第12話 もう遅い
オーガの死骸が転がる広場で、二つのパーティが向かい合っていた。
片方は四人。聖剣の導き。Aランクパーティ。勇者レクス・グランディアを筆頭に、鉄壁のガルド、鷹の目のセレナ、風読みのアリア。全員が傷を負い、息を荒げている。
片方は三人。ロスト・エデン。暫定Dランク。灰原カイト、リーゼロッテ・フォン・シュタイン、メルティア。息は乱れていない。
秋風がオーガの血の匂いを運んでいく。倒れた大型オーガの甲殻が砕けた断面に、午後の日差しが当たって鈍く光っていた。
レクスが聖剣を鞘に収めた。金属の鳴る音が、静まり返った広場に響く。
「カイト」
低い声だった。怒りを押し殺している声。だが、怒りの下に別のものが混じっている。動揺。困惑。そして、認めたくないものを認めかけている男の脆さ。
「お前……その力は何だ」
金色の瞳が俺を射る。
「お前は外れスキルだったはずだ。【魔力親和】、評価F。鑑定士がそう言った。俺も確認した。三年間、お前は何もできなかった」
「ああ。その通りだ」
「なら、今のは何だ。あの爆発は何だ。雷は何だ。Fランクのスキルで、融合魔法が使えるはずがない」
レクスの声が上擦っている。冷静でいたいのに、感情が漏れている。金色の瞳の奥に、恐怖と似たものがちらつく。三年間自分の足元にいた男が、自分よりも遥かに強い力を振るっている。その事実が、レクスの世界観を壊している。
「まあ、色々あってね」
自分でも驚くほど淡白な声が出た。
怒りが溢れると思っていた。三年間の屈辱を叩きつけてやると思っていた。だが、いざ向き合ってみると、そういう感情は薄かった。
薄いのではない。もう、過ぎたのだ。追放された夜、悪魔と契約した夜、辺境の街で一人で依頼をこなした日々、リーゼと出会い、ノアに教えられ、嘆きの将軍を倒した夜。その全てが、レクスへの怒りを上塗りして、別のものに変えていた。
「心配してくれてありがとう、元リーダー」
皮肉だった。だが、声に毒は乗らなかった。事実を述べただけ。レクスはもう俺のリーダーではない。それだけのこと。
レクスの顔が強張った。こめかみの血管が浮いている。
「……心配なんかしてねぇ。聞いてるんだ。お前の力の正体を」
「答える義理はないだろう。俺はもうお前のパーティの人間じゃない」
「っ……」
レクスが一歩踏み出した。だが、それ以上は来なかった。踏み出した足が、地面の上で止まっている。
背後で、ガルドが不安そうな顔をしていた。大きな体を縮めて、視線をレクスとカイトの間で往復させている。セレナは腕を組んで、冷めた目で状況を観察していた。猫目の奥にあるのは、計算だ。今起きていることが、自分にとって得か損か、測っている。
アリアだけが、違う場所を見ていた。
俺の左腕を。
眼鏡の奥の瞳が、じっと俺の左腕に向けられている。何かを感じ取っている目。風読みのアリア。魔力の流れを「風」として感知するスキル。
――まずい。
だが、今はアリアのことに構っている場合じゃない。
「レクス。一つだけ聞いていいか」
「……何だ」
「聖剣の調子はどうだ」
レクスの顔色が変わった。
目に見えて。金色の瞳から余裕が消えて、代わりに剥き出しの焦りが表面に出た。無意識に、聖剣の柄に手が伸びる。握る。離す。また握る。第一話の追放の夜と、同じ仕草。
「……何のことだ」
「さっきのオーガ。Aランクの勇者なら、あの程度は一撃だったはずだ。でも、お前の聖剣はオーガの皮膚しか切れていなかった」
「調子が悪いだけだ」
「本当に?」
沈黙が落ちた。秋風がオーガの血の匂いを運んでいく。
レクスの手が聖剣の柄を握りしめていた。白くなるほどに。
言い返せないのだ。調子が悪いだけ、という嘘が、もう通用しないことを、レクス自身が分かっている。
