね」


 リーゼが朝の依頼選びの最中に言った。碧い瞳が酒場を見回している。冷静な観察。


「以前は私たちのテーブルの周りに人が集まっていた。今は半径二テーブル分、空いてる」


「気のせいだろ」


「気のせいじゃないわ。数えたもの」


 数えてたのか。


 変化は日を追うごとに大きくなった。


 依頼を受けようとすると、受付の男の態度はいつも通りだったが、ギルドの掲示板の前に立つ俺を見る冒険者たちの目が違う。


「おい、あれだろ。悪魔契約者」


「嘆きの将軍を倒した力、悪魔の力だったのかよ」


「怖ぇな。悪魔の力で冒険者やってるとか、ありかよ」


 囁き声は聞こえるように囁かれていた。俺に聞かせるためか、それとも自分たちの不安を共有するためか。たぶん両方だ。


 だが、全員が敵意を向けているわけではなかった。


「悪魔契約だろうが何だろうが、嘆きの将軍を倒したのは事実だろ。すげぇじゃねぇか」


 酒場のカウンターで、赤ら顔の冒険者が言った。ジョッキを掲げて、俺を見ている。


「俺はカイトに助けられたことがある。オーガの群れが出た時、ロスト・エデンが来なけりゃ死んでた。あいつが何の契約をしてようが、俺を助けてくれたのは事実だ」


「でもよ、悪魔だぜ? 教会が動くレベルの——」


「教会が動いて、それでも追い返したんだろ? あの審問官を。ますますすげぇよ」


 二分していた。「すごい」と「最低だ」。「助けてもらった」と「怖い」。ラスティカの冒険者たちの反応は、綺麗に半分に割れていた。


 辺境は、事情持ちに寛容な土地だ。だが、悪魔契約はその寛容さの限界を試す案件だった。



 ◇



 市場に買い出しに行った時だった。


 リュカの実を買おうとして露店の前に立ったら、店主が顔を曇らせた。前は「兄ちゃん、今日はいいのが入ってるよ」と声をかけてくれた爺さんだ。


「……あー、悪いな兄ちゃん。今日はちょっと品切れで」


 台の上にリュカの実が山積みになっている。品切れなわけがない。


「そうか。じゃあまた来るよ」


 背を向けた。仕方がない。店主には店主の都合がある。悪魔契約者に物を売ったという噂が立てば、客が離れるかもしれない。そう考えるのは、商売人として当然の判断だ。


 責める気にはなれなかった。


 隣の通りに入った時だった。


 石が飛んできた。


 小さな石。握りこぶしの半分ほど。右の頬を掠めて、後ろの壁に当たって落ちた。皮膚が切れて、一筋の血が頬を伝う。


 振り返った。


 路地の奥に、三人の男が立っていた。冒険者だろう。革鎧を着ている。見覚えのない顔。ラスティカの冒険者ではなく、近隣の街から来た連中だ。


「よう、悪魔契約者。辺境でぬくぬくやってるって聞いたぜ」


「お前みたいなのがいるから、この辺りの評判が落ちるんだよ」


「教会に突き出した方がいいんじゃねぇの?」


 三人とも酔っている。昼間から酒臭い。目が据わっている。正義感からというより、鬱憤晴らしに近い。標的が欲しかっただけだ。悪魔契約者という分かりやすい標的が。


 二個目の石が飛んできた。右手で受け止めた。小さな石。掌に収まる。温かい。さっきまで誰かの手の中にあった温度。


「…………」


 石を見つめた。握り潰すのは簡単だ。火で焼くのも。風で弾き返すのも。


 何もしなかった。


 石を地面に置いて、背を向けた。


「おい、逃げるのかよ! 悪魔の力で殴り返してみろよ!」


 足を止めなかった。路地を出て、大通りに戻った。頬の血を袖で拭った。浅い傷。すぐに止まる。


 大通りの角で、メルティアが立っていた。


 赤い瞳が俺の頬の傷を見た。それから、路地の奥を見た。三人の男がまだ立っているのが見える。


 メルティアの赤い瞳が、一瞬だけ細くなった。温度が消えた。瞳の奥に、人間のものではない光が灯った。


「メルティア」


「……何かしら」


「やめろ」


「何もしてないわよ」


「しようとしてるだろ。目が怖い」


 メルティアの瞳が、元に戻った。赤い瞳に温度が戻る。だが、口元は笑っていなかった。


「私の契約者をいじめるなんて、許さないわ」


 声は軽い。いつもの調子。だが、言葉の奥に刃がある。本気の刃が。


