第3話
さて、この物語の主軸とも言える話だ。
忘れもしない二年目の夏。休職について、である。
空はその3ヶ月位前の4月中頃に社内事故を起こす。
幸い怪我人は無く、車も内部へのダメージは無く部品交換でほぼ新品になった。
周りのスタッフ全員が彼女に
「大丈夫だよ」
「空が無事で良かった」
「物は直せるけど、人は治せない事もある。大事なのは人と生活だよ」
と声を掛けてくれる。
それはきっと本心であり、同時にありがたい言葉。
しかし空はその言葉をそのままには受け取れなかった。
(どうしよう……皆気を遣ってくれてる。私、お客様にもお店にも迷惑掛けてどうやって償えば?)
そう思う空は嘘が得意過ぎた。無自覚な嘘は本人にも見破れない。
「ありがとうございます。今はアレですけど、少しずつ働きで返せるようにしますね」
と返した。
皆疑う事は無かった。
容易く裏切られるとは空自身にも分からなかった。
事故を起こしてから、いつもの様に出勤、いつもの様に退社を繰り返す事三ヵ月。 空のポーカーフェイスは崩れない。
寧ろその嘘は、空にも崩せない程彼女に根付いているのではないか?
「今日はね、こんな整備して、こんな話して、先輩は〜〜。母ちゃんは明日旅行だね。婆ちゃんと叔父さんによろしく♪」
と夕食の会話を盛り上げる空の中で、方法は決めずとも自殺決行の日時を周到に練って計画立てているだなんて誰が見抜けるのか。
翌日、仕事へ向かう父親、珍しく旅行に行く母親の順に見送り、ゆっくりとソレを持ってくる。
よくある出刃包丁だ。それと向き合う空の瞳に様々な感情が映る。
切腹のつもりか始めに腹部に当てる。
切る、ではなく刺す向きで握る手には微かな震え。
(このまま刺せば終われる?痛い、かな。血は苦手だけど…)
しかし、その手は動かない。
駄目と判断し、次は首へ。頸動脈辺りを引き切れば…
いや、思い切って頭に突き刺そうか…
色々考えながら包丁を突き立て、腕を何度も動かす。
しかし刃は触れるのみ。肌は少し凹むのみ。
いつ迄経っても実行は出来ない。
純粋に怖かった。
これでは死ねない、と包丁を寝床に隠して外に。
数百円の小銭だけを持って。
携帯電話や免許証、通勤路が載った定期券がその現場に有れば自分の身元特定や家族への連絡が早まると考え置いていく。
外へ出た空は先ず
「電車しか無い。電車へ飛び込もう。通過する電車なら確実」
最寄り駅では無く、普段乗り換えに使う駅まで歩く。
最安の切符を買い、ホームへ。
電光掲示板を見ながら通過電車を震えながら待つ。
(…来た)
処刑台を昇る罪人の様な足取りでその淵へ立つ。
そう。これは処刑だ。
あと少しで通過する電車を死んだ目で見据えつつ、端へ躙り寄り…
一歩、前へ。
次に空が見たモノは、駅から離れた閑静とした道だった。
記憶が途切れたのかすら良く分からない。駄目だったという事だけ悟った。
別の駅へと行き、辺りを物色する。
螺旋階段が外から見えるマンションを見上げる。
ここなら、と考え最上階まで登り、今度は螺旋階段から見下ろす。
大人でも怖気づくその高さなら、と意を決し胸の高さ位まで有る壁に手をかける。
そっと力を籠め、下を何度も何度も確認。
近くに人は無く、時間や曜日を考えても住人との接触の可能性はかなり低い。
飛び降り自殺を決めた時点で、周りを気にする余裕等無いのは当然。
しかし赤の他人を巻き込むのだけは御免だった。
完全に一人で成功したとしても住人を初め関係者に多大な迷惑を掛ける事になるのだが、身を乗り出した空がそれに気付く筈も無く。
しかしまた次の瞬間、別の場所を歩いている空。
一体何故駄目なのか…自分がこれ程迄にビビりだったなんて…
次は自走式立体駐車場へ。
三階の端っこへ歩いていき、下を覗き込んだだけ。
ただそれだけで立駐からの飛び降りは失敗し、またしても場面は変わる。
やがて空は市と市を跨ぐ大きな川へやってくる。
そこはテレビで良く出る有名な場所。
野球をする少年達の声やバットやグローブに当たるボールの音を聞きながら、橋へと歩みを進める。
今度は登る事すら出来なかった。
いや、許されなかったといった方が正しい。
全ての自殺は空の中の「何か」によって阻まれる。
自殺は本気だし、実行もした。
葛藤も焦りも不安も心配も未練も全てを抱え、悩み抜きそれでも死ぬしか無かった。
きっかけは車をぶつけた事かも知れない。
自覚しつつある自分の運転能力の低さに日々ジリジリ摩耗していったのかも知れない。
…よく、わからない。
力がフッと抜ける様な感覚に襲われたかと思えば次の場所に、を繰り返す事四度。
最後に河川敷で仰向けとなっていた空に映ったのは先ず「灰色の壁」。
次に「川の綺麗さ」と「空腹」。
壁は橋の下から覗いた光景で、左に目をやると川が有った。
水の香り、せせらぎ、川の水面に映る遠くの緑達。
其れ等は多分、空が渇望した穏やかさだったのだろう。
精神的にも身体的にも疲れ切っていた空は場所を少し移し、川辺りの草むらに横たわる。空腹は寝て誤魔化す事にした。
警察に見つかったら補導されると思って、なるべく見つからなそうな所へ。
朝から何も口にせずに一日過ごした空。
夜露に濡れた草に体温を奪われたのが原因の寒さに思わず起きる。
夏場では有るが震える程寒かった。恥ずかしい話だが、尿意も有る。
時計が無く時間は分からないが、近くの店が開くのはまだまだ先といった暗さ。
空は歩きながら考え、駅から近い大きな地下街へと来る。
ここなら常に開いているし、トイレもあるハズ。
予想通りにトイレを見つけ、用を済ませてから「疲れた…家、帰ろ」という思考に。
せっかくの駅近、地下街なのにお金を切らした空は徒歩で帰宅する。自業自得だが皮肉なものだ。
空腹や喉の乾きは強烈に感じるが、帰巣本能くらいしか働いて無かったのかと思うくらい歩くことしか出来ない。
公園とかで水を飲んでいたらどれほど潤いを与えられていたのか。
五㎞程歩き、家の階段を上がり玄関を開ける。
そこでは兄の彼女を含めた父親以外の家族が立ったまま「警察に通報しよう」といった雰囲気を醸し出しつつ話し合っている。
空はそんな彼らに見向きもせず、余裕無く自分の部屋に行き布団を被る。
程なくして意識が落ち、丸2日間寝る。
この一日で彼女の中で確実なる「何か」が現れ始めていた。
その事実はやがて空の根底を大きく揺るがす事になるのだが、今はただ眠れ。
流れに全てを任せて。