「……お前がいなくなってから、聖剣の出力が落ちた」
レクスの声が、初めて、低く沈んだ。
怒りでも虚勢でもない。事実を認める男の声。苦い。口に出すだけで喉が灼ける類の言葉を、絞り出している。
「理由は分からねぇ。お前がパーティにいた頃は問題なかった。お前がいなくなった途端、聖剣の切れ味が鈍り始めた。最初は気のせいだと思った。だが、一ヶ月経っても戻らない。二ヶ月経っても。三ヶ月経った今、Cランクの魔物にすら苦戦するまで落ちた」
Aランクの勇者が、Cランクの魔物に苦戦する。それがどれほど異常なことか、この場にいる全員が理解していた。
ガルドの顔が蒼白になっている。セレナの冷めた目に、計算ではない色が混じった。焦りだ。
アリアだけが、表情を変えなかった。既に知っていたのだろう。聖剣の不調の原因が、カイトの離脱にあることを。風読みの彼女なら、魔力の流れの変化に最初から気づいていたはずだ。
「だから――」
レクスが俺を見た。金色の瞳が揺れている。プライドと現実の間で引き裂かれている。
「戻ってこい、カイト」
声が震えていた。
「お前の力が必要だ」
あの日、レクスは言った。「お前みたいな無能がパーティにいたら格が落ちる」。
今、レクスは言っている。「お前の力が必要だ」。
矛盾している。だが、レクスの中では矛盾していないのだろう。「使えない奴は切る」「必要になったら呼び戻す」。どちらも同じ論理の両面だ。人を道具として見ている。三年前も、今も。
怒りは湧かなかった。
代わりに、悲しみに似た何かが胸の底に沈んだ。ああ、この人は変わっていないんだ、と。三ヶ月経っても。聖剣が曇っても。部下が苦しんでも。
変わったのは、俺の方だ。
「もう遅い」
静かな声だった。
「もう遅いよ、レクス」
レクスの金色の瞳が見開かれた。
「俺には今、一緒に冒険してくれる仲間がいる」
右隣に、リーゼが立った。銀の髪。碧い瞳。剣の柄に手をかけたまま、背筋をまっすぐに伸ばして。何も言わない。ただ、そこにいる。
左隣に、メルティアが立った。黒髪に赤い瞳。いつもの微笑みを浮かべて。場違いなほど穏やかに。だが、その佇まいには、触れたら切れるような静かな圧がある。
三人が並んだ。
レクスの視線が、リーゼとメルティアの上を通過した。金色の瞳に、いくつもの感情が去来する。怒り。屈辱。そして――寂しさ。最後の一つは、一瞬だけ表面に浮かんで、すぐにレクス自身の手で押し殺された。
「……そうか」
レクスの声が、搾り出すように低い。
拳を握りしめている。爪が掌に食い込んでいるだろう。だが、それ以上は何も言わなかった。
背を向けた。
「行くぞ」
ガルドがびくりとして追いかけた。セレナが肩をすくめて、猫のように音もなく続く。
アリアだけが、少し遅れた。
振り返った。眼鏡の奥の瞳が、俺を見ていた。
「カイト」
小さな声だった。風に消えそうなほど小さい。だが、俺の耳には届いた。
「……ごめんなさい。あの時、私が止めていれば」
追放の夜のことだ。アリアは反対した。だがレクスの一言で黙った。それを、ずっと悔いている。
「気にするな。お前のせいじゃない」
「でも……」
「アリア」
レクスの声が飛んだ。振り返らずに。だが、鋭い。
アリアが唇を噛んだ。眼鏡の奥の瞳に、後悔と何か別のもの――決意の芽のようなものが一瞬だけ光って、消えた。
「……元気で」
それだけ言って、アリアはレクスの後を追った。
亜麻色の髪が、秋の風に揺れて遠ざかっていく。小さな背中。三年間、パーティの中で一番俺に近い位置にいた人間。追放に反対してくれた唯一の人間。
その背中が、街道の向こうに消えるまで見送った。
「……大丈夫?」
リーゼの声。横を見ると、碧い瞳が俺を心配そうに見ていた。