「いいんだ。あいつらの言ってることは、間違ってない」


「間違ってるわよ」


「悪魔に魂を売ったのは事実だ。それで力を得たのも事実だ。蔑まれて当然だろう」


「当然じゃないわ」


 メルティアの声が、少しだけ強くなった。


「あなたは妹を救うために契約した。自分のためじゃない。利己的な契約と、あなたの契約を一緒にしないで」


「……悪魔にとっては同じだろ。魂は魂だ」


「同じじゃないわよ」


 メルティアが一歩、近づいた。赤い瞳が真正面から俺を見ている。


「少なくとも、私にとっては」


 声が低い。冗談の色がない。からかいの色がない。千年を生きた上位悪魔が、真剣な顔で、人間の魂の価値について話している。


 矛盾だ。だが、メルティアそのものが矛盾の塊だ。悪魔でありながら人間に寄り添い、魂を喰う側でありながら契約者を気遣う。


「……ありがとう、メルティア」


「お礼を言わないで。照れるから」


「お前が照れるの初めて見た」


「照れてないわよ♪」


 いつもの笑顔に戻った。だが、赤い瞳の奥に、さっきの静かな光がまだ残っていた。



 ◇



 宿に戻ると、リーゼが待っていた。


 俺の頬の傷を見た瞬間、碧い瞳が鋭くなった。


「誰にやられたの」


「知らない冒険者だ。気にするな。大したことない」


「大したことないかどうかは私が決めるわ。座って。消毒する」


 有無を言わさず椅子に座らされて、リーゼが布に薬液を染み込ませて頬の傷を拭いた。沁みる。だが、リーゼの手つきは丁寧だった。


「……石を投げられたの?」


「まあ」


「やり返さなかったの?」


「やり返してどうする。悪魔契約者が人を殴ったら、余計に噂が広がるだけだ」


「それは、そうだけど」


 リーゼの手が止まった。碧い瞳が俺を見ている。怒りがある。だが、俺に対してではない。石を投げた相手に対して。そして、何もできない自分自身に対して。


「カイト。あなたは私たちの仲間よ。誰が何と言おうと」


 静かな声だった。だが、リーゼの声には嘘がない。第10話の夜、魔印を見ても「属性なんて関係ない」と言い切った少女の声。あの時と同じ重さがある。


「世界中が敵になっても、私はあなたの味方よ。それだけは、絶対に変わらないから」


「…………」


「何か言いなさいよ」


「……ありがとう。それしか出てこない」


「十分よ」


 リーゼが布を片付けた。碧い瞳が一瞬だけ潤んでいた。すぐに横を向いて、俺には見せなかった。


 部屋の隅で、シアが膝を抱えて座っていた。マルクス戦の疲れがまだ抜けきっていない。顔色が白い。だが、紫の瞳は俺をまっすぐ見ていた。


「カイトさん」


「ん?」


「カイトさんは、良い人です」


 唐突だった。だが、シアの紫の瞳に迷いはなかった。


「魂の行き先が変わっても、心は変わらない。……私はそう信じています」


 小さな声だった。だが、聖女の声には祈りに似た力がある。信じている、という言葉が、ただの慰めではなく、祝福のように響いた。


「……お前たちに会えて、よかった」


 それだけ言った。それ以上は、声にならなかった。


 窓の外では、ラスティカの夕暮れが始まっていた。噂は広がり続けている。明日はもっと視線が増えるだろう。明後日はもっと。


 だが、この部屋の中だけは変わらない。四人分の温度がある。


 それで十分だった。



 ◆



 王都レグナシオン。冒険者ギルド本部。


 掲示板の前に、一枚の通知が貼り出された。


「パーティ『聖剣の導き』。ランク評価を暫定Bに降格とする。次回査定までにAランク相当の実績がない場合、正式にBランクへ変更」


 通知の前に、人だかりができていた。囁き声が飛び交っている。


「勇者パーティが暫定B……?」


「最近、依頼の達成率が落ちてたらしいぞ」


「Aランクがオーガに苦戦したって噂、あれマジだったのか」


 人だかりの後ろを、セレナが通り過ぎた。猫のように鋭い目で通知を一瞥し、唇を噛んで、何も言わずにギルドを出ていった。


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