「ああ。大丈夫だ」
「嘘。でも、聞かないでおくわ」
リーゼが俺の方に歩み寄って、ぽん、と肩を叩いた。小さな手。剣だこで硬い手。
「帰りましょう。薬草採取の依頼、まだ終わってないわよ」
「……ああ、そうだった」
「忘れてたの?」
「色々あったからな」
メルティアが俺の反対側に並んだ。赤い瞳が、レクスたちが去った方角をちらりと見て、すぐに俺に戻った。
「面白い人ね、あの勇者。聖剣の出力低下の原因があなたの離脱だって、本人の口から白状するなんて」
「……面白がるな」
「面白いわよ。だって、あの男は認めたの。あなたがいなければ自分は弱いって。勇者が、追放した元荷物持ちに、頭を下げかけたのよ」
「下げてはいなかった」
「下げかけた。それで十分よ」
メルティアの声に、珍しく熱がこもっていた。からかいではない。何かに満足しているような、温かい声。
「あなたの価値を、あの男は三年間見誤っていた。今日、それが証明された。あなたの力で。あなたの仲間の力で」
「…………」
「それでいいのよ。それが、あなたが選んだ道の正しさの証拠」
メルティアが微笑んだ。いつもの笑顔。だが、赤い瞳の奥に、あの「ひっそりとした表情」が一瞬だけ見えた。ユイの村からの帰り道で見た、あの静かな光。
三人で街道を歩き始めた。秋の日差しが長い影を作る。三つの影が、枯れ草の上に並んで伸びていた。
足取りは軽い。胸の底に沈んだ悲しみは消えていないが、両隣に仲間がいる重みが、それを支えてくれている。
◇
その夜、ラスティカの宿。
レクスたちは別の宿を取っていた。明朝には王都に戻ると聞いた。
俺は宿の部屋で一人、窓の外を見ていた。月が出ている。追放された夜と同じ月だ。あの夜は一人で見上げた。今は、隣の部屋にリーゼがいて、向かいの部屋にメルティアがいる。
同じ月でも、見え方が違う。
レクスの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
「お前の力が必要だ」。
あの一言を、三年前に聞きたかった。お前が必要だ、と。荷物持ちとしてではなく、仲間として。
でも、レクスは今日も「力が必要だ」と言った。「お前が必要だ」とは言わなかった。
その違いが、全てだった。
窓を閉めた。ベッドに座って、左腕の袖をまくった。
魔印。肘を超えて上腕まで広がった黒い紋様。暗い部屋の中で、微かに脈打っている。
これが、俺の選んだ代償だ。
後悔はない。レクスのところに戻る気もない。
だが、一つだけ気がかりがあった。
アリアの目。
あの最後の瞬間、アリアは俺の左腕を見ていた。風読みのスキルで、魔力の流れを感じ取っていたはずだ。俺の左腕の周りに、普通の人間にはない魔力の渦があることに、気づいたはずだ。
アリアがそれをレクスに報告するかどうか。報告したとして、レクスがどう動くか。
……考えても仕方がない。今できることをやるしかない。
明日はまた依頼がある。リーゼが計画を立てているはずだ。メルティアが朝からエールを飲んでいるはずだ。ノアが魔導書の中から小言を言うはずだ。
日常は続く。追放者たちの、小さな楽園は続く。
目を閉じた。
左腕の魔印が、暗闇の中で静かに脈打っていた。
◆
宿の廊下で、アリアは足を止めた。
眼鏡を外す。手が震えていた。
カイトの左腕に感じた魔力。あれは人間のものじゃない。黒い渦。脈動する紋様。教会の資料で読んだことがある。悪魔契約者の特徴。
レクスに報告すべきだ。だが、足が動かない。
――「気にするな。お前のせいじゃない」。
あの穏やかな声が、耳に残っている。
アリアは壁に背をつけたまま、動けなかった。
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